本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
前世の記憶

前世の記憶

市川 沙央

文學界9月号

出典 : #文學界

「文學界 9月号」(文藝春秋 編)

 予言癖がある。

 最初のそれは五歳の時だ。風邪をこじらせて寝込んだ姉を前にして、何気なく私は言った。

「早く入院させないと、お姉ちゃま死んじゃうよ」

 翌日、病院に連れていく車の中で、姉は心肺停止に陥った。

 予言癖があるのだ。

 直近のそれは二〇二二年の八月である。個人的事件すら生起しない単調な日常生活の無限ループをくりかえす空間つまりエアコンの効いた自宅の居間で「何か面白いことない?」と飽きもせず訊いてくるのが日課の母に、三時のお茶を飲みながら私は言った。

「純文学を書こうと思う。この病気とグループホームのことを書く」

「そうすると何なの?」

「そしたら芥川賞が見えてくる」

 見えていたのだろうか。

 ところで私の母は「生まれ変わり」を信じる人である。そして何でもかんでも軽率に「○○の生まれ変わりなんじゃないの?」と言う。今年の三月に私が早稲田大学から小野梓記念賞を貰えることになった時も「あなた小野梓っていう人の生まれ変わりなんじゃないの?!」と言われた。今年の学術賞だけでも十一人いるんだが。

 実は私も昔うっかり「自分、シェイクスピアの生まれ変わりだろうか?」と思ってしまったことがある。〈沙央〉と〈沙翁〉が通じるからだ。我が家に文化資本を示す蔵書のたぐいは一冊もなく、だから両親に文学的素養があっての名付けではない。辞書で「沙」の字を調べて自分がシェイクスピアの生まれ変わりだと思ったのは、いくつの時分だったか思い出せない。義務教育に自分の名前の漢字を辞書で引く課題がありそうだが、であれば、その頃もう小説を書いていたのかということになる。思い出せない。当時使っていた東芝Rupoでいったい私が何を書いていたのか、思い出せない。まるで前世の記憶のようである。

 二十代に入ってから、私は自分に新しい名前を付けなければならなくなった。小説応募用のペンネームだ。いちばん長く使ったものは今でも気に入っている。三文字で収まりがいい。その名前でデビューしたかったものだが、叶わないまま自信も自尊心も擦り減ってひしゃげてくたばった。投稿生活が十年を超えた頃から、本命の応募先以外では別のペンネームを新しく考えて使うようになった。いくつもの名前。何人もの新しい私に、そのたび生まれ変わろうとした。私が生み落とし、名付けたキャラクターたちもそうだ。日の目を見ることなくボツになって死に、また一から新しい小説の新しいキャラクターとして生まれ変わっては、習作という言い訳の中に消えていった。

 予言癖があるのだった。

 小説を書いていることが知られた人間に対して「将来は芥川賞ですね」と激励するのはこの国で広く一般的に行われる予祝儀礼の一つだが、私がペンネームを使って応募しつづけていたライトなエンタメ小説は、純文学に与えられる芥川賞とは無関係だ。にもかかわらず、半年に一度、テレビから芥川賞ノミネートのニュース、受賞決定のニュースが流れてくるたび、いたたまれない気持ちになった。微小な毒針が心に刺さって無視することのできない嫌な気分になった。これが本当によくわからない現象だった。なぜ半年ごとにいちいち嫌な気分にならなければいけないのか? 私には関係がないのに? 直木賞ではなくなぜ芥川賞で心がちくちくするのだろうか? 私は小説を書くくらいしかすることがないから書いているだけであって、別に小説家になりたくなどなかったはずでは? その嫌な気分はまるで前世の記憶のようだった。何かの警告のようだ。そこには近づくな。あるいは――。

 芥川賞の候補になると、候補者プロフィールの元となるエントリーシートのようなものを日本文学振興会に提出する。質問項目を埋めながら私はえもいわれぬ可笑しみを感じた。今まで何十枚と小説応募用のエントリーシートを作成してきた。芥川賞でも同じなんだなという思いと、無駄と徒労でしかなかったこれまでの無名作品のエントリーシートとはやはり違うよなという達成感の確認。そこに私が書き込む名前が市川沙央であったのは、前年の時点で経験した決定的な挫折のために、もう新しく生まれ変わる力が残っていなかったからだ。そういうわけで想念の海の藻屑となった数多ある人生の記憶ごと、私は市川沙央の作家人生を始めることとなった。永劫回帰。

 ちなみに児童文学やライトノベルを除けば、私が「小説」というものを意識したのは『若きウェルテルの悩み』が最初の衝撃的な一冊であり、それからゲーテおよびドイツ文学へと傾倒していったため、実のところシェイクスピアにはさほど愛着がない。こんな名前なのにごめん。

 最初の死の予言に晒された姉は、生きのびて今、私という作家の誕生を喜んでいる。

(初出 「文學界」2023年9月号)

単行本
ハンチバック
市川沙央

定価:1,430円(税込)発売日:2023年06月22日

電子書籍
ハンチバック
市川沙央

発売日:2023年06月22日

ページの先頭へ戻る