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あの戦争へ、日本が最後の舵を切った時代を彫刻する渾身作――『愚者の階梯』(松井今朝子)

あの戦争へ、日本が最後の舵を切った時代を彫刻する渾身作――『愚者の階梯』(松井今朝子)

「オール讀物」編集部

Book Talk/最新作を語る

出典 : #オール讀物
ジャンル : #小説 ,#エンタメ・ミステリ

『愚者の階梯』(松井 今朝子/集英社)

歌舞伎を通じてあの戦争前夜を描くミステリー

 昭和十年、満州国皇帝溥儀を迎えて上演された歌舞伎『勧進帳』。その内容が「不敬である」と右翼の徒が乗り込んだ。やがて興行主の専務が劇場内で首を吊り亡くなっているのが発見され、怪死が相次ぐ。日本が戦争に突入する寸前が舞台の時代ミステリーだ。

「経緯は不明ですが、『勧進帳』は実際、戦時中に書き変えられています。その史実と当時の世相を併せて考えると、作中のようなクレームが入ったのではと、事件の発端に置きました」

 天皇機関説事件により、正統の学者である美濃部達吉が糾弾される身となるような世相。狂言作者の裔(すえ)であり、大学講師・劇評家の桜木治郎は、探偵役として殺人事件の謎に関わる一方で、インテリの無力化を憂慮する。

「構想段階のころに取り沙汰された学術会議の一件で、美濃部さんのことを連想して調べてみたんです。新聞記事を追っていくと、最初は貴族院で堂々たる反論をしていたのが、あれよあれよと不敬罪に問われ、検事局で十六時間に及ぶ取調べ、著書の発禁処分を受けて公職を追われてしまう。こんなにも短期間で世の中が変わるのかと慄然としました。この“世の中”というのが曲者で、日本の場合、ヒトラーのような独裁者の出現を警戒する必要はない。ただ、誰も責任をとる人がいないまま、ムードだけで極端な方向に進むのが一番怖いところです。これは現代もまったく同じだと思います」

“知”では立ち向かえない時代の到来は芸能にも影を落とす。歌舞伎にとってはトーキー映画の台頭も脅威だ。そんな逆境でも祖父から芸を継承しようと励む若女形・宇源次が清々しい。

「親ガチャなんて言い方がありますが、時代ガチャというのはもっと運命的。十年早く生まれていればなんて思っても、人間は選べませんから。明治維新を乗り越えた世代、日露戦争勝利に浮かれた世代、歌舞伎が娯楽の首座から陥落する世代……それぞれの世代に各自の物語があります。その時代でなければ味わえないものを映し出すために、私は時代小説を書くんです」

 本作は、『壺中の回廊』『芙蓉の干城(たて)』から続く、実在の歌舞伎役者や、人物、事件をモデルとするシリーズの掉尾でもある。

「治郎たちは知るよしもありませんが、二・二六事件に向かう流れは、前年に決定づけられていました。日本がなぜ戦争に突っ込んでいったのかを、三部作を通じて描こうと考えると、最後に舞台とすべきターニングポイントは自ずと昭和十年に決まりました」

 自分たちが生きる時代の行先は……と読後は思いを馳せずにいられない。


まついけさこ 1953年京都府生まれ。97年『東洲しゃらくさし』でデビュー。『仲蔵狂乱』で時代小説大賞、『吉原手引草』で直木賞、『芙蓉の干城』で渡辺淳一文学賞を受賞。


(「オール讀物」11月号より)

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