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奇跡の人工万能細胞の開発競争をめぐる光と闇を描いた医療サスペンス

奇跡の人工万能細胞の開発競争をめぐる光と闇を描いた医療サスペンス

文:香山 二三郎 (コラムニスト)

『神域』(真山 仁)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 アルツハイマー病の研究が加速するのは八〇年代後半からだそうで、それは遺伝子工学の進歩によるが、してみると、その後三〇年とたたないうちに篠塚と秋吉――通称シノヨシのフェニックス7が開発されたことになる。恐るべき医科学の進化! 本来なら、この二人こそ物語の主役たるべきキャラクターというべきであろうが、本書が視点人物を多数配して多彩な章立てにしたのは、ストレートな治療法開発話とはまた異なる物語のダイナミズムを味わわせようとしたからにほかなるまい。

 むろん篠塚が主役の一人であるのはいうまでもない。プロローグで祖母の惨状を目の当たりにする子供は彼であり、その後彼がただ老いやボケを目の敵にするだけでなく、偉大な父親への反抗も研究動機になっていることが明かされていく。家族と離れてアルキメデス研に単身赴任する孤高の研究者である彼は、それゆえに自らの暴走には逆に甘くなってしまう。それに比べて相棒の秋吉は天才肌にありがちな勝手気ままな変人キャラ。美貌の中国人留学生をパートナーにしているあたり小憎らしい限りだが、彼は別な意味で、ある宿命を背負っている。

 シノヨシの二人を医療小説としての本書の主役コンビとするなら、ビジネス小説としての主役を演じるのは麻井義人だ。アメリカの医療系ベンチャー・キャピタルでマネージング・ディレクターを務めていた彼は、AMIDI理事長の丸岡貢にヘッドハンティングされ、シノヨシと政府、医学界の仲立ち役を務めるが、これがまあ大変。先端医療に及び腰の政府、さらに後ろ向きな医学界の権威たちを相手に悪戦苦闘する日々。おまけにアルキメデス研も何やら秘密を抱えているらしく、ついにはアメリカ合衆国という巨大なハイエナまで絡んでくるありさま。そのどれもに必死になって対応する麻井の姿は、エリートとはいえ過酷の一言だ。

 そして、捜査ミステリーとしての主役を演じるのが、楠木警部補を始めとする宮城中央署の面々。当初はよくある徘徊老人の失踪と捜索かと思われた案件が次第にトンデモない事件へと発展していくことになる。しかし、それを捜査に結びつけたのは確たるエビデンスがあってのことではなく、楠木の経験値と勘、そして若手刑事の情熱と執念が基になっている。ある人物は、外見はいかにもしょぼくれた楠木が鋭い洞察力をそなえているのを見抜いてまるで『刑事コロンボ』のようだと述解するが、注目は県警柔道部のエース松永巡査部長。体育会系らしい猪突猛進タイプの女傑であると同時に、昭和の熱血刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で竜雷太演じるゴリさんに憧れ刑事になったという根っからの刑事マニアでもある。

 シノヨシのフェニックス7には果たしてどんな秘密が隠されているのか、本書は楠木たちが徐々にその核心に迫っていく捜査ミステリーとしても読み応え充分であることは、ここで改めて請け合っておこう。

 ちなみに著者はミステリー読みとしても知られており、ファンであるがゆえのお遊びも散見される。たとえば、フェニックス7の研究開発にやがて関わってくるアメリカ側の人物、カール・ハイアセン。ハーバード大学の戦略論の教授で大統領の首席補佐官でもあるとのことだが、翻訳ミステリーファンには、奇人変人キャラが登場するブラックユーモアの効いたアメリカのハードボイルド系作家と同姓同名だとすぐに気付くはず。ハイアセン作品は環境問題をテーマにしていることでも知られるが、本書の創薬テーマとも微妙に通底してくるような――っていうか、考えてみれば、そもそも「医学とは、結果オーライだ」という医学界の常識って、犯罪捜査のそれとも相通じるのではないだろうか。

 著者が本書を創薬(正しくは治療法の研究開発だが)小説と捜査ミステリーの二本立てにしたのは、けして偶然ではないということだろう。

 さて、アルツハイマー病の治療法は現実にも着実に進んでいる。アメリカのバイオジェン社と日本のエーザイが共同開発した治療薬アデュカヌマブは二〇二一年六月、アメリカで医療用に承認されたものの、同年一二月、残念ながら日本では承認が見送られた。しかし、画期的な治療薬ができるのも時間の問題ではなかろうか。それはもはや神の領域ではない、人間の領域なのだ。

文春文庫
神域
真山仁

定価:990円(税込)発売日:2022年10月05日

電子書籍
神域
真山仁

発売日:2022年10月05日

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