- 2023.01.05
- 書評
少しだけ強くなれる――やりきれなさを抱えて働く人々の鎧にも刀にもなる物語
文:藤田 香織 (書評家)
『希望のカケラ 社労士のヒナコ』(水生 大海)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
まずはひとつ質問を。もしも今、「職場に対する不満はありますか?」と訊かれたら、あなたはどう応えますか?
テレビの街頭インタビューなどを想定すると体裁もあるだろうから、匿名のアンケートだと仮定しよう。給料が安い、休みが少ない、拘束時間が長い、嫌いな上司や同僚がいる。希望していた業務じゃない、正当に評価されていない、社内の設備や環境が悪い、単純に空気が悪い。おそらく、「不満は特にない」と応える人はごくごく稀なはず。
かくいう私も、経験した約十年の会社員生活の日々には、いつだって不満はあった。芸能音楽関係の仕事をしていたので、出社時間は朝の十時~十一時と遅く、給与も賞与も悪くなく、ある程度の経費も認められ、仕事内容も望んだ職種で、と、今思えば信じ難い好条件だったにもかかわらず、毎日のように「あー、もうヤだ!」と口にし、ちょっとしたことでイライラし、辞めたい辞めたいと思い、後先も考えず本当に辞めて、十年の間に二回転職した。セクハラ、パワハラ、モラハラなんて当たり前の時代で、仕事関係の宴会では、トイレで一回吐いてまた飲み、取引先の膝の上に座れと命じられ、帰宅は午前一時、二時なんてこともよくあった。生理休暇は取れる雰囲気ではなく、産休・育休を取る人は花形と呼ばれる部署からは外されていた。もちろん、男性の育休なんて誰も考えたことさえなかった。土日でも仕事の電話は鳴り、土足で歩いている会社の床で鞄を枕に寝たこともあった。二十年以上前のことなのに、いくらでも思い出せる。けれどその全てに、私は異議申し立てをすることなく、唯々諾々と従い、限界が来たら逃げ出すだけだった。友人や家族に愚痴っても、会社や上司と闘いはしなかった。どうせ負けると思っていたからだ。
今、匿名で思いを語ることができるSNSには、不満と不平と不服が溢れている。「納得いかない」「やってられない」気持ちを吐き出さずにはいられない人が溢れている。「これっておかしくない?」と言いたくて、だけどやっぱりリアル社会では言えなくて、共感や同意が欲しくて呟いてみれば、諭され貶(けな)され呆れられることもある。それで尚更、落ち込んだりするのもあるあるだ。
本書『希望のカケラ 社労士のヒナコ』が連なるシリーズは、そんなやりきれなさを抱えて働く人々の鎧にもなり、刀にもなる物語である。
え? そんな決まりがあるの⁉ あれってそういう意味だったんだ! といった気付きがあり、それをきっかけに、だったらこう斬り込めるかも……といった職場で生き抜く戦術のヒントにもなる。なによりも、堅苦しくも小難しくもないのに、少しだけ自分が強くなれた気がするのがいい。別に闘わなくてもかまわないのだ。少しでも、闘える準備が自分にはある、と思えることが重要なのである。
まずはその概要を記しておこう。
『ひよっこ社労士のヒナコ』(二〇一七年文藝春秋→一九年文春文庫)、『きみの正義は 社労士のヒナコ』(二〇一九年文藝春秋→二一年文春文庫)に続き、本書の主人公を務める朝倉雛子は、現在二十九歳。大学新卒時の就活が上手くいかず、派遣社員として各種手続きに追われる総務、労務、人事畑を渡り歩くうち、「社会保険労務士」なる国家資格があることを知って、正社員の道が開けるのではないかと勉強に励み、合格率一割以下、しかも一年に一度しかない試験を三度目にして根性で突破。二〇一七年の四月半ばから「やまだ社労士事務所」に勤めて丸三年が過ぎたところだ。
社労士=社会保険労務士は、いわゆる八士業(弁護士、税理士、司法書士、行政書士、土地家屋調査士、弁理士、海事代理士、そして社会保険労務士)のひとつで、ヒナコ曰く〈労働や社会保険に関する専門家であり、おおざっぱに言うと会社の総務のお手伝いをしている〉。各種の社会保険や行政機関への申請書類をクライアントに代わって作成したり、労働管理の相談や指導を行う仕事である。
現在ヒナコが籍を置く「やまだ社労士事務所」は、五十代半ばにさしかかる山田所長と、共同経営者であり税理士の資格を持つ妻の素子さん、スーパー事務員の丹羽さんの四人態勢。山田夫妻にも丹羽さんにもふたりの子供がいる。入所当時は丹羽さんから「ヒヨコちゃん」と呼ばれていたヒナコも四年目ともなれば成長し、新たな目標が見えてきた。しかし、二〇二〇年。世の中は新型コロナウイルスの蔓延により、まったく予想もしていなかった事態へと突入。本書では、様々な給付金や助成金の煩雑な手続き関連で大忙しとなった「コロナ一年目」の夏から翌年へかけての約一年間が描かれていく。
収められているのは全五篇。
一話目の「そこは安息の地か」では、早速、「持続化給付金」「雇用調整助成金」「家賃支援給付金」「新型コロナウイルス感染症に関する母性健康管理措置による休暇取得支援助成金」といったコロナ禍の諸問題が扱われる。居酒屋とカフェをチェーン展開する屋敷コーポレーション屋敷専務の紹介で、ヘアサロン・リバティアヤナのオーナー角亜弥奈から雇用調整助成金の申請を代行して欲しいと依頼されたヒナコは、あることをきっかけに業務内容の不正に気付いてしまう。
続く「甘い誘惑」のクライアントは、店舗併設のカフェを持つパティスリー・キャベツ工房。「同一労働同一賃金」「パートタイム・有期雇用労働法」により正社員とパートやアルバイトとの待遇差解消の整備を依頼される。社労士ヒナコ的には「労働管理の相談や指導」の仕事だ。「甘い誘惑」に負けてしまった人物の問題を暴いていいものか、〈わたしの告発は、断罪じゃないだろうか〉と逡巡するヒナコが出した結論に、ヒヨコから脱した彼女の成長が感じられる。
第三話「凪を望む」は、改めてコロナ禍の暮しというものを考えさせられる。耳慣れた「労災」=「労働災害」のあまり知られていない規定も興味深いが、「食堂こまつ屋」の抱える切実な事情に胸が痛む。勤めていた海外リゾートウェディング会社が倒産し、店を手伝い始めたにもかかわらず、揚げ油で大火傷を負った娘。治療費や店の資金繰りを案じる娘婿。くも膜下出血のリハビリを懸命に続ける老店主とその理由。ヒナコでなくとも「どうすればいいんだろう」とため息を吐(つ)かずにはいられない。こんなことを「わかって」しまい、勇気を出して向き合えば「黙れ」「賢しらなことを言うな」と睨まれて、それでも親身になることなど自分にはとてもできそうにない。父としての、一家の大黒柱としての意地がありプライドがあり、ヒナコからも社労士としての責任と矜持が感じられる緊迫した場面だ。
言われてみれば確かに、これもコロナ禍で増えたよね、と関心を抱いた「副業はユーチューバー」では、ぐっと身近になった「副業」について言及されている。なにを副業とするかは法律で決まっているわけではなく、会社の就業規則によって決められていて、ここでヒナコが担当する大洋堂文具では〈許可なくほかの会社等の業務に従事しないこと〉と曖昧にしか記されていなかったことから、会社側と覆面ユーチューバーの社員の認識差が浮き彫りになっていく。リモートワーク中の社員のようすを確認するためにログ管理ツールを導入するか否かという問題も根が深く、ヒナコが「告発者」の正体へたどり着いた推理も唸らされる。
表題作となっている「希望のカケラ」は、二〇二二年四月から段階的に施行がはじまった「育児・介護休業法」が改正される、ほんの少し前の話だ。イギリスのアンティーク家具の輸入と、飛騨にある天然木を使用した自社工房製品を扱う剣谷家具で、営業部の男性社員・加瀬が育児休業を取得したいと申請しているものの、社長の剣谷は頑として拒否。育児休業制度の概要は頭にあり、申請されれば与えなければいけない権利だとは分かっているが、与えなくてもたいした処罰にはならないことも知っていた。依頼は育休を取らない方向で加瀬を説得して欲しいという話で、ヒナコとしてはクライアントの希望であっても、それは受け入れ難い。自分が雇用者側の立場であれば、「正直、面倒な時代ですな」と嘆く剣谷の気持ちも、まぁわからなくはないし、上司や同僚でも迷惑だな、と思わないとは言い切れない。そこは人と環境による、と思ってしまう。しかし、それは違うのだ。「育児休業は個人の仕事ぶりで対応を変えるものではないし、休暇でもない」のだから。
前記したようにシリーズ第三弾となる本書だが、どこから読んでも差し支えはない。前二作を未読の方は、ここから遡ってみるもよし、既読の方も再読してみることで理解と納得が深まることもあるはず。ずっと読み継いできた読者にとっては、レギュラー登場しているヒナコの親友、遠田美々の弟・徹太が、バイトリーダー、バイト店長ときて、今回「そこは安息の地か」で、ついに屋敷コーポレーションの契約社員になったことが明かされているのも感慨深いだろう。「副業はユーチューバー」でちらりと触れられている「美空書店」については、前作『きみの正義は 社労士のヒナコ』の「わたしのための本を」に詳しく、書店が直面している厳しい現実が描かれているので、読書好きの方々は、ぜひ一読されたし。
作者である水生大海さんといえば、ドラマ化もされた「ランチ探偵」シリーズが、大枠でいえば本書と同じ仕事+謎ときシリーズで、ここから水生作品を読み始めたという方も多いだろう。が、個人的な好みとしては、結婚詐欺に遭った主人公が、騙す側にまわり次々と悪事に手をそめていく『熱望』(二〇一三年文藝春秋→二〇年文春文庫)を挙げておきたい。ヒナコシリーズの読者にお勧めするにはどす黒い話ではあるけれど、そのふり幅を楽しんでもらえるのではないかと思う。
もちろん、次なる目標を定めたヒナコに、早くまた会いたいとも願っている。本書から「いきなり文庫」として更に身近な存在となったが、次作では、この後、多発した各種助成金詐欺を「やまだ社労士事務所」の面々はどう受け止めているのか(特に丹羽さんの弁が聞きたい!)が知りたい。『ひよっこ社労士のヒナコ』で、〈前に独立して出ていった〉と語られていた三好さんの病気は完治されたのかも気になっているし、屋敷コーポレーションの切れ者、五郎丸元店長及び元資材課係長がゴリゴリ復活した姿も見たい。本書の気になる存在としては、パティスリー・キャベツ工房の二代目、道下和雄社長がちょっと深掘りして欲しい人物だ。なんかこう、意外な一面がありそうな……。
クライアントである企業の側に立つことを前提にしながらも、従業員の気持ちに寄り添うヒナコも、やがて時が経てば自分が雇用者になる可能性がある。同じ法律や規則が、また違って見えることはあるのか。「ひとり休まれたらアウト」な状況に陥ってしまっても正しくあり続けられるのか。そうした揺れも読んでみたい。
そして何より、この世の中にあることさえ知らなかった武器の使い方を、またヒナコに教えて欲しい。飲み込んだ不満で胸を潰されることなく、世知辛い日々を生き抜くために。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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