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対談 中島岳志×浜崎洋介 神なき世界をどう生きるか<特集 甦る福田恆存>

対談 中島岳志×浜崎洋介 神なき世界をどう生きるか<特集 甦る福田恆存>

文學界7月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 7月号」(文藝春秋 編)

■冷戦後の出会い

 中島 福田恆存について浜崎さんと対談するのは、ほぼ十年ぶりですね(「図書新聞」二〇一二年一一月二四日号、後に『総特集 福田恆存――人間・この劇的なるもの』に収録)。

 浜崎 もう、そんなに時が経ってしまってたんですね(笑)。

 中島 浜崎さんは二〇一一年に『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』(新曜社)という非常に素晴らしい福田論を発表した。僕は感銘を受けて、すぐに朝日新聞で書評を書きました(二〇一二年一月二二日付)。僕は密かにいつか福田恆存を本格的に論じなければならないのではないかと思っていたのですが、浜崎さんの卓抜な福田論が出たおかげで勝手に肩の荷が降りた気になったのをよく憶えています。

 今日は、世界的に自由や個人主義、民主主義の理念が行き詰まり、再検討を迫られているなかで、いまこそ福田恆存を読むべきではないかという問題提起を編集部から受けまして、再び浜崎さんと対談することになりました。

 福田恆存は読者の実存、生き方に深く響く言葉を残した批評家ですので、まずお互いの福田体験を語れればと思います。浜崎さんはどのように福田に出会ったのでしょうか。

 浜崎 色々なところで書いてきたことなんですが、あらためてお話しすると、やっぱり僕も「戦後の子」なので(笑)、若い頃は、個性を求め、自由を求め、自分とは何かを自問していたんですね。と同時に、高校時代に、柄谷行人に傾倒して「現代思想」にかぶれ、社会変革の夢に憑かれてもいました。端的に言えば、自分自身が抱え持った苦しさの原因を自分ではなく、社会に求めていたわけです。社会を変えれば、この苦しみからも逃れられるんじゃないかと。そして、自分の自由を実現できるのではないかと。でも、そう考えている限り、結局、脱け出せない隘路に嵌り込んでしまうんですね。

 というのも、政治的に社会を変えようとすると、どうしても敵と味方の境界設定が要るので、どこかで他者を切り落とさざるをえない。それで自分が幸福になるなんてことはあり得るのだろうか。あるいは、福田恆存の有名な「一匹と九十九匹と――ひとつの反時代的考察」(『保守とは何か』文春学藝ライブラリー所収)の言葉を借りれば、たとえ社会を変えて、「九十九匹」を幸福にできたとしても、それでも、「この一匹」として生まれた自分の問題は残ってしまうのではないかと。

 とはいえ、もちろん「一匹」に引き籠ったところで、他者との絆を失うばかりで、何の解決にもならないことは分かっていました。まさに、若い頃の僕は一匹と九十九匹のジレンマのなかでずっとギッコンバッタンしてたんですね。一匹と九十九匹をつなぐ道が見えなかった。

 しかも、現代思想は、脱構築や、リゾームを語るばかりで(笑)、その問題に答えているように見えなかったというより、そもそも、そんな問題があることにさえ気づいているようには見えなかった。

 先に結論を言えば、この問題に答えるためには、実は、自他を超えたものへの「信仰」の問題に取り組まなければならないんですが、「信仰」などと言うと、「何と反知性的な……」というのが、現代というか、戦後のお決まりコースです(笑)。

 そんなときに福田恆存に出会ったんです。福田を読むと、いま言った問題が全て押さえられている上に、「信仰」を理念にしない方法までが非常に明晰に提示されていた。つまり、経験を切り落とさないどころか、むしろ、私の身体の内側から信仰へと至る道が具体的な理屈と共に書かれていたんです。それに、もの凄く驚くと共に衝撃を受けたというのが、私と福田恆存の最初の出会いでしたね。

 中島さんは、どこかで西部邁先生と出会ったときに世界が転換したような経験をしたと仰っていましたが、それが僕にとっては福田だったんだと思います。

■「近代の宿命」の衝撃

 中島 僕にとっては、西部邁という人があまりにも大きかった。西部先生のものを初めて読んだのは、一浪して大学に入った一九九四年で、その年に西部先生が創刊し、主宰を務められていた「発言者」の創刊号が刊行されたんです。今になってみると、なぜ手に取ったのかは思い出せないのですが、それを買ったのが、西部先生との出会いでした。

 九四年の前年に非自民政権である細川内閣が発足し、政治改革の必要性が盛んに唱えられていました。そんなときに西部先生の『リベラルマインド』を読んだら、政治改革反対なんです。それでけっこう僕の世界がひっくり返っていきました。西部先生の著作に出会う前は、リクルート事件が起こり、佐川急便事件が起こり、そのような事件の原因となっている「巨悪」を小選挙区制を導入することで、排除しようとしている政治改革は正義である、と僕も素朴に信じ込んでいました。それに対して、西部先生は小選挙区制を導入したら、党が強くなり、政治家は党に上目遣いで媚びるようになり、個人が消えて党人となり、個人同士の闊達な議論がなくなってしまう、と警鐘を鳴らし、小選挙区制に反対していました。僕は、その通りだと思い、リベラルなマインドこそが保守なんだ、という西部先生の論に目を啓かされていきました。

 リベラルと言えば、普通は左翼を思い浮かべると思いますが、左翼は自分が正しさを所有していると思い込んでいる。それに対して、保守は懐疑的な人間観を持っているので、まず最初に自分を疑います。自分を疑う以上、自分と異なる意見を持っている人間がいたとすれば、まずはとりあえず耳を傾けてみよう、ということになります。そして、その意見に理を認め、なるほどと思えれば、相手が少数派であったとしても、お互いに何らかの合意を形成していけるはずだと保守は考える。西部先生は、お互いの価値観の葛藤に耐えながら、合意形成をしていく精神のなかにこそ、リベラルマインドは宿るのだと言います。僕は西部先生の思想に深くうなずくとともに、「すると、僕は保守なのか⁉」と悩みました。「保守」は、それまでの僕にとっては、受け容れがたい思想でしたから。そのような葛藤を経て、一年ぐらいかけて、自分は保守だと認めざるをえなくなったのですが、その過程で、「では日本の保守の核心にあるものとは何なんだろう」と思い、その問いを探究していくなかで出会ったのが、福田恆存でした。当時の論壇誌で保守派とされた人たちのものも、読んでみたのですが、まったく心に響いてこず、むしろ熱中して読んだのが一時代前の福田恆存であり、小林秀雄であり、江藤淳といった批評家たちでした。

 浜崎 福田恆存では、最初に何を読んだんですか?

 中島 真っ先に読んで、今でも座右の書になっているのは、『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)です。その冒頭の方で福田はこう書いています。

「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する――ほしいのは、そういう実感だ。(中略)

 生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台のうえで、つねにそうであるように」

 自由ではなく、宿命を求めて人間は生きてきたし、これからもそうやって人間は生きていくだろう、と福田は言います。そのためには、必然性や宿命を役者のように演じる自己とともにそれを味わう自己も必要だと。この二重性を強調するのが、福田の特徴ですね。

 僕はこれを読んで、近代は個人に自分が演じるべき意味や役割を与えてくれるトポスを失った時代なのではないだろうか、と考えるようになりました。二〇〇〇年代に入って、非正規雇用が大きな社会問題となり、僕もその拡大に保守の立場から反対を唱えましたが、それはまさに非正規雇用は働く人からトポスを奪うものだと考えたからです。そこでは、人間は名前を奪われ、取り換え可能な部品のように扱われています。

 福田の著作で他に決定的な影響を受けたものを挙げるとすれば、先ほども話に出た「一匹と九十九匹と」と「文学と戦争責任」(『福田恆存文芸論集』講談社文芸文庫所収)です。

 浜崎 なるほど、だとすれば同時期に書かれた「近代の宿命」(『保守とは何か』所収)もいいですよね。これはスケールの大きい西洋五百年の社会システム論(ルーマン)みたいなものです。先ほど言ったような隘路に嵌っていたときに読んだんですが、神なき自由主義者、近代主義者がどのような壁にぶつかるのかが、非常に明晰に書かれています。

 福田が「近代の宿命」で述べていることを僕なりに要約すると、ヨーロッパが育て上げてきた「自由」という概念は、そもそも、一匹における神への眼差しの下にしか成り立たない概念なんだと。十六世紀に始まる宗教戦争は、「信仰の自由」を守るための闘いでしたが、その後、十七世紀に現れてくる世俗的な主権国家も、その「神に従属する自己」を守るための制度でした。そして十八世紀、絶対王政からの自由のために、啓蒙主義と国民国家論が唱えられますが、それによって「支配=被支配の自己」(九十九匹の領域)が合理化されていくと、次第に「神」なしでもやっていけるかのような錯覚が現れはじめ、それが十九世紀の個人主義のニヒリズムや、それを問題として描く近代文学を誕生させることになる。そして二十世紀、ついに、その自由の空虚に耐え切れなくなったヨーロッパは、自由からの自由を求めて、反近代主義思想(現代カトリックから全体主義まで)を生み出すことになります。

 ここで重要なのは、「〜からの自由」というリベラリズムの概念は、「神への自由」に支えられていない限り、単なるエゴイズムや快楽主義やニヒリズムと見分けがつかないという指摘です。つまり、「理想的人間像」(キリスト像)によって支えられていない限り、個人主義は不可能であり、その無残な証明こそが、神を持たぬ近代日本の歴史ではなかったかと。

 福田は、「近代の宿命」で現代の「自由主義」に対する疑問を、次のように書いています。

「個人主義は個人の純粋性といふものを擁護せんとするが、それはたんなる特殊性を純粋性と見まちがへてゐはしないか。その純粋なる自我にしてもし神に従属しないとするならば――それならば神から独立した純粋自我とはいつたいいかなる内容をもつものなのか。それはなにかあると思ひこんでゐるだけで、結局は社会の合理化によつて、あるいは物質の満足によつてけりのつくものではないのか」

 これはもちろん反語ですが、要するに、神なくしては、個人は自律性を持ちえないし、「純粋なる個人」などと言ったところで、その中身は空っぽなのだということです。

 逆に言えば、個人の自律性や自由が成り立っている処では、必ずその背後に、その支えが存在しているのだということにもなります。そして、この認識が、後に「九十九匹」から零れ落ちた「一匹」を支える「全体」――すなわち「自然・歴史・言葉」という福田恆存の信仰のかたちを作っていくことになります。それらのものに支えられて初めて個人が個人であり、また、その個人の自由も可能なのだと。

 先ほど僕は、一匹と九十九匹を結ぶ道を見出すには、信仰の問題を考えなければならないと言いましたが、それは、今言ったような理屈があるからです。どうすれば私たちの自由が実現できるのか、と考えていくと、福田と同様、全体のなかの部分として生きる自己の「調和」というものを考えざるを得ない。つまり、政治的全体主義ではない文化的全体性、要するに「伝統」に対する信仰の問題に突き当たらざるを得ないのだろうと思います。

 中島 その通りですね。福田は「自分はカソリックの無免許運転」と言っていましたが、人間を上から見ている神、個人と直結し、それを支える神のような、ある種の超越軸を常に見失わなかった人だと思います。その超越軸が常にあったから、一匹と九十九匹、個人と社会、文学と政治の問題を考えるときに一方が一方を呑み込んでしまうような、あるいはどちらの問題も一挙に解決できるとするような一元論的な思考を生涯斥け、それぞれが絶えざる緊張関係を持って、対峙しつづける二元論的な思考や態度を貫くことができたと考えられます。自己意識を肥大化させても、社会の問題は捨象できないし、革命を起こしてユートピアを建設したとしても、個人の実存の問題は解決されない。そのような冷徹な認識を持つことができた。

 神から人間を見下ろす超越軸から人間を批判的に捉えると、人間の理性を万能だと考え、それによって世の中を理想社会に導けるなどとはとても考えられない。全知全能で完全な神から見れば、人間は不完全で間違いやすく愚かで、そのような人間によって構成されている社会も、やはり不完全であるほかない。であるならば、革命によって理想社会を建設できるなどということは信じられない。ヨーロッパにおける保守思想の源流となったエドマンド・バークは、そのように考えたわけですが、福田もそれと近しい感覚と認識を持っていたと思います。福田は人間の弱さや愚かさ、エゴイズムを凝視し、それを決して否定しませんでしたが、と同時にその人間を凝視するまなざしには常に超越的なものが伴われている。 

■リベラリズムの限界

 浜崎 そうですね、「近代の宿命」は一九四七年発表ですが、すでに福田独特の二元論と超越軸の問題がはっきりと書き込まれています。そこで福田は「近代の政治的確立とその精神的超克」と言っていますが、これを先ほど中島さんが指摘した文脈に沿って敷衍すると、「近代の政治的確立」とは、一元論を排したリベラリズム・個人主義の確立だと言っていいでしょう。しかし、繰り返しになりますが、リベラリズムはリベラリズムだけで立つことはできない。そこで、その前提=信仰の問題が問われることになるわけですが、それが近代の「精神的超克」と表現されることになる。敗戦直後の一九四七年の段階で、福田は、その問題をすでに明晰に捉えているんですね。

 その点、西部先生は、福田恆存と比べると、より二元論のあいだで、いかに「均衡」をとるのかという問題の方に重心を置いていたように見えます。よく「飛行機っていうのは、だいたい左翼と右翼があって、尾翼(保守)があるから飛ぶんだ」みたいなことを言ってましたが(笑)、そのバランス感覚の由来が伝統なんだと。私たちの二元論は、伝統感覚に包まれて初めて平衡するんだと。それに対して、福田は、やはり神なき近代日本の超克という主題が目立っているような気がします。近代の世俗化・大衆化に抵抗し得る基盤がどこにあるのか、その信仰の在処を懸命に探り当てようとしているように見えます。


(続きは、「文學界」2023年7月号でお楽しみください)


プロフィール

中島岳志(なかじま・たけし)
1975年生まれ。政治学者、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。戦前の右翼思想や戦後の保守思想を再検討する仕事を続けてきた。『中村屋のボース』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『テロルの原点』『思いがけず利他』など著書多数。

浜崎洋介(はまさき・ようすけ)
1978年生まれ。文芸批評家。2011年、『福田恆存 思想の〈かたち〉』を発表。『保守とは何か』などの福田恆存のアンソロジーを編む。著書に『反戦後論』『小林秀雄の「人生」論』『ぼんやりとした不安の近代日本』など。


「文學界」2023年7月号 目次

【創作】小林エリカ「風船爆弾フォリーズ」(短期集中連載)
東京に宝塚劇場ができた年、私たちは小学一年生になった。聞こえるのは少女たちの歌声と、戦争の足音――
長嶋有「運ばれる思惟」
絲山秋子「神と提灯行列」
水原涼「誤字のない手紙」

【鼎談】朝吹真理子×犬山紙子×村田沙耶香「童話発、BL経由、文学行き」
毎日LINEでやり取りをする三人が語り合う、思い出の中の本たち

【対談】ノリス・ウォン(映画監督。『私のプリンス・エドワード』)×西森路代「女性の選択を描くこと」

【スピーチ】柄谷行人「バーグルエン賞授賞式での挨拶」

【特集】甦る福田恆存
「私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」今なお新しいその言葉を読む

〈対談〉中島岳志×浜崎洋介「神なき世界をどう生きるか」(*本稿)
〈読書案内〉中島岳志「文学の使命」/浜崎洋介「信ずるという美徳」
〈批評〉下西風澄「演技する精神へ――個・ネット・場」/片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」/平山周吉「昭和五十四年の福田恆存と、一九七九年の坪内祐三青年」
〈初公開書簡〉福田逸「昭和三十年、ドナルド・キーンとの往復書簡」


【巻頭表現】殿塚友美「あとかた」
【エセー】岡田彩夢「アイドルから、谷崎潤一郎へ。」

【強力連載陣】砂川文次/金原ひとみ/綿矢りさ/宮本輝/奈倉有里/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/津村記久子/松浦寿輝/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子

【文學界図書室】町田康『口訳 古事記』(阿部公彦)/平野啓一郎『三島由紀夫論』(中条省平)

表紙画=柳智之「福田恆存」

プレゼント
  • 『海を破る者』今村翔吾・著

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    応募期間 2024/5/31~2024/6/7
    賞品 『海を破る者』今村翔吾・著 5名様

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