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下北沢の踏切で目撃された幽霊… そんな筈はないと真相究明に乗り出した記者・松田が見たものは?

下北沢の踏切で目撃された幽霊… そんな筈はないと真相究明に乗り出した記者・松田が見たものは?

高野 和明

電子版43号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版43号」(文藝春秋 編)

プロローグ 三号踏切

 一九九四年の晩秋、箱根湯本駅に停車中の列車の横を、運転士の沢木秀男が歩いていた。制服の冬用コートを着込み、手には業務用の鞄を提げている。彼は今、観光用の車両で終着駅に到着したばかりだったが、まだ仕事は終わっておらず、同じ列車を運転して都心に戻らなければならないのだった。日はとっくに暮れており、紅葉の行楽シーズンも終わった平日とあって、特急の最終電車への乗車を待つ客は数えるほどしかいなかった。

 沢木運転士が勤務する大手鉄道会社は、日本最大の繁華街・新宿と、温泉景勝地の箱根を結ぶ、約九十キロの区間で営業していた。この本線の他にも、途中から枝分かれした二本の支線が、郊外の住宅地から古都鎌倉、湘南の海に至るまでを網羅しており、市民の生活用途と観光輸送の二つを担う特異な路線となっている。そのため、運転形態は特急、急行、準急、各駅などと複雑を極め、運転士の日々の乗務パターンは数百通りに細分化されていた。

 沢木のこの日の担当は、『三〇五仕業』だった。午前遅くから深夜まで乗務し、最終停車駅に仮泊して翌朝からの仕事に備える泊まり勤務である。三百番台の数字が振られた仕業は、特急車両への乗務が許されたベテラン運転士だけに割り当てられるものなので、まだ三十代前半の沢木にとっては誇らしく思える業務だった。

 オレンジ色に塗装された車列に沿って歩き、流線型をした先頭車両まで辿り着くと、島式ホームの反対側に顔馴染みの運転士を見つけた。後輩の堀田だ。四角い通勤型車両に乗り込もうとしていた堀田は、沢木に気づくと、小走りにホームを横切って来た。革紐で結ばれた運転室の鍵とレバーシングハンドルが触れ合って、軽い音を立てた。

「ここで会うのは珍しいな」

 沢木が言うと、堀田は笑って応えた。

「倍勤を頑張ってるんです」

 他の運転士の休暇の穴埋めをすることを『倍勤』といい、一昼夜分の賃金が増えるので、申し込み窓口には希望者が列を作る。「倍勤を頑張って、家を建てる」というのが、若い運転士たちの合言葉になっていた。

 出発前のわずかな時間を、二人の運転士は互いの近況報告で過ごした。沢木がそろそろ運転席へ向かおうと考えた時、堀田がふと真顔になって話題を変えた。「最近、人身がないですね」

「うん」と、沢木は記憶を探った。「もう三週間になるかな」

「お互い、気をつけていきましょう」

「しかし、いくらこっちが気をつけていても、あれだけは避けられないだろう」

「まあ、そうですね」と堀田は困ったように言った。それから時計を一瞥し、

「また、どこかで会いましょう」と会釈して、自分の担当する車両へと戻って行った。

 沢木も、特急の先頭車両に乗り込んだ。観光客を東京から箱根へと運ぶために設計された三一〇〇形は、運転室が二階に設けられていた。一階の客席最前列を、前方百八十度の視界が楽しめる展望席とするためである。沢木は腕を伸ばし、低い天井に設置されたシャッターを開け、梯子を使って階上に上がった。閉じたシャッターの上にスライド式の座席を設置すると、二階の運転室は仄暗い密閉空間となった。

 腰を下ろした沢木は、懐中時計を運転台に置き、一日の業務の詳細を記した仕業カードを掲示し、背筋を伸ばして前方に延びる鉄路を眺めた。この簡単な儀式により、短い時間で仕事への緊張感を高めることができる。

 次にブレーキ弁レバーをセットして、常用制動試験に取りかかった。非常ブレーキ、全緩解、常用最大と、各ブレーキ位置について、空気圧が正常かどうかを見ていく。圧力ゼロの状態が最大ブレーキだ。レバーを段階的に緩めると、圧力計の針もそれに追随して動き、全車両を貫通する制動装置に異常がないことが確認された。

 最後にこの形式特有のチェック事項、変速装置のモードを確かめた。低速用の直列モードになっているので、発車後の加速にも問題はない。沢木は後方の車掌にブザーを送り、出発準備が整ったことを告げた。

 発車時刻までは、まだ少しの間があった。窓越しに出発信号機を見つめていると、先ほどの堀田の言葉が蘇った。

 最近、人身がないですね。

『人身』とは、人身事故の略称だが、実際には鉄道自殺を意味する隠語である。高速安全輸送を社是とする沢木の会社は、徹底した安全対策を行ない、過去十五年以上に亘って責任運転事故が皆無という特筆すべき記録を打ち立ててきたが、会社側の責任が問われない人身事故、即ち年間三十件ほど起こる飛び込み自殺だけは防ぎようがなかった。電車という乗り物は、エネルギー効率を高めるために車輪とレールの摩擦を最小限にするように設計されているので、急停止には不向きなのである。実際、駅間走行中に非常制動を掛けても、列車が停止するまでは数百メートルの距離を要する。だからこそ鉄道法規では、線路を専用軌道として、電車に優先交通権を与えているのだ。その軌道上に何者かが不意に侵入して来たら、衝突を回避する手段はない。

 堀田の発した「最近、人身がない」という嘆きにも似た言葉は、運転士にしか分からない複雑な心境を、正直に、そして端的に吐露したものだった。事故がないのは喜ぶべきことなのだが、無事故の期間があまりに長くなると、近いうちに自分の身に起こるのではないかという不安が頭をもたげてくるのである。特に沢木も堀田も、これまで一度も人身事故を経験していなかった。通過駅のプラットホームから人が飛び降りたら、あるいは制限速度いっぱいで差しかかった踏切の中へ通行人が飛び出して来たら、運転士はどれほどの恐怖を覚えるのか。そして首や手足がばらばらに四散した遺体を集めるのがどれほどおぞましい体験なのか、想像すらつかないでいた。


この続きは、「別冊文藝春秋」5月号に掲載されています。

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