第二次世界大戦で劣悪な環境のシベリア強制収容所に、捕虜として抑留された山本幡男一等兵。妻やまだ幼い4人の子供とは離れ離れになったまま、消息もつかめない。
絶望の状況において、収容所のひとすじの希望の光でありつづけた山本幡男を二宮和也さんが、夫の帰国を心から信じ11年間待ちつづけた妻モジミを北川景子さんが演じます。メガホンをとるのは『8年越しの花嫁 奇跡の実話』『64-ロクヨン-前編/後編』の瀬々敬久監督、脚本は『永遠の0』『糸』の林民夫さん。
映画『ラーゲリより愛を込めて』の公開(12月9日)を記念して、驚きと感動で心が震わされる究極の愛の実話、ノベライズ版『ラーゲリより愛を込めて』の立ち読みを公開します。
マスクをつけたスタッフが、音もなく近づき、空になったグラスに水を注(そそ)ぐ。
老人は軽く目礼すると、自分のマスクを外し、グラスに口を付けた。
すぐにさっとマスクを戻し、会場を軽く見回す。
披露宴会場の中でも、小さい方の部屋だと聞いている。しかし、十分に間隔をとってテーブルが配置されたこの部屋は少しがらんとして見えた。席についているのは皆、新郎新婦の身内ばかりだ。皆、しっかりとマスクを着けている。そして、テーブルの上も、アクリル板で仕切られていた。
老人は新郎新婦に視線を向ける。若い二人は緊張した面持(おもも)ちで、スピーチしている親類の顔をじっと見つめている。新郎新婦だけはマスクをつけていないものの、その周囲は、仕方がないとはいえ、やはり無粋(ぶすい)なアクリル板で囲われていた。
「こんなことが起こるなんて思いもしませんでした。もう、あの頃の日常には戻れないかもしれません」
スピーチの言葉に、確かにそうだな、と老人は思う。マスクをつける生活がいつの間にか「日常」になってしまった。マスクを着けていない顔の方が不自然に感じるほどに。つい二年前には新型コロナウイルスという存在すら知らなかったというのが嘘(うそ)のようだ。
日常とは案外脆(もろ)く、不確かなものだ。
そのことを誰よりも知っていたはずなのになあと老人は目を細めて、新婦である孫娘の顔を見つめる。
彼女に直接会うのは久しぶりのことだった。離れて暮らす彼女は、新型コロナを理由にもうしばらく帰省していない。頻繁(ひんぱん)に連絡は取っていたが、やはり会うのとは違う。
自分は苦しかったのだなと、新婦の顔を見ながら老人は思う。
会いたい人に、会えないのは、苦しい。
「これから、世の中はどうなっていくのかわからない。そんな不安な時代の中、お二人は、この日を迎えられました」
スピーチの言葉に、新郎新婦はどちらともなく視線をあわせて微笑(ほほえ)んだ。柔らかな日の光が、新郎新婦を照らす。その光景に老人も思わず微笑んだ。
そして、その光景は、七十七年前の記憶を鮮明に思い起こさせた。
満州のハルビンで参列した結婚式。
あの日も、会場にはやわらかな光が差し込んでいた。
あの日のことは、鮮明に覚えていた。
家族と共に過ごす日常が、いつまでも続くと無邪気に信じることができた、あの幸せな瞬間のことを。
1
一九四五年八月八日。
満州ハルビンは気持ちのいいほどの晴天に恵まれていた。
料理店の二階にある宴会場にも、暖かな日の光が差し込み、何もかもを明るく照らしている。まだ日は高い時間だ。しかし、宴会場にはすでに酔いのうかがえる男たちの大きな笑い声が、あちこちから上がっていた。
主役である新郎は男たちからのお酌(しゃく)を、顔を真っ赤にしながら受け続け、新婦のたづ子はそれをハラハラしながら見守っている。
新婦の兄である山本幡男(やまもとはたお)はその様子を丸眼鏡の奥の目を細めて、見つめていた。山本は今年三十六歳になる。この年でまさか一等兵として戦争に駆り出されるとは、家族も誰も予想だにしていなかった。短く刈り上げられたばかりの頭は、ひょろりとした山本の印象をより強めている。着ている軍服もまだ新しい。襟(えり)につけられた階級章は軍隊で訓練を終えたばかりの一等兵であることを表していた。
息子の顕一(けんいち)、厚生(こうせい)、誠之(せいし)、妻のモジミ、そして、そのモジミの腕に抱えられたまだまだ小さい娘のはるか。テーブルには家族がずらりと顔を揃えていた。久しぶりに目にする家族の顔を、山本はひとりひとり見つめる。そして、にっこり笑うと、猛然と目の前の料理を食べ始めた。
テーブルの上には、つやつやとした青菜の炒(いた)めや大ぶりの餃子(ギョウザ)など、大陸の料理がずらりと並んでいる。モジミたちが苦労して用意した、心づくしのご馳走(ちそう)だった。
息子たちも父に負けじと、一心不乱に料理を口にする。
モジミはむずかる娘をあやしながら、ほっと胸を撫(な)でおろしていた。
たづ子の結婚式は本来、一か月後に予定されていた。それを、山本に手紙で伝えたところ、「結婚式は一か月早めること」とだけ書かれた短い返事が届いたのだ。理由もなくそんなことを言う人ではない。モジミは慌ててたづ子や義母のマサトと共に準備に奔走(ほんそう)し、なんとか八月に式を整えることができたのだった。
物資が揃わない中の準備は苦労も多かったが、嬉しそうにしている新郎新婦や、夫や息子たちの顔を見ていると、報(むく)われる思いだった。
「沖縄は陥落(かんらく)し、広島には新型爆弾も落ちたって話じゃないか」
不意にかけられた言葉に、山本は少し顔を上げる。参列者の一人である片山(かたやま)という男が、酔いのにじむ、少し淀(よど)んだ目で山本を見下ろしていた。片山は手にしていたグラスをグイッと呷(あお)って、言葉を続ける。
「どうなっていくんだろうな、この世の中って奴はよ。妹さんもこれから大変だぞ、山本」
片山はちらりと新婦を見やった。本土から漏(も)れ伝わってくる情報は、暗いものばかりだった。皆が不安を抱え、将来の見通しを立てることが出来ずにいた。たづ子と夫もこの状況で結婚をすることに随分と躊躇(ためら)っていた。その背中を押したのも、山本だった。
山本は片山の言葉が聞こえていないかのように、夢中になって箸(はし)を動かしている。国や軍についてあからさまに批判することはできなくても、なんとか鬱憤(うっぷん)をぶちまけたかったのだろう。片山は話に乗ってこようとしない山本に対して、つまらなそうに小さく鼻を鳴らした。
片山は他の参列者から酌を受けたのをきっかけに、山本のテーブルから離れていった。山本はそのことにさえ気づいていないかのように、実に美味(おい)しそうに、料理を食べ続けている。
「……素晴らしい門出だ」
不意に箸を止めると、山本はやわらかい日が差し込む窓を見やった。
「え?」
モジミは隣に座る山本の顔を思わず見つめる。山本は大きく微笑んでいた。
「素晴らしい結婚式だ」
山本は笑顔のままで、子供たちの顔をひとりひとり見つめた。子供たちは皿に顔を埋めるようにして、料理に夢中になっている。
「顕一、厚生、誠之、はるか……は、まだわからないか」
モジミの腕の中で、眠たげにうとうととし始めたはるかの顔を見て、山本はくすりと笑う。
「よく覚えておくんだよ」
子供たちはぴたりと手を止め、不思議そうな顔で父を見つめる。
「こうして久しぶりに家族全員でいられること。みんなの笑顔。美味しい食べ物。ハルビンの午後の日差し」
山本は穏やかな声で語りながら会場をゆっくりと見渡す。
まだ緊張の取れない様子ではにかんだ笑顔を見せる新婦、顔を真っ赤にしながら、参列者たちと笑い声をあげる新郎。時折、涙を浮かべながら、嬉しそうに娘の晴れ姿を見つめている母のマサト。そして、ハルビンの日差しに照らされたモジミと子供たち。
山本の笑顔が一瞬ふっと曇った。
不吉な影のような爆撃機の隊列が、山本の脳裏を過(よぎ)る。
山本はそのイメージを振り払うように無理やりにまた笑顔を浮かべる。そして、目の前の平和な光景を記憶に刻(きざ)み付けるように、じっと見つめた。
妹たちの結婚式の日の夜、山本とモジミはハルビンの知人に借りた小さな一室で、身を寄せ合うようにしていた。今夜はこの部屋に泊めてもらい、明朝、モジミと子供たちは家のある新京(しんきょう)へ、山本は軍に戻ることになっている。
子供たちはすでにすうすうと寝息を立てている。
しかし、山本もモジミも眠れないでいた。
朝になったらまた、離れ離れになるのだ。
そう思うと、さっさと寝てしまう気にはなれなかった。
山本に赤紙が来たのは一九四四年七月八日のことだった。
以来、夫婦が顔を合わせたのは数えるほどしかない。
とぼけた口調で「今から地獄へ行ってくるよ」と言い残し、山本は新京の家を出て、入隊した。もともとひょろりとして、体力もない山本のことだ。初年兵としての過酷な日々を耐えられるのだろうかと、モジミは気をもんだが、面会で顔を合わせた山本は思ったよりも肌がつやつやとしていた。家にいた時よりも、心なしか顔の輪郭もふっくらとしていたかもしれない。
元気そうな姿に、モジミは心底ほっとしつつも、少々複雑な気持ちにもなった。
モジミは知らされずにいたが、軍に入った山本は、そのロシア語の能力を買われ、特務機関に配属されていた。そのため、体力的にはずいぶんと楽をすることができていたのだった。
モジミは山本から軍で若い少尉の当番をしているとだけ聞いていた。家のことはモジミに任せきりで、一人ではお茶もいれられないような山本に少尉の身の回りの世話が務(つと)まるのかと思ったが、貴重なコーヒーをご馳走になったりと、よくしてもらっているのだと山本は嬉しそうに話した。家にいる時とまるで変らない、くつろいだ様子で、コーヒーを味わう姿が目に浮かぶようだった。一日だけとはいえ、休みをもらって、こうして家族で過ごすことができたのも、やはりその上官の計(はか)らいであるようだった。
「……明日、新京に戻ったら……」
暗がりの中でも、お互いの姿はうすぼんやりと見える。山本の無理に押し出したような小さな声に、モジミはじっと耳を傾けた。
「すぐに荷物をまとめるんだ」
「え?」
「そしてそのまま日本に帰れ。勝手にはもう帰れないかもしれない。それでもとにかく港を目指せ。南へ急ぐんだ」
モジミは不安に瞳を揺らした。結婚式の間、いつものようにゆったりとした態度に見えて、山本がどこかぴりぴりと緊張していたのが、モジミにはわかっていた。それだけ、事態は切迫しているのだ。山本には、きっとすぐそこに迫る未来が見えている。
山本が日本に帰れというからには、そうすべきなのだろう。
でも、とモジミは山本の顔をぱっと仰(あお)ぎ見る。山本は何かを確信したような静かな表情で、モジミを見ていた。
「……無理です」
「君ならできる」
幼い子供たちや姑を抱え、女一人で日本までたどり着けるとも思えなかった。旅費の問題もある。船に乗れるかもわからない。日本での生活基盤だってない。
何より、日本に帰るということは、入隊した山本を残していくということだ。
「できません」
固い声で答えるモジミに、山本は弱ったような顔で、「頼むよ」と呟(つぶや)いた。
モジミは不意にはっとして、「そうなの?」と問いかける。
「だから、私たちを結婚式に呼んだの? いつまたこうしてみんなで会えるかわからないから」
山本は「いや、まだ……」などとしどろもどろに口にしている。そうだったのだ、とモジミは確信した。
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