1970年、オフコースとしてデビューし、音楽の道を究めて半世紀。シンガーソングライターの小田和正は、76歳になった今もなお、透き通るようなソプラノボイスで聴衆を魅了し続けている。
ここでは初の評伝『空と風と時と』(追分日出子 著、文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。オフコース最大のヒット曲「さよなら」に対する屈折した想いとは――。(全2回の1回目/続きを読む)
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1970年代後半期、音楽的にはバンドを意識した音作りを模索していたこの時期、小田は言葉(歌詞)においても、自分の思いにだけ向き合うのではなく、人を惹きつける言葉や物語を作ることを志向し始めたといえる。そして、ホップ、ステップの次、12月、ジャンプしなければならなかったその時、小田は思いっきり、自分を演じさせる楽曲を書いた。
それが「さよなら」だった。
「別れの歌」になった理由
「シングルヒット、シングルヒットといわれるの、すごい負担だったね、もうそろそろいい加減いやだなと。当時、早いローテーションで次々レコーディングさせられていたみたいな。でも、自分にはそういう力があるとも思えないし、テーマも同じことしか思いつかないし、同じことがぐるぐるまわっていて、レコーディング自体は楽しかったけど、詞をつくるのは苦しかった」
この時も、曲はすでにできていた。詞は、当初、別れの歌ではなく、むしろ愛の歌だった。しかし、レコーディング前日、突然、冒頭の♪タタタン♪タタタン♪タタタンという箇所に、♪さよなら♪さよなら♪さよなら、という言葉が浮かんだ。早速、武藤敏史(※1)に話すと、武藤も「いいじゃない、それ書こうよ」と言ってくれた。
(※1)武藤敏史/当時、東芝EMIのプロデューサーでオフコースを担当していた
結局、1日で新たに書き直したものが、大ヒットした「さよなら」である。
40年を経た2020年の年末、コロナ下で曲作りをしていた小田が当時をこんな風にふり返った。
「あの時は1日で書き直して翌日には歌ったけど、いまは明日までに書き直さなくてはと言われたら、諦めるだろうな。それが可能だったのは、体力もあったからだろうし、野心だってあったからかもしれない。でもこれが書けた時、これ、売れるなと俺も思ったね。でも、あれもどこか自分じゃないみたいなところがあった。演じているなと思った曲だね」
「これでようやく売れると…」
「さよなら」にまつわる武藤の記憶はこんなだった。
「ハッピーエンドの詞を書いていると聞いていたけど、別れる詞にしたいから1日延ばしたいと言ってきたんです。彼が狙ってつくった詞ですね。最初に聴いたとき、売れると思いました。冒頭に♪僕らは自由だね♪というフレーズがありますが、『自由』という言葉は当時まだ歌には使われていなかったですからね。僕はそこがいいなあと思いました」
大間(※2)の記憶も書いておこう。
「ギターの間奏も入れて、いよいよ歌入れだとなって、♪もう終わりだね♪という最初の歌詞を小田さんが歌った時、僕はほんとに鳥肌が立ってね。これでようやく売れると思ったの。小田さんの歌というのは、そういうことが何回かあって、小田マジックというか、歌詞の力と声、『さよなら』の時がまさにそうだったけど、いまでもすごいなあと思いますよ」
(※2)大間ジロー/1979年、ドラマーとしてオフコースに加入
ヒット曲に対する屈折した想い
「さよなら」のレコーディングは1979年10月末。リリースされたのは、12月1日だった。
この年10月16日から全国ツアー「Three and Two」が始まっていた。全国48カ所、57公演。翌年2月5日までの予定だった。正月明け、そのツアー中、仙台で乗ったタクシーの中で、カーラジオから「大ヒット中の」とDJに紹介されて流れた「さよなら」を小田は聴いた。「ヒットするというのは、こういうことか」、その時の車窓から見た仙台の町とタクシーの中に響き渡った自分の歌声が、初めてのヒットの風景となって小田の記憶のなかに沈殿した。
ちなみに、「さよなら」は、どのオリジナルアルバムにも入っていない。そこに小田の「さよなら」に対する屈折した想いがあるように思われる。売れて安堵したが、本当に自分のつくりたい楽曲ではなかったという想いである。
レコード会社は、ヒットした「さよなら」の次のシングルに“2匹目のドジョウ”、つまり似たようなラブソングを要求した。しかし小田は、こういう時こそ、自分が本当に作りたかった歌、誇れる歌を次のシングルにしたいと思いつめた。それが前のアルバム「Three and Two」に収録されていた「生まれ来る子供たちのために」だった。そもそも秋からのコンサートツアー「Three and Two」においても、ラストの曲は「生まれ来る子供たちのために」だった。小田にとって、この曲が如何に特別に愛着のある曲だったかがわかる。
「『さよなら』は、俺が本当に作りたい曲じゃないと、違うと思っていたんだろうね。俺は、言い訳したかったんじゃないかな、たぶん。あのころは、いつも訴えたかったんだね」
小田和正の奇襲作戦
小田が行動に移したのはツアー最終日前日の1980年2月4日。決定したのは3日後の2月7日。かなりの奇襲作戦だった。
小田は武藤に相談し、武藤は「まかせろ」と言った。武藤の話。
「僕が別のレコーディングをしていた時、小田君がスタジオにやって来て、次にこの曲を出したいんだと訴えたんです。そこで僕は、それを正当化するために、営業の人間と組んで、嘘っぱちのご託を並べて、これを通しました。当時、あの曲をシングルにするというのもすごいことだけど、30年以上たっても、あの歌が歌われる、使われるというのもスゴいよね」
「生まれ来る子供たちのために」は、不思議な歌だ。小田自らが弾くピアノの伴奏で気高く歌われるこの歌は、まさに「祈り」に聴こえる。
この歌は、どこから生まれたのだろうか。
自分自身のアンサーソング
思い浮かぶのは、先に少し触れたが、1974年10月に、小田がシングル候補として作ったが、レコード化されることのなかった「キリストは来ないだろう」である。いまこの曲を聴くことができるのは、その直後に催されたコンサートのライブ盤のみである。「生まれ来る子供たちのために」は、この日の目を見なかった曲に対する小田自身のアンサー曲なのではないか。
どちらの歌にも、賛美歌が色濃く影を落としていることは明らかだろう。
「生まれ来る子供たちのために」のなかの“あのひと”とは、キリストが思い浮かぶ。同時に、ここに貫かれているのは、若者らしい世界への危機感であり、国の政治への懐疑であり、とりわけ「キリストは来ないだろう」には悔いや絶望感が強い。それが「生まれ来る子供たちのために」では、祈りの歌になっている。
26歳の歌に対する31歳の返歌。
バンド音楽を追求している時期でありながら、この曲だけは、例外的にピアノで静かに聴かせる曲であることからも、「こういう歌をつくりたかったんだ」という小田の強い想いが感じられる。2020年の時点で、小田はこんな風に語った。
「『生まれ来る子供たちのために』をシングルで出せるんだとなったときが、一番うれしかったかもしれない。70年代前半の歌は誰も聴いてくれなかった。だからこそ、『生まれ来る子供たちのために』は、やっとのヒットの直後に正面勝負しないといけない曲だった。俺の発想の原点は常に、『この国はこのままではダメだ』という思い、危機感というか、そういう意識ばっかりだった。自分のなかでは全然背伸びしていないんだ。ただ、あの曲が何かに貢献したかというと、とくに売れず、当時、反響は何もなかった」
のちに「発見された曲」だった
「生まれ来る子供たちのために」が現在のように広く知られ、高い評価を受けるようになった契機は、ここから約20年たった1999年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によって難民救済活動への支援を訴えるCMとして使われ、テレビで流れるようになったことだった。さらに後年、何人かのアーティストにカバーされたりもした。つまりこの歌は、のちに「発見された曲」なのである。小田には、ほかにも、このように「発見された曲」がある。ちなみに「生まれ来る子供たちのために」は、いまもUNHCRに無償提供され、ホームページなどで使われている。
オフコースはヒット曲を出した。
そして日本武道館公演を控えるまでになった。「武道館でやりたいと言い始めたのはスタッフだからね、俺はあんまり思わなかった」と小田は振り返るが、それだけオフコースは名実ともに大きなバンドへと成長したということだろう。
もうひとつ、「さよなら」のヒット後、少し変化があるとすれば、かつてマネージャーだった上野博の再登場と言えるだろうか。
1980年1月末、新宿厚生年金会館での公演を見に来た上野博に、小田は「さよなら」の次のシングルについて相談した。上野も「『生まれ来る子供たちのために』を出したらいいやん」と励まし、結局、これを機に、上野がふたたびプロモーション担当として、オフコースに関わるようになる。そして、この上野の再登場により、オフコースはまた新たな局面を迎えることになるのである。
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