文政十年(一八二七)。この年が赤目小籐次の物語の終着点だ。
小籐次が、かつての主君・久留島通嘉の受けた恥辱をすすがんと、大名四家を相手に「御鑓拝借」の挙に打って出たのが文化十四年(一八一七)のことだった。当時、用人の高堂伍平に年を問われ「確か四十八、いえ、九歳かと思います」と答えていた小籐次。つまり小籐次は五十九になったわけか……。
と、十年の物語を辿り終え、感慨にふけるのは編集Mこと五十路の私。「酔いどれ小籐次」をご愛読いただいてきた読者諸賢なら、「酔いどれ小籐次決定版」の巻末に、担当編集者による物語の舞台を訪ねる紀行文が付されていたのをご記憶かと思う。その初期、営業担当の後輩K君を引き連れ、滝に打たせたり、坐禅体験をさせたりと先輩風を吹かせていたのが私だ。
今回、物語の完結にあたり、小籐次が参勤下番に同行し、豊後国に印したその足跡を辿る役割を仰せつかった。行程は一泊二日。
出発点は、やはり第二十四巻で小籐次が通嘉や駿太郎とともに三島丸から上陸した「速見郡辻間村頭成の湊」にしたい。現在の豊岡港(大分県速見郡日出町)にあたる。
「ここからはバスでちょうど一時間です。バスは十七分後に出発します。トイレに行く余裕はあります」
五月某日の正午前、大分空港に降り立った私の傍らで、カタい口調で説明するのは営業K君に代る旅の友・O君、四十二歳。大手書店などに勤務したのち三年前に小社に来た、小籐次シリーズのプロモーション担当である。立て板に水のごとく予定をレクチャーしてくれる様子が頼もしい。飲み屋の所在しか下調べしてこなかったK君とは大違いだ。
海沿いを走るバスに揺られ、キッカリ一時間で国道十号線沿いの「豊岡駅前」に到着。眼前に広がるのは別府湾、そして豊岡港だ。水深は浅く、チヌやアジが狙える釣り場としても有名だという。
木下家が治める日出藩の中にあって、森藩の飛び地だった頭成。今は、停まっている小型漁船の上で、数人の漁師が網の手入れをしているのどかな港だ。脇には干物をつくるための干し網がズラリと並ぶ。振り返れば山。
「あの山に、大山積神社があります。行ってみましょう」
O君がいう。湊に降り立った小籐次父子が水夫の茂とともに参った、大三島の大山祇神社の末社である。〈なだらかな坂道〉とあるが、実は結構きつい坂。途中までは住宅地を抜けていくが、O君はスマホをチラチラ見るだけで「こっちです」「ここを左です」と茂ばりに先導していく。本当に前職は書店員か。旅行添乗員の間違いじゃないのか。
坂道を三十分弱歩き、運動不足が祟って早くも膝が笑いかけた頃、寛政年間に久留島家の援助のもと再建されたという石垣が見えてくる。小籐次も仰いだ野面積みの石垣だ。
まだ江戸下屋敷の厩番だった頃、小籐次は偶然「……通嘉も一国の主なれば居城がほしいのう」という主君の悲痛な呟きを聞いた。一万二千五百石という外様小名ゆえ、城を持つことを許されなかった“城なし大名”の悲哀。それゆえに江戸城中の詰之間で大名四家から受けた恥辱。あれから十年、大山積神社に佇みながら、「殿は城造りを諦めてはおられぬか」と通嘉の胸中を慮る小籐次――物語の出発点に立ち戻る、終盤の重要な場面だ。
境内に立ち、ウグイスの鳴き声に耳を傾けながら登ってきた道を振り返る。あいにくの曇り空だが、下に広がる別府の海は、小籐次が見たものとそうは変わらないはずだ。
汗を拭きながら、「いやあ、最初からなかなかハードですね。大丈夫ですか」と言うO君。かつて決定版第二巻『意地に候』巻末付録で、小籐次に倣って新橋から小金井までの二十六キロを歩いてみるなど、それなりに体験ルポをしてきた私だが、この数年、腰痛に悩まされており、歩き通しは少々きつい。しかし初日くらいは根性を見せねばならない。
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