二〇二三年は幕末に活躍した勝海舟の生誕二百年に当たる。勝海舟にはファンも多く、勝海舟と関わった幕末の志士たちの名も広く知られているだろう。
本書はその勝海舟の妹、お順の幼少期から晩年までの濃密な人生を、五人の男たちとの関わりを軸に紡ぐ物語だ。しかし、ただの女の一生ではない。男たち――特に幕末に幕府要人として活躍した兄、勝麟太郎の存在によって、政治的な動きや世の中の変動をリアルに感じ取ることができる。もちろん、お順自身が時代の渦に巻き込まれることもある。お順の人生に寄り添い、その成長に胸を震わせながら、同時に歴史の変動を体感できる豊かで贅沢な物語――それが諸田玲子氏の大作『お順』である。
さて、勝海舟の妹とご紹介したが、彼女は幕末の思想家・佐久間象山の妻でもある。ただ、こう書くことに、今の私は歯がゆい気持ちを抱いてもいる。
お順を誰かの妹、誰かの妻としか書けないのがもどかしいのだ。お順は男の傍らに寄り添うだけの女性ではない。揺るがぬ自我を持ち、自らの手で人生を切りひらいていく――そんな女性が幕末に存在したことに、私はとても驚き、すっかり心を奪われてしまった。お順と引き合わせてくれた本書に感謝しつつ、この場をお借りして、その魅力を述べさせていただきたいと思う。
お順と深く関わる五人の男とは、父の小吉、兄の麟太郎の他、兄の剣の師匠であった島田虎之助、思想家の佐久間象山、そして剣客の村上俊五郎だ。この五人、どの男もなかなか強烈である。深みにはまれば、相当なエネルギーを持っていかれそうだし、中には火傷させられそうな男も……。
最初に登場する父の小吉については、「えっ、勝海舟の父親がこんなだったの?」と私はのっけから驚かされた。物語は、預けた刀を質草にされた男が勝家へ怒鳴り込んでくるところから始まる。幼いお順が客の相手をしている間に、何と小吉は逃げ出してしまうのだ。
世間からは「暴れ者で『柄のぬけた肥柄杓』と眉をひそめられ」ているこの父のことが、お順は大好きだった。遊興三昧はしていても、子供たちが怪我や病で倒れれば、お百度だ水垢離だと大騒ぎをする家族思いの父親なのだ。
そんな勝家に天保の改革が襲いかかる。小吉はそれまでの不行跡をとがめられて「押し込め」の処分を受けた。家族も同様だ。「狭いわ寒いわ」のひどい暮らしを強いられるが、家族は小吉をとがめない。子供たちは、今でいう「親ガチャ」にはずれたなどと嘆いたりしない。この逆境にくじけない明るさと強さはこの一家の特性で、お順の人格を形作ったと言っていいだろう。
さて、年頃になったお順は結婚相手も自分で決めようとする。この時代の武家の娘としては、かなりの「はねっかえり」だ。お順は、相手方から望まれて素直に嫁いでいく姉のおはなを見ながら、ひそかに思う。私は「一番の男」でなければいやだと。
お順の言う「一番の男」とは、次のように書かれている。
一番というのは、道を究(きわ)めた、という意味である。言い換えれば、本物、ということでもあった。
お順は「一番の男」にとって、「一番の女」になりたいと望む。
何と、かっこいい女なのだろう。現代なら「女が惚れる女」と言われるかもしれない。もちろん、男だって惚れる。
お順が恋い慕う「一番の男」の島田虎之助も、のちにお順の夫となる佐久間象山も、お順に魅せられていく。やがて、お順は自分なりの生きがいを見出し、佐久間象山の妻となる道を選ぶのだが、お順が本当にかっこいいのは、この後である。
こうしたいと希望を言うだけなら誰にでもできる。それを押し通すことも、周囲の理解があれば可能だろう。だが、人の真価が問われるのは、自分の選択に何らかの障りが生じた時ではないだろうか。
象山はお順と結婚後、弟子に連座する形で、郷里の松代に蟄居を申し付けられてしまう。むろん家族も従わねばならない。この時、母のお信は象山との縁談を勧めた自分が悪かったと、お順に詫びた。
自分に非はないのに、誰かのせいで不運に巻き込まれれば、相手を責めたくなったり、我が身を嘆いたりしたくなるのが、人情というもの。
しかし、お順はこういう逆境に強い。絶対に泣き言は言わないし、人を責めもしない。
なかなかできることではないと思う。少なくとも私には難しい。だからこそ、どうしようもなくお順に魅せられる一方、なぜこんなにも強くしなやかに生きられるのかと考えさせられもした。
こう生きたいという確かな志を持ち、突き進むお順は、同時代の女性に比べはるかに自由だ。勝家の当主である麟太郎の懐の深さもあって、お順の意思は押さえつけられることもない。
むろん自由には責任が付きまとうことを、現代の私たちなら当たり前に知っている。その責任がとても重く苦しいものだということも。自由という言葉が一般的でなかった当時、お順はそれを真理としてつかんでいたのだろう。だから、自ら選んだことを由とし、自らの足で立つ。決して女性たちが自由であったとは言えない時代、それでも輝く女性はいた。
一番の男を求め、一番の女になりたいと願う――それは、本物を求め、本物になりたいと願うということ。本物は強い。何があっても、心が折れたりしないのである。
その後、大政奉還、戊辰戦争と時代は動いていく。この動乱の中、お順は最後の男、村上俊五郎と出会った。
この男、登場した時から危ういにおいがぷんぷんしている。世間の噂も芳しくなく、女癖が悪いということも、お順の耳に入ってくる。自称お順応援団の一員としては「だめ。その男に引っかかっては」とお節介を焼きたくなるのだが、むろんその声は届かず、お順は俊五郎によろめいてしまう(この時は二人とも独り身なので、不倫ではないのだが……)。
とはいえ、これは無理もない。彰義隊と官軍が衝突し、勝家も官軍の狼藉を受けるような状況下で、駆け付けてくれたのが俊五郎であった。非常時において実際以上にいい男に見えたのは間違いなく、お順には俊五郎に惹かれざるを得ない、ある秘めた理由もあった。
さて、この腐れ縁によって俊五郎に振り回されることになるのだが、それでも悲観しないのが、我らがお順。二人の関係はちょっぴりほろ苦く、微苦笑を誘われる。
諸田氏はあとがきで「順はなぜ、佐久間象山の妻になったのか。順はなぜ、村上俊五郎に惚(ほ)れてしまったのか」その解明がしたかったと書いておられる。本書を読めば、象山はもちろん、俊五郎との仲についても、さもあろうと大いに納得させられるはずだ。
歴史を動かすのは男だけではないし、歴史に名を残す女性もいる。中にはお騒がせな女性もいたりする。残念ながら、お順は名を聞くだけで、その業績や人生を思い浮かべられるほど著名な人物ではないかもしれない。
だが、男たちの活躍ばかりが取りざたされる激動の時代に、こんなにも主体的に生きた女性がいたことを、本書は教えてくれた。私は今、お順のことを、誰それの妹とか、誰それの妻とかではなく、一人の女性として口にしたい。だから、あえて言わせていただこうと思う。
「幕末に勝順という女性あり」と――。
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