『孤狼の血』で暴力団抗争、『盤上の向日葵』で将棋を描き話題となった著者が、初めて医療小説に挑んだ。
「東日本大震災を経験した影響もあり、人が人の命を救うことの難しさを年々感じるようになりました。技術が進んでも人間ができることには限界がある。命とは“生きる”とは何なのだろう、と考えたのが出発点です」
北中大(ほくちゅうだい)病院の西條泰己(やすみ)は、手術支援ロボット「ミカエル」での心臓手術を成功させて院内での地位を不動のものにした。しかし病院長は心臓手術の名手・真木一義をドイツから招聘。ライバル出現に心穏やかでない西條と、神がかりの技量を持ちながら他者の評価を一切気にしない真木。12歳の白石航(わたる)の手術にミカエルを使うか、真木が執刀するかで二人は衝突する。
「才能を理解できるから嫉妬してしまうのに、相手は歯牙にもかけずしれっと『君も優秀だ』と認めてくる。これって一番腹が立つパターンなんですよね(笑)。二人は対照的な個性ですし手段も違いますが、命を救うという目的は同じ。善悪で決められるような対立ではないからこそ根深いんです」
真木という人物を象徴するのが、彼が乗るアウトドア仕様の真っ赤なベンツだ。派手で高価な車だと西條は嫌悪するが、駆動力も目立つ色もすべて急患要請に応じるためだと後に知る。
「真木は合理的で、目的に対して自分なりの答を既に持っている人物です。彼が動じないからこそ、ミカエルという最新技術を手にして揺れ惑う西條を書けたのだと思います」
技術の進歩は人類の救いだが、未知のものに不安を覚えるのも人の常だ。「僕、人工弁はいやだ」と拒む航だけでなく、体に人工物を入れる忌避感は西條の過去にも関わっている。
「自然と人工という対比がずっと頭にありました。自然は美しいとされますが、私は、自然に抗おうとする人間のあがきを美しいと思います。ミカエルや西條は“あがき”なんです」
医療は綺麗ごとだけでは語れない。病院内の人事バランス、医療機器メーカーとの関係、個人の野心。二人の医師を取り巻く人々の思惑が絡み、反発し、それでも「人を救う」という理念だけは合致する人間模様の複雑さに引き込まれる。選ばれるのは西條のミカエルか真木の“神の手”か――。
「自然か人工か、小説一作で結論を出せるほど簡単ではないからこそ書きたかった。自分が分からないから小説を書くのだという思いはデビューから変わらずあります。そして世界は分からない事だらけ。つまり、生きている限り小説を書けるってことですね」
柚月裕子(ゆづきゆうこ)
1968年岩手県生まれ。2008年「臨床真理」で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビュー。16年『孤狼の血』で日本推理作家協会賞を受賞。
第166回直木三十五賞選考会は2022年1月19日(水)に行われ、当日発表されます。