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批評 演技する精神へ――個・ネット・場<特集 甦る福田恆存>

批評 演技する精神へ――個・ネット・場<特集 甦る福田恆存>

下西 風澄

文學界7月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 7月号」(文藝春秋 編)

自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。(1)

 福田恆存は、ありのままに生きる私たちの自然なる生を批判し、自由を批判し、個性を批判する。現代社会において私たちが求めている多くの「理念」を批判する。逆に彼が求めていたのは、私たちの生を制約するある種の不自由さであり、個人を否定する全体であり、集団的な記憶としての歴史である。

 いま私たちが、劇作家であることで成立する思想家、福田恆存を読むことの意味は、どこにあるのだろうか。

「個と全体」の現代

 インターネットの登場は、私たちの自我に矛盾をつきつけた。一方でネットは私たちそれぞれにオリジナルのアカウントを与え、世界全体の情報に自由にアクセスできる、束縛のない無制約な個人であることを可能にさせるプラットフォームである。私たちがどこの組織に所属することもなく、一つの強い個体として生きる技術的環境をネットは提供している。しかし他方で、ネットは私たちを決して個別化することを許さず、いかなるアカウントもSNSのネットワークの一部であり、アルゴリズムの変数のひとつにすぎない環境を整備した。ネット上の発言はタイムラインの集団的熱狂に駆動され、自身の属する限定されたコミュニティの言霊を反響させる。

 福田恆存が日本近代の病として洞察した次のような一節は、現代のネット環境への分析としても有意義なほどに的を射ているだろう。

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では、個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。じつは、全部が見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。(2)

 インターネットあるいはSNSにおける自我の混乱は、技術がもたらした不幸であると同時に、近代的な人間が不可避的に陥る問題の可視化であると言ってもいい。ネットが私たちに与えた新たなる環境は、技術的プラットフォームとしては個人が完全なる独立した自我であることを可能にすると同時に、人間的コミュニティとしては決して独立を許さない全体的な集団であることを強要する。インターネットにおける自我の矛盾した困惑は、日本の近代化における自我確立の問題の反復的な病であるという可能性がある。

 福田の認識によれば、西洋では絶対的な神という全体の否定性によって個人や自由が確立され、近代が成立していったのに対して、絶対的な神なき日本においては全体性なき自我が機能不全に陥っていることが日本近代の最大の問題であった。全体を俯瞰できているような気がしながら、実は自分が部分でしかありえず、小さな集団のなかで自閉していく態度しか持ち得ないと福田が批判したのは、「私小説」の態度と状況である。日本の近代文学者たちは西欧のリアリズムを学びながら、それを日本に植え込もうとしたときに錯誤に陥った。彼らは藝術と社会の対比を、理想と現実の対比に変換し、藝術の理想に賭けることによって、観念に取り込まれていった。福田はその象徴を白樺派、とくに志賀直哉に見るが、彼は「現実を大胆に追放したところに、強度の現実性を確保」したのであり、藝術という孤立して確保された場所から見えるリアリズムは結果として「じつくり腰を落ちつけてみたものの眼に、いまや見えるだけのものが見えはじめた」のであり、「動かずにゐて視界にはひつてくるもの――それを現実と見た」(3)のである。

 全体を俯瞰できるという「錯覚」は、「見えるものだけが現実」という背理を抱えており、それは個人が全体を見るという不可能性の必然的な帰結である。それゆえに近代文学者たちはその不可能性を矛盾として、全体を眼差す自己の不能を苦悩として描いていく。福田の認識によれば、近代文学者たちは、実のところ自我を確立しようとしていたのではなく、全体なる社会を拒絶したインテリが必然的に孤絶的な苦悩を高めていったのである。

「意識と自然」という問題

 日本近代文学にとって、「自然」の再定義こそが最大の問題だった。福田の言う「全体」なるものは、万葉集から古今集など古典文学においてはほとんど自然が代替していたと言えるが、明治以降の都市的文学においてこの自然を全体とすることはできなくなった。すでに夏目漱石は『三四郎』において、その急速な開発によって変貌する都市をロンドンの近代的都市と重ね、「自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない」と、自然との接続を失った浮遊する実存の不安を描き出した。

 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で国木田独歩の『武蔵野』において、はじめて「自然」ではなく「風景」が描かれたことを指摘したが、これは意識がそれと一体化してしまう「自然」と区別して、むしろ対象化された自然としての「風景」を眼差す「内面」の発見であることが重要だった。いわば柄谷は「自然」を「風景」に変換することによって、全体なる自然から切り離された個を創出する眼差しを取り出した。西洋のように個が神との対立によって形成されることのない日本において、自然との癒着を切り離す概念を見出すことこそ、日本的な個人主義思想の誕生の契機である。

 柄谷における「意識と自然」の関係は、福田恆存においては「個と全体」の関係に類する。柄谷において風景としての自然を可能にしたのが、言文一致運動における「透明な言語」によって自然を眼差し記述する意識だったとすれば、福田における全体はむしろ「有機的な言語」の歴史性であり、その歴史的な言語を引き受ける個人であった。福田において個人は孤立して存在することはできず、全体なる歴史性を帯びた言語の有機的ネットワークに参加することで、日本的な歴史と生活の実感を伴うものでなければ成立しない。

 ここには、明治以来の文学や文芸批評が「小説」という形式を中心に発展したことと比較して、福田が「演劇」という藝術形式をその中心に据えたことが大きく関係している。小説のように孤独で私秘的な条件が成立せず、身体と他者という別の条件を通じて個人を捉える演劇的な視座は、日本近代の文芸批評の中では周縁に位置していたが、ここに私たちの近代が見落としていた可能性がある。

身体化する言葉

 福田恆存は近代的主体の成立を、ルソーではなくシェークスピアに見出す。人間は動物のようにあるがままに生きるのではなく、そこに物語を生み出す生物(劇を必要とする生物)として文学を生み出してきたが、一般に近代的な自我確立の象徴的な作品とされるルソーの『告白』は「自己劇化」であると福田は指摘する。キリスト教を失った自己は、神に向かってではなく自己自身で告白し物語る主体となるが、卑小な人間としての自己はこの自己告白によって常に裏切られ続ける。神を信じることができない人間が代わりに信じたのが誠実な言語であったが、確実性を求めて行き着く先は「ことば以外のなにものをも信じられぬといふ悲壮な美学的倫理」(4)である。自己を確証するための言葉が、自己に依存しているという自己循環的な「自己劇化」のなかで近代人は息詰まる。福田によればルソーの告白の試みは、はじめから袋小路に向かう悲劇でしかない。

 たしかに藝術には絶対性がある。文学のなかには宗教的な神がいなくとも、日常を絶する奇跡的な瞬間を生む力がある。しかしながら問題は、ルソーの告白や私小説は、その絶対的な藝術を自ら生み出して自ら享受するという自己循環的構造に依存しているということだ。他方で福田の注目するように、劇作という文学の形式には、その構造を脱出する別の力が存在する。

 シェークスピアのマクベスには「自由」と「宿命」の両方が与えられており、その葛藤においてはじめて自己が成立する。彼は自由に行動し、自由に独白するのではなく、その言動は常に宿命という全体に対する個の闘いであり、その緊張関係のもとに初めて自己が獲得され、劇が成立する。

 また重要なことは、マクベスを演じる俳優のセリフは「決まっている」と同時に「決まっていない」という二重性があるということだ。「すでに決定されている行動やせりふを、役者は、生れてはじめてのことのように、新鮮におこない、新鮮に語らねばならぬ」(5)。演劇においては自己劇化が不可能である。役者は自己であると同時に、劇全体に開かれ、規定された人間でなければならない。ここに、全体と個の緊張関係が成立するが、その調整を行うのが他ならぬ役者の身体である。福田は劇作家として役者に指示する際、他の役者との間や、歩くときの重心、会話のターンテイキングなどの身体的行為を注視する。決められたセリフを話す人間は、その身体の微細な表現において、言葉を身体化する。言葉の絶対性を信仰してそれに身を委ねるのでもなく、言葉を道具として完全な主体的自由によって操作するのでもなく、身体という揺らぎのなかで個と全体の調停を行う態度、それこそが福田が近代的個人の確立の方法論として重視したものであった。身体とはいわば、全体と個のインターフェイスとして機能する調整媒体なのである。他者、世界、理念といった自己の外部のリズムと、意識、感情、思念といった自己の内部のリズムが、身体を通じて折り合わされるその感覚のなかで、理念はその具体的な行為性に接続され、また感情は他者に対して適切に伝えられる。

 福田恆存は自由や個性を批判するが、実のところその批判対象は自由そのものや、個性そのものではなく、「自由」「個性」などの(身体、実感、生活から切り離された)「理念性」であり、より正確に言えば新たなる理念を無批判に受け入れようとする私たちの態度である。西洋で熟成された「自由」なる理念が、私たち日本の歴史のなかでどのような意味を持つのか、どのように機能するのか、そのことの自覚と身体化なしに、理念のみを称揚する態度をこそ福田は批判している。

 理念は、身体化された言葉と共に語られなければ流行にすぎない。その警戒は現代でも有効だろう。「SDGs」であれ「LGBTQ」であれ、「ポリティカリー・コレクトネス」であれ、ヨーロッパやアメリカで形成され、様々な具体的な運動と多様な実存的な言説と討議、多くのコミュニティの蓄積の上に実装されようとしている様々な概念を日本に「輸入」する際、私たちはその理念のみを先取りしてこの別の歴史の上に接ぎ木しようとしてはいないか。あたかもそのような理念が自明に存在するかのようにその価値を拡散しようとしてはいないか。

 言葉は速く、身体は遅い。理念は軽く、生活は重い。なんらかの思想が私たちの生活し生きる時間のなかに実感をもって息づくのには時間がかかる。身体感覚や生活実感よりも、概念や論理が先行する知識階級やその周辺で普及するのは容易だが、その逆の順序で理解する――まず実感や常識が獲得され、その後に思想や論理を理解する――多くの人々の間にそれが浸透するのは極めて難しい。私たちに必要なのは理念のみを高めることでも、生活の中に埋もれることでもなく、理念と生活の緊張関係を持ち続けることである。

 理念と実感の乖離、インテリと大衆の乖離。福田はそれを、彼が最も影響を受けたイギリスの作家D・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が、日本でわいせつ物頒布罪に問われた〈チャタレイ事件〉で法廷に立ったときのリアルな感覚として感じていた。文学者には誰もが理解できる文学の理念が、裁判官や検察官などに、「全部法廷では通用しない」(6)ことに彼はショックを受ける。文学は全体を代表していない。文学の言葉は、誰もが実感できる身体化された言葉によって、ひとつひとつのコミュニティに対して翻訳していかなければならない。

 福田が考えていたのは、日本における倫理は、神や藝術の理念によっては獲得され得ないということだが、その原因は単なる神の不在や藝術の輸入という問題に集約されるのでもなく、言葉と倫理を形成する特有の構造にあるのではないか。

「個の倫理」と「場の倫理」

 絶対的なる神なき日本において、しかも「自然」という全体性が失われた近代以降の日本において、「全体」なるものはいかに倫理として機能するのか。正確に言えば、全体性がほとんど機能しないこの国においては、実際的には中途半端な全体性としての中間的な母体が、擬似的な全体性のごとく機能している。日本において個人を否定するものは、別の個人でもなく、絶対なる神でもなく、集団的な「場」なのだと指摘したのは河合隼雄である。彼は日本でしばしば「同調圧力」と呼ばれるものの正体を、精神分析的な観点から読み解いている。「場の中においては、すべての区別があいまいにされ、すべて一様の灰色になるのであるが、場の内と外とは白と黒のはっきりとした対立を示す」(7)という倫理こそ日本の本質的な問題である。

 河合はそれを一種の「母性社会の病理」と「診断」している。彼は、日本人は自らのアイデンティティを個人の能力や属性からではなく、また家族や所属するコミュニティからでもなく、その場その場で可塑的に創り出してしまうのではないかと指摘し、そのように場当たり的に創られたアイデンティティを「フィールドアイデンティティ」と呼んだ。それは精神分析的な観点から見れば、社会を構成する「母性の原理」と「父性の原理」の、前者への偏りが原因である。

「母性の原理」は「包含する」機能だ。我が子はすべて可愛く、能力や個性、善悪にかかわらず絶対的に平等である。ただし、母の膝下から離れることは許さない。子を危険から守るためであると同時に、母子一体という原理の破壊を防ぐ。「母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている」(8)

「父性の原理」は「切断する」機能だ。主体と客体、善と悪など、あらゆる世界を切断する父性は母性のように平等ではなく、個性や能力で子どもを類別する。父性は肯定的には強さを育てる建設性を有し、否定的には切断による破壊をもたらす。この両者の原理は端的に次のようにまとめられる。

母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。(9)

 母性原理の絶対的な平等主義は、「与えられた『場』の平衡状態」を優先し、平衡状態の維持こそが倫理となるのに対して、父性原理は各個人の欲求の充足と成長こそが倫理となる。日本社会において、一方では「出る杭を打つ」同調圧力的なコミュニケーションが充満しつつ、他方ではネオリベ的な自己責任論が叫ばれる状況であることは、このような分析が説得力を持つだろう。

 河合隼雄の見たてによれば、日本では父性原理が弱く、母性原理が支配的であるが故に、父性原理は原理の「確立者」であるよりもむしろ、母性原理の「遂行者」として機能し、そのことによって「場の力」と呼ばれる奇妙な事態が強化される。

まことに奇妙なことであるが、日本では全員が被害者意識に苦しむことになる。下位のものは上位のものの権力による被害を嘆き、上位のものは、下位の若者たちの自己中心性を嘆き、ともに被害者意識を強くするが、実のところは、日本ではすべてのものが場の力、、、の被害者なのである。
この非個性的なが加害者であることに気がつかず、お互いが誰かを加害者に見たてようと押しつけあいを演じているのが現状であるといえよう。(10)

 河合隼雄のこのような「診断」は、丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本的な主体確立の不能を精神分析的な観点から説明しているのと同時に、「場」が仮構された主体として加害の主語となることで、単に人間が責任の主体たり得ないだけではなく、むしろ被害的意識を持つという側面も明らかにしている。理念なき擬似的な全体としての日本的な「場」において、理念や価値は独特の動きを形成する。

《偉大な母性》と《永遠の少年》の二層構造社会

 平衡状態の場を切断する「母殺し」に失敗した者は「永遠の少年」になる。河合隼雄はユング派の神話的分析を参照しながら、成人になることのできない永遠の少年と、それを許容する母性社会こそ日本の病理であると考えた。古代ギリシア神話において、〈エレウシースの秘儀〉と呼ばれる死と再生の儀式がある。大地母神デメーテルのもとで春には穀物が生まれ、冬には枯れて死んでいく刻の移ろいのなかで、何度も蘇る穀物の顕現としての、少年の神イアカスがモデルだ。

「『永遠の少年』は成人することなく死に、グレートマザーの子宮の中で再生し、少年としてふたたびこの世に現れる。『永遠の少年』は決して成人しない」(11)。死ぬことを恐れない少年は、幾度も上昇し、再び平衡状態の大地へと失墜し、これを繰り返す。日本における歴史の根付かなさ、瞬発的な価値の林立と不毛な再生を繰り返す「悪い場所」はこうした構造のもとに成立している。

 河合隼雄の日本的構造を端的に図式化すれば、この国では「すべてを包む母性《グレートマザー》」のレイヤーと「無限に上昇と下降を繰り返す《永遠の少年》」のレイヤーの二層構造によって成立している。そしてこれが、日本における悪い意味での「全体」(母)と「個性」(少年)の現実的な具体化となっていると言ってもいいだろう。

欧米の思想や芸術などが、林立するかのごとく見えながら、そのどれもが日本のグレートマザーの子宮をくぐりぬけるときに、日本化されてしまう。…日本ではこのように常に変化し、目新しく動きまわる傾向と、まったく不変の基盤とが共存しているのである。…グレートマザー的な絶対平等観を基礎として、それに「永遠の少年」の上昇傾向が加わるとき、日本人のすべてが能力差の存在を無視し、無限の可能性を信じて上にあがろうとする。ここに日本のタテ社会の構造ができあがってくるのである。(12)

 遠藤周作は、キリスト教が日本に根付かないことを「沼」に喩え、どのような種もこの地では花を咲かさないと言った。あるいは芥川龍之介は、短編『神神の微笑』のなかで、同じくキリスト教の宣教師の物語を書き、宣教師は種を植えて根付かせることができないどころか、むしろあらゆる自然のなかに(「薔薇の花を渡る風」「寺の壁に残る夕明り」)隠れ潜む小さな神々によって「拒絶」される様を描いた。明治維新から戦後にかけて、一貫して行われてきた日本の西洋思想への拒絶は、河合隼雄の思想によれば、それは拒絶ではなく、全てを平等化し、競争や対立を成立させないグレートマザーの子宮をくぐり抜けた「日本化」である。思想が芽吹き、育たないのでもなく、拒絶されるのでもなく、全てがフラットで等価な価値しか持ち得ない「場の倫理」の中へと吸収され、そのヴァーチャルワールドの中で擬似的な死と再生の儀式にしてしまうという魔力こそ、日本的な文化受容の様式なのだ。

 新たなる価値が飛来したとき、永遠の少年たちはこれを称揚して無限の高みにまで上昇させようと興奮の中で盛り上がる。しかしそれも流行り風邪のようにいつしか失墜し、全てが等価な現象の一つへと落ち着いていく。そのうちのいくつかの残存した思想は小さなコミュニティの中で再生産される文化となるだろう。しかしそれが私たちの歴史と生活を支える全体なる思想へと成長し、「大人」の価値を持つことはない。それは小さな少年の遊び場に引き落とされる。そして少年はまた、新しいオモチャを欲しがるように、新たなる思想の飛来を待ち侘びている。

二本の蠅の足

 個を超えた全体を求めるかぎり、日本的な「場の倫理」がいつでも形成されるのだとしたら、福田恆存はこれにどう応答するだろうか。実は彼もまた、日本の近代化における自我確立が失敗した原因を、同じように「場の原理」と呼んでいた。それが会社組織であれ、家族的共同体であれ、大学組織であれ、実は私たち日本人はこの場の磁力から抜けられない。そしてそのことが、最初に論じた日本近代文学の苦悩にさえ表れているというのが福田の考えだった。

人〻はただ場から脫け出られず、一度脫け出したら生きて行けさうもない個人以歬の嬰兒的性格に不安を感じてゐるだけであり、それを飜譯文學の誤讀によつて「近代的不安」と解釋し、自分が一端近代人であるといふ自己欺瞞に醉つてゐるに過ぎない。(13)

 日本近代文学者たちは、また別の形で近代という断絶と展開という歴史を引き受けようとしていたのであり、彼らの苦悩をこのように単純に矮小化することはできないが、たしかに日本近代文学の自然主義が私小説という形式を選び、その論壇的コミュニティの閉塞感に包まれていったというのも事実ではある。たしかに近代文学者たちもまた、生活を忘れた藝術のユートピアという特殊な「場の力」に支配されていたのかもしれない。

 私たちはこのような場の磁力に対していかなる態度を取ればよいのか。福田恆存は独特の比喩を提示してその思想を表現している。それは、蠅取り紙にくっつく蠅の振る舞いである。

これは蠅取紙に六本の脚を悉く附けてしまふ樣なものである。それどころか、飛び立たうとしてもがけば踠くほど腹や羽まで紙に貼り附き、どうにも身動きが出來なくなつてしまふ。二人の人間が場を构成する爲には、精〻一本か二本の脚だけを蠅取紙に附けてゐれば足りる。さうしてゐれば、いつでも場から離れ、個に還る事が出來るし、相手の出方次第でまた別の場を形成したり、他の相手との場に切換へたり、或は今まで二人切りで作つてゐた場に、第三者が氣樂に入込んで別の場を形成したりする事が出來る。(14)

 福田は場の力を単に否定しているのではない。むしろ逆であって、彼がシェークスピア作品に見出した「宿命」や、演劇の役者を拘束する力こそ、この場の力のメタファーでもあった。「ハムレットは彼の歬に次〻に現れる敵、身方に對して、自らの手で實に鮮かに場の轉換を計る。言換れば、その場に應じて複雜な自己の異つた面を、詰り狂氣から正氣へ、燥ぎ𢌞りから沈痛な獨白へ、激情から輕口へと急激な變化を展開して見せる。それにも拘らず、といふより、それ故にこそ、その根柢に一貫した性格、人格が成立する」(15)

 このようなハムレットの態度こそ、「二本の脚」で場に接着しながら、同時にそこから飛翔することも可能な振る舞いである。世界を一挙に一つの視点から眺め渡すのではなく、自分自身がその場に参入しながら、しかもそこに埋没しないということ。このような存在こそ、福田にとっての近代的個人の理想の姿であった。

演技する精神――複数化する時代に

 場に全体重を乗せずに、部分的に場と交わること。宿命を受け入れながらも、その拮抗において自由を演じること。身体化された言葉によってその思想の言葉を吐き出すこと。こうした福田の思想を実践する倫理は、やはり「演劇的」な精神であり、私小説的な文学が見逃していたかもしれない倫理である。興味深いことに、同じく劇作家であり思想家でもある山崎正和は、福田とほとんど同じような結論に達している。

生まれながらの特性に固執し、帰属すべき世界をひとつしか持たず、頑固に自分でありつづけようとするのは、個人として成熟するまへの幼児の特性であらう。おとなの個人性とは、あくまでも柔軟な態度の同一性のことであり、演じられたいくつかの役の背後で、つねに静かに醒めてゐる俳優の心の同一性のことなのである。(16)

 山崎は、私たちは誰もがなにかしらの「演技」をしており、演技を通じて身体行為を成立させているという精神の在り方を「演技する精神」と呼ぶとともに、多様な演技的な精神によって自己の一貫性を解除する個性を「柔らかい個人主義」と呼んだ。山崎にとって成熟とは、一貫した自己同一性を堅持することではなく、むしろ逆に自己の矛盾を積極的に受け入れ、「柔軟な自己同一性」を保持すること、複数の役割に向けて自らを開いていくことであった。自己を完全なる自由という幻想へと解放するのでもなく、また自己を一つの役割へと限定するのでもなく、自己を複数の役柄を演じる役者へと変身させていく柔軟性を獲得していくこと。それは単なる分裂ではなく、分裂していく演技的自己と、それを統合する俳優的自己の二重性を自己に留めておくことである。

 山崎はこのような新しい成熟の可能性を八〇年代の消費社会の中から展開しようと試みたが、現代ではまた別の形でこうした自己の新しい在り方が模索されているように思える。当事者研究の熊谷晋一郎は、「自立」とは他者や環境に対して依存していないことではなく、むしろ自立とは「依存先を増やすこと」であるという新たな観点を提示し、英文学者の小川公代は男性・女性という役割を移動していく「両性具有的自己」や、そのような複数の自己へと開かれていく「多孔的自己」などの観点から、自立的自己の限界を示している。

 福田恆存や山崎正和らが演劇を通じて見出した自己の在り方は、私小説的な一人称のワンレイヤーから多様な世界を見渡して観察する自己ではなく、多人称的な役割のマルチレイヤーを移り渡りながらそのプロセスにおいて自己の輪郭をたしかめていく思想であったと言っていいだろう。

 本稿は冒頭でネット世界における自我の矛盾を指摘したが、アーキテクチャの設計が自己に一つのアカウントを与えながら同時に複数的な役割を次々に与えていくようなコミュニケーション環境の時代に、私たちがこの「演技する精神」から学ぶものはあるだろう。それは、複雑化する世界に対して、柔軟に変容しながら生きていく自己の想像力である。

 *

  いま私たちの世界から、アイロニーが失われている。複雑な現実の世界を多層的に捉える視座が。「少年」のように無垢で真っ直ぐな視線たちで溢れかえっている。世界は単純ではない。現実の世界は、黒から白へとオセロをひっくり返すようには塗り変わらない。歴史を背負った私たちは、崇高なる理念によって、完全なる自由な意志によって、自分を一気に根本から変えてしまうことはできない。もしも私たちが急速な変容ばかりを目指すとすれば、その変化の速度についていけない者たちを切り捨て、あるいは自らの潜在的な欲望を抑圧していくことになるだろう。私たちが変化すること、それは理想とする仮面をつけながら、演技を通じて少しずつそれを身体化してゆっくりと変容していくことでしかない。

 人間は自由ではない。私たちの意志は無数の来歴と環境のなかから生成しては去っていく。しかしまた同時に、他者を「自由」とみなさなければ社会は成立しないし、同様に自己もまた「自由」であるとみなされなければ生きていけない。そうして私たちはいつも、自ら選んだかどうかも分からない行為の責任を負うことになる。「後悔」と呼ばれるものの内実は、行為の後からしか見出すことのできない自由、という根本的な人間の矛盾が引き起こす感情である。人間が原理的には自由でないにも関わらず、自由であるとみなさなければ生きていけないという二重性がある限り、私たちは後悔から逃れることはできない。

 演技すること。それは私たちがなんらかの役割を自ら自覚的に引き受ける訓練をすることに他ならない。それは、自由と不自由の両方の感覚を持つことだ。愛するということ、憎むということ、男であること、女であること、父であること、母であること。私たちは様々な役割を演じながら、その感覚を養っていく。はじめから与えられた人間の運命がない限り、そうして少しずつ役割と存在を近づけながらその距離を把握していくしかない。そうでなければ、すべての行為は、真か偽か、敵か味方か、場の内部にいるのか、外部にいるのか、その単純な政治的ゲームへと転落していく。

 六本のうち、二本の脚で場に留まること。いつでも離脱可能であるが故に流動的な場を形成できるという可能性。複雑化していくこの世界のなかで、世界に飲み込まれず、自己にも飲み込まれずに生きていくこと。それは、単純さと混沌の狭間に引き裂かれながらも、安易に結論を出さずに、痛みに堪えながら生きていくことだ。

(1)福田恆存『人間・この劇的なるもの』中公文庫、一九七五年、一四頁。
(2)同前、三二―三三頁。
(3)「芥川龍之介Ⅰ」、福田恆存『人間とは何か』浜崎洋介編、文春学藝ライブラリー、二〇一六年、九九頁。
(4)「自己劇化と告白」、同前、四四頁。
(5)福田恆存『人間・この劇的なるもの』、一八頁。
(6)「文学を語る」(聞き手 秋山駿)、『福田恆存対談・座談集〈第三巻〉楽観的な、あまりに楽観的な』玉川大学出版部、二〇一一年、六九頁。
(7)河合隼雄『母性社会日本の病理』講談社+α文庫、一九九七年、二六頁。
(8)同前、二〇頁。
(9)同前、二一頁。
(10)同前、二八頁。
(11)同前、三五頁。
(12)同前、三八―三九頁。
(13)「醒めて踊れ――「近代化」とは何か」、『福田恆存全集〈第七巻〉』文藝春秋、一九八八年、三九六頁。
(14)同前、三九八頁。
(15)同前、三九七頁。
(16)山崎正和『柔らかい個人主義の誕生――消費社会の美学』中公文庫、一九八七年、一四二頁。


(初出、「文學界」2023年7月号


プロフィール

下西風澄(しもにし・かぜと)
東京大学大学院博士課程単位取得退学。哲学研究。86年生まれ。『生成と消滅の精神史――終わらない心を生きる』(文藝春秋)。


「文學界」2023年7月号 目次

【創作】小林エリカ「風船爆弾フォリーズ」(短期集中連載)
東京に宝塚劇場ができた年、私たちは小学一年生になった。聞こえるのは少女たちの歌声と、戦争の足音――
長嶋有「運ばれる思惟」
絲山秋子「神と提灯行列」
水原涼「誤字のない手紙」

【鼎談】朝吹真理子×犬山紙子×村田沙耶香「童話発、BL経由、文学行き」
毎日LINEでやり取りをする三人が語り合う、思い出の中の本たち

【対談】ノリス・ウォン(映画監督。『私のプリンス・エドワード』)×西森路代「女性の選択を描くこと」

【スピーチ】柄谷行人「バーグルエン賞授賞式での挨拶」

【特集】甦る福田恆存
「私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」今なお新しいその言葉を読む

〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」
〈読書案内〉中島岳志「文学の使命」/浜崎洋介「信ずるという美徳」
〈批評〉下西風澄「演技する精神へ――個・ネット・場」(*本稿)/片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」/平山周吉「昭和五十四年の福田恆存と、一九七九年の坪内祐三青年」
〈初公開書簡〉福田逸「昭和三十年、ドナルド・キーンとの往復書簡」


【巻頭表現】殿塚友美「あとかた」
【エセー】岡田彩夢「アイドルから、谷崎潤一郎へ。」

【強力連載陣】砂川文次/金原ひとみ/綿矢りさ/宮本輝/奈倉有里/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/津村記久子/松浦寿輝/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子

【文學界図書室】町田康『口訳 古事記』(阿部公彦)/平野啓一郎『三島由紀夫論』(中条省平)

表紙画=柳智之「福田恆存」

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