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アイスネルワイゼン

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三木 三奈

文學界10月号

出典 : #文學界

「文學界10月号」(文藝春秋 編)

 子供がうつらうつらしはじめたところで、琴音は足を組み直した。太ももに手をのせ、ピアノの屋根の上、四つの写真立てを眺める。端から順に、子供の写真、家族の写真、子供の写真、子供の写真。メトロノームは隣の食器棚の中、ワイングラスの横に並んでいる。琴音は腕時計を見おろすとため息をつき、子供の横顔を見つめた。頭がゆらゆらと前に傾いて楽譜にあたりそうになると、子供はびくついて目を開いた。

「寝てたでしょ」

 琴音が言うと、子供は目をつむったまま、にやりとした。

「疲れちゃった?」

 子供は曖昧にうなずいて言った。

「走ったから」

「走ったの」

「体育で」

「そうなんだ」

「マラソン大会あるから」

「マラソン大会?」

「一月二十三日」

「そうなんだ」

 琴音はバイエルに手を伸ばし、前のページをくりながら、

「寒いのに、大変だね」

 と言った。子供はため息をつき、尻をもぞもぞと動かした。

「じゃあここ、ここからさっきまでのところ、続けて一回やってみようか。そしたら今日は、もうおしまい」

 そのとき玄関のドアが開く音がした。子供はそろそろとピアノを弾き始め、途中でやめ、指で楽譜をなぞり、ひぃ、ふぅ、みぃと音符を数え、また弾き、中断し、ひぃ、ふう、みぃ、と数え、ひと息つくと鍵盤を押した。母親がそっとリビングの扉を開け、静かに部屋に入ってきた。琴音は振り向き、母親が手に下げているケーキの箱に目を走らせた。二人は声を出さずに笑顔を交わすと、会釈をした。

「それで、先生にお伝えしないといけないんですけど」母親は隣に座る子供の顔を覗き込んで言った。「ね、先生に言わなきゃいけないことがあるんだよね?」

 子供はフォークをくわえながら首をかしげ、ぼりぼりと頬をかいた。そしてそのまま押し黙った。

「もー、自分から言うって、昨日約束したでしょ」

 母親は笑いながら言った。

「先生、大変申し訳ないんですけど、先週お聞きした、来年の発表会、今回は、欠席させていただきたくて」

「えっ、そうなんですか」

 琴音は目を丸くした。

「すみません……」母親は頭を下げ、ショートケーキにフォークをあてた。

「えー、そうなんですね……」琴音は鎖骨にかかる髪を二本の指で挟み、背中へはらった。「てっきり、参加されるんだと思ってました」

「私もそう思っていたんですけど」母親はフォークを口に運び、「ゆあなが急に、出たくないって言い出しちゃって」

 皿に残るクリームをフォークでかき集める子供を、母親は憐れむような目で見た。

「ゆあなちゃん、発表会、いやになっちゃったの?」

 琴音がテーブルに身を乗り出して言うと、子供は上目に琴音を見て頷いた。

「そうなんだ。どうして、嫌になっちゃったの?」

 子供はフォークを口に入れたまま、うつろな目を宙に向けた。

「この間の発表会で、ゆあなよりずっと小さい子が上手に弾いてるのを見て、恥ずかしくなっちゃったみたいで」

 母親が言った。

「ゆあなちゃん、そうなの?」

 子供がフォークを口から離すと、その先端からよだれが糸のように伸びた。

「気にすることないのに」琴音は子供に笑いかけて言った。「発表会は三月だし、まだまだいっぱい時間あるよ。ゆあなちゃんの弾きたいなって曲をいまから練習していけば、全然間に合うよ。他の子のことなんか、気にしないでいいのに。ゆあなちゃんの弾きたい曲を弾いたら、それでいいんだよ」

「弾きたい曲、ないんだもん」

 子供はふてくされたように言った。母親は短く笑った。

「そっかあ。弾きたい曲、ないのかあ」

 琴音は明るく言い、母親と笑い合った。

「自分が練習しないのがいけないのにねえ。下手でもいいから、逃げないで、出て欲しいんですけどねえ」

「はい」琴音は力強く頷いた。「私も、出てほしいです」

「でもねえ、そうやって無理強いして、嫌な思い出を作ってしまうのも、違うのかなって……」母親は微笑みながら子供を見た。「それにこの人ガンコさんだから、一回言い出すと、何言っても聞かないんです。それで今回は……、すみません」

 母親はケーキに向かって頭を下げてから、切り分けたそれを口の中にしまった。

「わかりました。じゃあ運営の方には私から伝えときますね」琴音は紅茶へ口をつけてから子供の方へ体を向けた。「でもゆあなちゃん、次は絶対に出ようね。いまから練習すれば、まだ一年以上あるから。一緒に弾きたい曲探して、次はそれを発表会で弾けるようにしよう?」

 子供はフォークを皿の上に置くと、悠然とした足取りでリビングを出て行った。少しして戻ってくると、母親へ寄りかかって身をくねらせ、手に持ったノートを開いたり閉じたりした。

「なあに、聞こえない」母親は子供の口元に耳を近づけて言った。「見せてもいいかって? もー、そんなの自分で聞いてよ。すみません先生、ゆあなが、どうしても先生に見てもらいたいらしくって」

「私に? なんだろう、見せてー」

 琴音が両手を広げると、

「ゆあなが描いたマンガなんですけど」母親は言った。「今回、自信作らしくて」

「さすが」

 小林が言うと、琴音はスマホをスピーカーにしてテーブルに置いた。

「まじかと思ったよね。ふつう、ここでマンガ見せる? って」

「面白かった?」

「なわけないじゃん。子供のラクガキだよ。字が汚くて、セリフも読めなかった。おっ」

「どうした」

「や、いまネイル塗ってて、これ発色いいわ。安かった割に」

「好きだね。どうせすぐ落とすのに」

「そうなんだけど」琴音はテーブルに置いた右手の小指に顔を近づけた。「あーほんと、ピアニストより、ネイリストになりたかった」

「ピアニストでもないじゃん」

「ん?」

「ごめんごめん」

「てか、それはお互い様だよね」

「まあね、うちら無能コンビだから」

「は?」

「手塚に言われたじゃん、高校の、文化祭のとき」

「あー、手塚。よく覚えてんね」

「わすれらんないよ。一生覚えてるから」

「文化祭かあ、なつかしいね」

 琴音は言った。

「うちらほど何もやらなかった子もいないって言われた、手塚に」

「えー、あたし手塚のこと、何にも覚えてない」

「うそでしょ」

「文化祭といえば、クラスでクレープやったじゃん。かっちゃんにクレープいっぱい作ってもらって食べたのは覚えてる」

 琴音は右手をパタパタと動かした。

「かっちゃんね」

「あの日で、クレープ一生分食べたもん」

「元気かな、かっちゃん」

「ねー。まったく連絡とってない」

「まだ作曲、してんのかな」

「ああ、ね。なんだっけ。異名みたいな、あったよね……」

「いみょ?」

 小林は聞き返した。

「あだ名みたいなの、あったじゃん」

「藪高のモーツァルト」

「そうだっけ。ショパンじゃなかったっけ」

「どっちだっけ」

「わかんない」

「いや思い出した、かっちゃん、自分ではグリーグがいいって言ってた」

「なんでグリーグ」

「恥ずかしいからグリーグにしてって言われた」

「えー」

「言われた、思い出した」

「ちょっと変わってたよね、かっちゃん」

「ちょっとじゃないよ、超変わってたよ」

「まあね」

「あと、ハローカティ」

「あー、はいはい。え? カトーキティじゃなかったっけ」

「どっちでもいいんだよ。どっちもあったから」

「そうなんだ」

「好きだったよねえ、キティちゃん。いまでも集めてんのかな」

「もう三十過ぎだよ」

「いや、関係ないっしょ」小林は言った。「三歳の時からキティ一筋だって言ってたし」

「いつ?」

「高一のとき」

「よく覚えてんね」

「入学したとき、あの子、クラスの子みんなに、サンリオキャラの中で何が一番好きー? って聞いて回ってたんだよ」

「そうなんだ」

「うちがマイメロディって言ったら、なんでみんなマイメロディなのー? もー、やだー、キティちゃんでしょー、つって。……でもさあ、一年とき、クリスマス会あったじゃん」

「うん」

「あんとき赤鼻のトナカイをワルツにしてきたの、あれはすごかったね。大高先生も感心してたし。大学行ったら作曲勉強したいって言ってたもんね」

「えー、でもかっちゃんて、大学行ったっけ。行かなかったよね」

 琴音は言った。それから顔をうつむけて左手に取りかかった。

「だから、親が破産しちゃったから」

「えー、そうだったんだ」

 琴音は手をとめ、顔をあげてスマホを見た。

「知らなかったの? リーマンショックで会社、潰れちゃったんだよ」

 小林は言い、ごそごそと硬いものが擦れ合うような音がした。

「そうなんだ。それで行かなかったんだ」

「うちのクラスで就職したのって、あの子だけだよ」

「そうなんだ」

「なんか工場の、なんの工場か忘れたけど、なんか作ってる工場の事務やってるって言ってたよ。カメの結婚式のとき」

「えー」

「まじで知らなかったの」

「うん」

「へえ……」

「じゃあ大変だったんだ、かっちゃん」

 琴音はせりふを棒読みするように言った。

「そうだよ。うちらが大学で遊んでた頃、あの子は働いてたんだよ」

「そうなんだ」

「いまは知らないけど」

「えー」

「そうですよ」

「うん……」琴音は塗り終えた親指を見下ろした。「じゃあまあ、そういうことなんで、市田ゆあなは、今回は出ませんから」

「オッケ。でもさ、そういう、ゆるい子の方がいいよね。めっちゃ気合い入って、コンクールがどうのこうの言ってくるのより」

「それはそうだけど、でもさあ、なんか過保護っていうか、あまいっていうか……。メトロノームの話、したっけ?」

 琴音は人差し指を塗り始めた。

「してない」

 小林は言った。

「ピアノの上にさ、普通、メトロノームって置くじゃん。ていうか、あたし一回、言ったんだよ。メトロノーム買ってくださいって。したら買ってくれたはいいんだけど、それずっと食器棚に入ってて、皿とかグラスみたいに仕舞われてんの。で、ピアノの上には家族の写真がずらーってあって」

「ふうん」

「おかしくない?」

「別に、めずらしくないじゃん」

「なんでよ。あたしなんか小さい時、メトロノーム以外の物置いたら、めっちゃ怒られたんだけど」

「お母さんに?」

「一回、ぬいぐるみ置いてたら、ぶん投げられて。ピアノが汚れるでしょって。ふざけるならピアノに触るなって怒鳴られたもん」

「こわ」

「めっちゃ怖かった」

「お母さん、そんなに怖かったの」

「中学くらいまではね。あたしに自分の夢かけてた人だから。でも全然才能ないってわかってから、言ってこなくなったけど」

「あー、わかる」

「だからあの家でゆあながグズグズやってんのみると、子供の頃思い出して、嫌なんだよね」

 中指を塗りながら、琴音はわずかに顔をしかめた。

「でも終わったら、ケーキ食べれるんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、いいじゃん」

「たしかに」

 琴音は言った。

「そういや、お母さん元気?」

「うん一応。会えば、どこが痛いとかしんどいとか言ってくるけど」

「病気?」

「老化だと思う」

「大事にしてあげないと」

「うん」

「ひとり娘なんだから」

「えー……」

「話戻るけど、その子、そんなにやる気ないなら、そろそろやめるって言い出しそう」

「やめて、言わないで」

「時間の問題だな」

「やめてよ、自分でもちょっと思ってんだから」

「くっ。でもさあ、ほんとに辞めるかもしれないしさ、いまのうち稼いどいた方がいいよ。じゃっ、バイトする?」

「なに急に」

 琴音は薬指を塗りながら言った。

「一日だけなんだけど」

「なんの?」

 琴音は顔をあげ、スマホを見た。

「よし子の伴奏」

「よし子? よし子って、あの、ヤキソバ頭の?」

「そーそー。さっき連絡あって頼まれたんだけど、うち、その日ダメだからさ」

「いつ?」

「二十四」

「来月の?」

「今月」

「今月って……、イブじゃん」

「やっぱ無理? 用事あるんだっけ」

「それは二十五だから、いいんだけど……」琴音はブラシをボトルに戻し、テーブルの端の手帳を手のひらで引き寄せると、親指と人差し指でつまむようにしてページを開いた。「あっ、まって、友達と会うんだった」

「だれよ」

「中学の。優っていうんだけど、覚えてない? 高校の時、一回、電車で会ったことあるんだけど」

「わかんない」

「その子から、この間の誕生日にLINEきてさ、イブに予定ないって話したら、家来なよって言ってくれて」

「ふうん」

「もう結構、会ってないんだけどね。二、三年とかぶり。子供も一人いて、たぶん小学生になってる」

「何歳で産んだん」

「二十五とか。結婚はもっと早かったよ。あたしが大学出た年だから……、二十三か」

「ふうん」

「子供にクリスマスプレゼント、持ってったほうがいいよね?」

 琴音は手帳を閉じて言った。

「そうなん」

「そうでしょ。何がいいと思う」

「何歳だっけ」

「六、七歳とか」

「小一?」

「たぶん」

「地球儀」

 小林は言った。

「は?」

「地球儀」

「地球儀? なんで」

「知育グッズだし、見た目の割に安いし」

「そうなんだ」

「親ウケが大事だからね、そういうのは。で、何時から会うの、その日は」

「まだ決めてないけど、五時くらいじゃん」

「五時? いけるいける。一時から二時半までだから」

「えー、何曲やんの」

「八曲、だったような」

「そんなにあんの、やだ」

「まだ二週間あるし、いけるっしょ」

 琴音はボトルのフチでブラシをしごきながら薄く笑い、いけないから、と言った。

「そんなこと言ってないで、ここで顔売っといた方がいいって。よし子、ちょいちょい仕事くれるし。それにいま、息子も歌手やってるから。気に入られたら、親子で仕事くれるよ」

「えー、ちゃんと話したことないんだよね、よし子」

「大丈夫、怖い人じゃないよ。ちょっと頭がアレだけど」

「なにそれ」

「なんか言われても、はーいって流せばオッケーだから」

「えー、場所は?」

「Hのケアホーム」

「どこそこ」

「茨城」

「えー、やだ」

「大丈夫、車で連れてってくれるから」

「だいたいなんで、コバ、行かないの。平日でしょ」

「まあ、結婚記念日だからさ、どっか行こうって話になって」

「なにそれ、新婚かよ」

「すみません、新婚で」

「許さん」

「お願いしますよ」

「えー」

「ピアノ、弾いてくれませんか」

「どうしよっかなあ」

「お願いしますよ」小林は言った。「クリスマスに家に帰れない老人たちのために、弾いてやってくださいよ」

「最低なんだけど」

 そう言うと琴音は短く笑った。


(続きは、「文學界」2023年10月号でお楽しみください)

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