- 2022.10.13
- 書評
奇跡の人工万能細胞の開発競争をめぐる光と闇を描いた医療サスペンス
文:香山 二三郎 (コラムニスト)
『神域』(真山 仁)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
二〇二〇年二月初め、横浜沖に停泊中の大型客船内で新型コロナウイルスの感染者が集団発生したというニュースが報じられたとき、多くの人がまだ他人事のように聞いていたに違いない。だがこのウイルスは毒性も感染力も思いのほか強く、集団感染は程なくパンデミックへと拡大していき、二ヶ月余りで国家の緊急事態宣言発出の事態となる。
それまで既存の重病に対する薬剤や手法として使われてきた特効薬やワクチンも以後、いっせいに新型コロナウイルスを対象に使われるようになった感があるが、もちろんガンなど重病、難病の特効薬も引き続き開発中なのであり、それが叶ったあかつきにはノーベル賞級の朗報となろう。
本書『神域』はガンと並ぶ難病のひとつ、アルツハイマー病の治療法をめぐる開発競争の光と闇を描いた医療サスペンスである。
アルツハイマー病は「脳内にアミロイドβというタンパク質が蓄積し、それによって大脳が萎縮した時に発症する。進行すると、大脳細胞が破壊されて、脳に鬆(す)が入ったようになり、患者に様々な生活障害をもたらす」。
本書で特効薬がないとされるこの病気に光明を見出すのは二人の日本人研究者、篠塚幹と秋吉鋭一だ。二人が発見したのは人工万能幹(IUS)細胞“フェニックス7”を脳患部に移植するというもの。そう、ノーベル賞学者・山中伸弥博士が切り開いた再生医療を発展させたものである。
もっとも、物語本篇は宮城県の架空の街、宮城市にある宮城中央署の一室から始まる。一一月のその夜当直についていたベテラン係長・楠木耕太郎警部補は八二歳の父親の行方がわからなくなったと駆け込んできた仙台市議夫婦の相手をすることに。その父親はアルツハイマー病らしい。楠木は若い連中に声をかけて捜索に出るが行方はつかめず、明け方に別の老人が遺体で見つかる。
同じ頃、先端医療ビジネスの育成と支援を目的に設立された先端医療産業開発革新機構(AMIDI)の革新事業推進本部長・麻井義人は、医学部、生命科学関係の権威の体質の古さに改めて辟易させられていた。AMIDIは、世界的IT企業のカリスマ経営者・氷川一機が設立したアルキメデス科学研究所における篠塚たちの研究開発を後押ししようとしていたが、それも時期尚早といわれる始末。その日、麻井は石油ビジネスに通じた嶋津将志経済再生担当大臣の興味を引くことに成功したかに思われたが、後日サルを使った実験での死亡例が支援プロジェクトの審査会に引っかかった。だが、頓挫しかけたところを学術界の重鎮である内閣参与の板垣茂雄に助けられ、ついに国のお墨付きを得る。
しかし一難去ってまた一難、例のサルの死亡事故を疑(うたぐ)る記事が科学誌『BIO JOURNAL』に載ったのだ。書いたのはアメリカの著名な医療ジャーナリストだったが、アルキメデス研のベテラン技官兼秘書の大友正之介によればアメリカのバイオ・ベンチャー大手とアメリカ政府が画策したのではないかという。篠塚もその対処に追われるが、アルキメデス研の実験責任者・祝田真希は気になることを言った。暴走するサルは高血圧が原因で降圧剤を投与したら安定を取り戻したが、マウスでは出現しなかった暴走がサルで起きたということは、人間でも起きる可能性が高いと考えるべきだと。
一方、宮城中央署の楠木は、部下の松永千佳巡査部長が捜査していた窃盗団グループの案件を県警に持っていかれることになるが、暴力団担当の渡辺巡査部長がそこで別件の思いも寄らぬデータを披露する。所轄内の高齢者の行方不明者数が県内の平均値の二倍なのだというのだ。しかも行方不明者が遺体で見つかったケースが県平均の四倍もあると。明らかに殺人事件だという疑いがないと警察は司法解剖できないが、手がないことはない。何せ、連続殺人犯が我が町で暗躍しているかもしれないのだ!
アルツハイマー病は一九一〇年にドイツで亡くなった男性の症例が基になっている。診断者の名前が病名の由来だが、その治療法をめぐるノンフィクション、下山進『アルツハイマー征服』(KADOKAWA)によると、アルツハイマー病は「一九六〇年代までは精神医学を研究しているものの中でも、ほとんど顧みられることのない分野だった」という。それが変わるきっかけになったのは電子顕微鏡の発明だったが、七〇年代までは巨額の研究資金が投じられることもなく「多くの人々は『ぼけ』という老化にともなう自然現象だと考えていた」。
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