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日本人だからこその会話の妙や楽しみ方がある。アガワ流「人づきあいの極意」

日本人だからこその会話の妙や楽しみ方がある。アガワ流「人づきあいの極意」

阿川 佐和子

『話す力』(阿川 佐和子)

出典 : #文春新書
ジャンル : #随筆・エッセイ

『話す力』(阿川 佐和子)

ちょっと長めのまえがき

 このたびのお題は「話す力」です。

「なんだ、『聞く力』が売れたから、今度は『話す力』で稼ごうという魂胆ですか?」と、そんな冷ややかな目で見ないでくださいませ。これには深い、いや、そんな深くもないけれど、ちょっとした理由があるのです。

『聞く力』を出したあと、読者からさまざまな感想が届きました。その中に、

「読んでよかったです。仕事の打ち合わせとかで、どうやって話を切り出したらいいかわからず、そんなときの参考になりました」

 こういう声が意外に多かったと編集部から報告を受けました。そうか、人の話を引き出すことに悩んでいる人が多いだけでなく、話の切り出し方に苦労している人も多いのか。そう気がつきました。そこで二匹目のドジョウ目指して、というわけではありますが、「話す」をテーマにまとめてみようということになった次第。

「話す」と「喋る」は少し違うかもしれません。「話す」は相手の気持やその場の雰囲気、流れ、話の主旨などをしっかりわきまえて、客観性や順番にも配慮して、穏やかに語りかける印象があるのに対し、「喋る」は、その場でパッと思いついたことを唐突に、あるいはダラダラと、もしくは感情にまかせて口から勢いよく発するという感じでしょうか。

 つまり、「話す」は比較的かしこまった場所、たとえばビジネスの現場などで真面目な内容を必要とするときとか、冷静に伝えなければならない状況、あるいはきちんと対応しなければ失礼になる相手を前にして行われるものであり、一方、「喋る」は気の張らない場所や、気を遣わずに済む相手を対象に行われるもののように思われます。

 となると、この本は、かしこまった場所や、冷静に伝えなければならない状況における「話す力」について書かれているのか? 否! いないないバーです。

 必ずしもそういう本ではありません。というか、そんなふうには書けませんでした。

 なぜなら、私自身、「話す」と「喋る」をどれほど区別して生きているかと考えるに、さほど意識していないと思ったからです。

 もちろん、真面目になるときは真面目な話し方をします。誰を相手にしても、まるで友だち同士のように「そいでさー」なんて言えるほどずうずうしい性格ではないつもりです。でも心の中では、たとえ初対面の関係であったとしても会議などの堅苦しい場であろうとも、あるいは深刻な話をしなければならない状況においても、できるだけ早く打ち解けたいと、いつも望んでいる気がします。

 そんなに不真面目なのか。そういう声が聞こえてきそうです。

 今、気づきましたが、やっぱり「喋る」にはプラスの印象は薄いですね。だって、「お話し上手ねえ」という言葉は褒め言葉になるけれど、「お喋りねえ」と人に言われたら、「少し黙ってろ」と、暗に𠮟られたような気がしますものね。実際、𠮟られたことは何度もあります。
 

 𠮟られたというわけではないけれど、数年前、お笑い芸人で占いも得意なゲッターズ飯田さんにお会いしたとき、彼とは初対面だったにもかかわらず、グサリと言い当てられました。

「アガワさんには、基本的に『聞く力』はないです。むしろ喋るほうが得意ですよね」と。なんでわかったの? ギョッと驚き、たちまちうなだれました。それまで私は一時間以上、ゲッターズさんにインタビューをしていたつもりだったのに。

 でも、おっしゃる通りでした。昔から、会食の席や打ち合わせの場に向かう道すがら、私はいつも自らに言い聞かせます。

「今日は喋るなよ、喋り過ぎるなよ。あとできっと後悔するんだから。大人しく人の話に耳を傾けて、静かに控えていなさいよー」

 それなのに現場についてしまうと、やらかしてしまうんですね。調子に乗って、一人で喋りまくって帰ってくる。家に帰り着いたあと、酔った頭で初めて気づくのです。

「あんなに喋らなければよかった……」と。

 そんなお喋りが、どうして何十年もインタビューの仕事を続けていられるのかと、疑問をお持ちの方もおられることでしょう。

 我慢しているのです。ゲストの話を聞きながら、頭に浮かんできたことを話したい衝動に何度も駆られます。でもここは聞く仕事。黙っとれ、サワコ! ところがその箍がときどき外れることがあります。ゲッターズさんとお会いしたときも、会話が楽しいあまりにインタビュアーの則を越えて、ペラペラやってしまったのでしょう。覆水は盆に返りませんでした。
 

 でも、と、言い訳をするようでナンですが、日本人は概して私同様、「話す」より「喋る」ほうが得意なのではないかと思います。

 もちろん、男女を比較してみれば、女性のほうが圧倒的にお喋りの傾向があるでしょう。とはいえ、この人は無口だなあと思われる男性でも、相手が変わると突然、お喋りになる場合があります。話題を変えるとたちまち饒舌になる人もいます。

 つまり、よく知らない人の前や、さほど興味のない話のときは静かにしているけれど、得意な分野になると急激に喋り始める男性は、けっこう多い。まあ、我々女性は概して、相手が初対面であろうとよく知らない人であろうと、喋りたくなれば勝手に喋りますけれどね。
 

 そんな果敢な女性でも、大勢の人の前で話すのが得意という人は、さほど多くないはずです。

 昔、井上ひさしさんとユーモアについての話になったとき、井上さんがおっしゃいました。

「日本人は四畳半のユーモアは得意だけど、大会場ではユーモアを発揮できないんですよ」

 仲間内で集まると、笑わせてやろうという下心がウズウズ動き出すのに、見知らぬ人が集まっている場に出ると、一気に萎縮してしまう。ユーモアどころか、大勢の人の前で話すこと自体ができなくなってしまうのでしょうか。

 もしかして日本人はスピーチ下手なのかもしれません。気心の知れた友だちと炬燵を囲んでお喋りするのは実に上手で才能豊かである。ところが、目の前の何百人を相手にマイクを持って話すとなると、とたんに緊張し、言葉がギクシャクし始めて、型どおりの話しか出てこなくなる。とはいえ失敗するわけにはいきません。だから、事前に原稿を用意して、自分の書いた(あるいは他人の書いた)スピーチ原稿を読み上げることになるのです。たとえそこにユーモアが含まれていたとしても、観客を見ながら得々と披露するほどの勇気と余裕はない。ずっと原稿用紙に目を落とし、ただ読み上げるだけ。

 常々不思議に思っているのですが、政治家の皆様は、自分を売り込むべき選挙運動のときは、選挙カーなんぞの高い場所から、見ず知らずの大勢の人の前でまったく原稿を見ずにとうとうとお喋りになるのに、大臣になるとたちまち顔を下に向け、原稿を読み上げるようなスピーチしかしなくなるのは、どうしてなんでしょうね。失言したら、それこそ政治生命にかかわるという恐怖心が働くからでしょうかね。
 

 話を戻します。

 日本人がスピーチ下手であることを確信させられた経験があります。

 もう三十年以上前のことですが、アメリカのワシントンD.C.に住んでいたときの話です。スミソニアン博物館にデイケアセンターという保育園のようなところがありまして。スミソニアン博物館で働いている職員の幼い子供を日中に預かる施設です。

 労働ビザを持っていなかった私は、そこでボランティアスタッフとして務めておりました。まあ、幼い子供相手ぐらいなら英語も難しくないだろうし、なんとか務められるのではないかと思ったのです。が、そういう安易な考えは通用しませんでした。

 子供というのは容赦がないのです。相手(私のこと)が語学力乏しい気の毒な外国人であるなどという配慮はいっさいせず、だからゆっくり話したり言い直したりしてくれません。面白いオモチャが来たとでも思ったのか、最初のうちはおおいにかまってくれるのですが、意思疎通ができないとわかるや、見向きもしなくなりました。「静かにしなさい!」なんて𠮟ったところで、ぜんぜん言うことを聞かない。だからこちらも必死になります。拙い語彙とひどい発音を駆使してずいぶん戦いました。
 

 ある日、男の子と女の子が楽しそうに会話をしているので、私は問いかけました。もちろん英語で。その程度のやりとりはできたのです。

「何の話をしているの?」

 すると、

「動物園の話。先週の日曜日に一緒に行ってきたの」

 女の子が答えました。そこで私は、

「オー、グッド! 動物園で何を見たの?」

 今度は男の子が、ゴリラを見てきたんだと答えました。私はすかさず、

「オー、ゴリラ!」

 反復しました。すると女の子が男の子と顔を見合わせて、それから私に問いかけてきました。

「ゴーって、言ってみて?」

「ゴー?」私は口に出して言いました。続いて女の子が、

「じゃ、リラ」

「リラ?」

「それをつなげて言ってみて」

「ええと、ゴー、リラ?」

 女の子は軽く首を傾げ、片手の人差し指を掲げて言いました。

「ザッツライト! ゴーリラが正しい発音よ!」

 思えばあの保育園での厳しい経験は大いなる語学鍛錬になったものでした。

 会話の中に役に立つポイントがあるというのも、「話す力」の一つと言えるでしょうね。トホホ。
 

 それはともかく、その保育園には日直制度があり、四、五歳の子供たちが順番に一日二人ずつ、日直を務めることになっていました。その日の担当となった二人の日直ちゃんが何をするかと言えば、まず朝、全員を集合させて、彼らの前でプレゼンテーションを行います。自分のウチから持参した大切な宝物をみんなの前でお披露目するのです。

 その宝物はいつ、どうして手に入れたのか。

 どこが気に入っているのか。

 どんな宝物なのか。

 そんなスピーチを自分で考えて、先生の助けも意見も借りずに一人でやり切るのです。

 たとえば機関車のオモチャを持ってきた日直君は、

「このきかんしゃは去年のクリスマスにおじいちゃんに買ってもらった。スイッチを押すと、動くんだ。きかんしゃのうしろに小さな客車もついていて、乗客の人形もいるし、ドアだって開くんだ。すごいでしょ」

 そして、その機関車を今日一日、保育園のみんなと共有する。とはいえ、扱い方については持ち主に決める権利が託されます。すなわち、

「これはすごく壊れやすいから、勝手に触らないで。でも、僕の前で触るのなら許します。僕がスイッチを入れて動くところを見せます」

 そういうことも全部、本人が考えて、決めて、自分で発表するのです。

 私は度肝を抜かれました。こんなに幼い頃から自分の言葉でスピーチ能力を磨いているのかと思ったら、これは日本がアメリカとどんな外交交渉をしたところで勝てるわけがないと納得しました。

 ちなみにこういう子供のプレゼンテーションはスミソニアンのデイケアセンターで特別に行われていたわけではなく、アメリカの保育園や小学校では普通のカリキュラムに組み込まれているらしく、「ショー・アンド・テル」と呼ばれ、アメリカ人なら誰もが経験していることなのだと、あとで知りました。
 

 アメリカの教育と言えば、昔、神津カンナさんに聞いた話があります。彼女は若い頃、アメリカの大学に留学した経験があり、そのとき、「ディベート」という授業があったそうです。たとえばテーマを「リンゴ」と決めたら、まずクラスを二つに分けます。リンゴの好きなチームと、リンゴの嫌いなチーム。その二つのチームがリンゴについて討論を開始します。当然、リンゴの好きな学生がリンゴの良さを主張し、リンゴの嫌いな学生が、リンゴのどこが気に入らないかを主張するというディベートだと思いますよね。それが逆なのです。

 リンゴを好きな人は、あえてリンゴのマイナスポイントを並べ上げ、リンゴがいかに魅力のないフルーツであるかを述べなければなりません。かたやリンゴを嫌いな人は、リンゴの良さを相手に納得させるべく説かなければならない。つまり、自らの感情を抑えて、相手と論議を交わすという訓練なのだそうです。

 日本では、少なくとも私自身、経験したことのない教育方法です。でもアメリカ人はこういう鍛錬を経て、相手が自分と意見が違ったり、話がかみ合わなかったりしても、極力感情に走ることなく客観的に判断する能力を、若いうちから身につけていたというわけです。
 

 いっぽう日本人は、自分が意見を言おうとするとき、相手がどんな気持になるかを真っ先に忖度する傾向があります。もし相手の気に入らない意見を言ってしまったら、そのあと関係が悪化するかもしれないことをひどく怖れる。あるいは、出しゃばって得々と思うままに話を進めたら、「アイツは空気を読まない奴だ」「なにを生意気な」とまわりから顰蹙を買ってしまうかもしれない。率先して自分の意見を発するより、しばらくまわりの様子を窺って、話がどんな方向に流れるかを見極めてから自分の思っていることを小出しにしたほうが安全だと考える。私自身もそういう手を使う場合があります。

 昔に比べれば、個性を尊重してそれぞれの違いを認め合う時代になったように見受けられますが、相変わらず大人も若者も子供も、「なにか質問はありますか?」「意見はないですか?」と水を向けてもシーン。あっちからもこっちからもガンガン手が上がるという光景は、おそらくエネルギーに満ちた小学一年生の教室以外では、めったに見られません。

 先日、ある報道系のドキュメンタリー映画を観ていて、改めて「そうか。日本人って、そうだな」と納得した一件がありました。映像の中で一人の若者が照れくさそうに取材者の「政治に関心はありますか?」という質問に答えていました。

「友だち同士で政治の話題にはなるべく触れないようにしています。政治の話がしたいなんて言い出したら、まわりから変な奴だと思われそうだし、もし意見が分かれたとき、気まずくなるから」

 こうして当たり障りのない、誰もが一緒に楽しめるような話題を持ち出すことが、仲良くなるにはもっとも有効だと思ってしまうのではないでしょうか。
 

 でも、それほど自主性に乏しい日本人だからこその会話の妙や楽しみ方はあるはずです。最初から自分の意見を強く押し出すのではなく、相手やまわりの気持を推し測りつつ、発言を試みる。それもまた悪くない文化だと思えば、話の切り出し方の小さな糸口が見えてくるような気がします。
 

 ならばどんな方法があるのか。あくまでも私自身の経験や人からの伝聞によって心に留まったあれこれですが、本書ではちょっくらお喋り、いや、お話ししていきたいと存じます。


「ちょっと長めのまえがき」より

文春新書
話す力
心をつかむ44のヒント
阿川佐和子

定価:990円(税込)発売日:2023年12月15日

電子書籍
話す力
心をつかむ44のヒント
阿川佐和子

発売日:2023年12月15日

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