本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

文:藤本 聡 (展覧会プロデューサー)

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・コミックエッセイ

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

 緊張が過ぎて、そのときの講演の内容は一切覚えていないのだが(すみません!)、講演会終了後、ついにそのときがやってきた。伝手がなくアポなしでの突撃だったが、中野さんと直接話す機会を得たのだ。私はたどたどしくも、とにかく『怖い絵』に感動したことと、『怖い絵』展が実現したらいかに素晴らしいかを熱く語った。「自分なら企画を成し遂げられる」とのアピールも忘れなかった。中野さんの返答は「実現したら面白そうですね」と拍子抜けするほどあっさりしたものだった。しかし考えてみれば、見知らぬ人間からの突拍子もない夢物語には至極当然のリアクションだった。よくぞ私の話を最後まで聞いてくださったものだ。 

 初対面から展覧会が実現するまでには8年を要することになる。その間、様々なことが遅々として進まず、我々は出品交渉の進捗に一喜一憂し、運命を共にする同志として『怖い絵』展の荒波に揉まれ続けたのだった。

 出会いからしばらくして中野さん、兵庫県立美術館の学芸員の岡本弘毅さんと初の本格的な打ち合わせを行った。その席上、中野さんから、展覧会の目玉作品を必ず借りて欲しいとリクエストがあった。具体的には、「レディ・ジェーン・グレイの処刑(ポール・ドラローシュ作/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)」、「わが子を喰らうサトゥルヌス(フランシスコ・デ・ゴヤ作/プラド美術館蔵)」、本書でも紹介されている「メデューズ号の筏(テオドール・ジェリコー作/ルーヴル美術館蔵)」からどれか1点は必ず、というお題だった。いずれも、出品が叶えば間違いなく話題になる作品だ。しかし、富士山にも登ったことがないのにいきなり「エベレストに一人でチャレンジしてきて」と言われるほどの難題だった。心なしか岡本さんの顔も凍りついたように見えた。果たして、『怖い絵』展は本当に実現できるのだろうか……、心の中には早くも暗雲が垂れ込めていた。

 3点それぞれについて調査を進めると、いくつかの事実が明らかになってきた。まず、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」。この作品は大きくて(縦2・5メートル、横3メートルある)輸送するのはかなり困難だが、フランスに貸出した記録を発見した。門外不出ではないということだ。続いて「わが子を喰らうサトゥルヌス」。こちらは絵の状態があまりよくないため海外への輸送には適さない。借用はほぼ絶望的との関係者の情報を得た。最後に「メデューズ号の筏」。この作品はとにかくサイズが大きすぎる(縦5メートル、横7メートル)ため、日本に輸送して展示するのは現実的には不可能ということがわかった。唯一、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」には一縷の望みがあるのではないか、そう思い込むことにして我々はこの作品をターゲットに決めた。

 今や中野京子ファン、『怖い絵』ファンの読者の方にはよく知られた作品だが、改めてこの作品について触れておく。

 弱冠16歳でイギリス女王に戴冠したジェーン・グレイが自身は何も知らないうちに謀略の渦中に巻き込まれ、幽閉の後に斬首された悲劇的な史実を19世紀ロマン主義の画家ポール・ドラローシュが劇的に描いた名作である。中野さんは著作の中で、ジェーン・グレイが幽閉されるまでの歴史背景から、画面上の処刑人や司祭の心情、ジェーン自身の心の内までを細やかに語り、読者をまるで舞台のクライマックスを見ているかのような不思議な感情に誘う。それだけでなく我々は、絵に描かれていない彼女のその後の結末(死後の姿)までも思わず想像し、彼女の悲惨な最期に涙する。

 この3点以外にも、展示候補として、あまたの作品がリストアップされた。選定の手順だが、まずは中野さんの著書に登場する絵画のうち、借用交渉に応じてくれそうな美術館所蔵の作品をリスト化し、展覧会のコンセプトに応じて◎〇△×を付けていく。本書でも紹介されているブリューゲル、クリムト、ルーベンスなどは必ず展覧会に入れたい作家としてリストアップされていたが、残念ながらいずれも出品は叶わなかった。中でもルーベンスの「メドゥーサの首」は◎作品として、優先的に交渉を続けたのだが残念ながら借用には至らなかった。名画はどの美術館にとっても、まさに宝。その貸出交渉は成就しないことのほうが多いのが現実だ。

文春文庫
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

定価:891円(税込)発売日:2022年02月08日

電子書籍
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

発売日:2022年02月08日

ページの先頭へ戻る