- 2023.12.04
- CREA
「なんであのイントロが思いついたのか」小田和正が『ラブ・ストーリーは突然に』のA面差し替えを拒んだ“納得の”理由
著者=追分日出子
『空と風と時と 小田和正の世界』より #2
小田和正の歌は、なぜ私たちの琴線に触れるのか。小田の誕生から2023年の現在までの人生を、小田本人はもとより、親族、友人、元オフコースメンバーや吉田拓郎、作家の川上弘美など、多くの証言から紡いだ物語が『空と風と時と 小田和正の世界』である。
音楽の神様に導かれ、ストイックなまでに自分の音楽を追求してきた、決して器用とも順調ともいえなかった小田和正の音楽人生の記録の一部を、同書より抜粋して紹介する。
小田最大のヒット曲、「ラブ・ストーリーは突然に」ができたエピソードはよく知られている。
シングル「Oh!Yeah!」を用意している時に、音楽出版社(フジパシフィック音楽出版)の担当から、その話は舞い込んだ。それは「Oh!Yeah!」のB面に用意していた「FAR EAST CLUB BAND SONG」をフジテレビのドラマ主題歌に提案してもいいかという話だった。
そのドラマはプロデューサー・大多亮、原作・柴門ふみ、脚本・坂元裕二、演出・永山耕三ほか、主演・鈴木保奈美、織田裕二の「東京ラブストーリー」だった。プロデューサーは「これでもいいけれど」と言いつつ、「ほんとは『Yes-No』と『君が、嘘を、ついた』を合わせたような、8ビートの情熱的な曲がほしかったんだ」と吉田(所属事務所のファーイーストクラブ副社長)に洩らした。それを吉田が小田に伝えたのである。
「それなら、本来の欲しいものに近い曲にしないと失礼なんじゃないかと言ったんだ。ちょうど、そのころ、三連符が繋がっていく曲をつくりたいというアイデアがあって、それなら書き直すよと言ったんだ。当時は、馬力があったんだね。
三連符が連なっていくのはユニークだし、情熱的な感じがするし、♪たたん♪たたん♪たたん♪とできたけど、これにぴったりくる言葉は探せるかなあと、そこが戦いだった。でも、あの曲は早くできた。ちょうど、『Oh!Yeah!』のレコーディングをしていた最中に作ったんだ」
それが「ラブ・ストーリーは突然に」だった。この歌は、ギターのカッティング音から始まるイントロも印象的だが、これが出来た経緯も、比較的知られている。レコーディング合宿中にその日の仕事が終わり、皆で部屋飲みしていた時である。小田が「まだイントロに納得していないんだ」と話した。
小田がソロになって以降、ずっとレコーディングに参加してきたギタリストの佐橋佳幸もやはり、何かが足りないと感じていた。その佐橋がふと、あの印象的なイントロを思いついた。すぐに皆でスタジオに戻り、イントロを変えたのである。佐橋が後年語っている。
「なんであのイントロが思いついたのか」
「なんであのイントロが思いついたのか、実は今でもわからない。でもドラマのなかでこの曲を聴いた時、これはバッチリだとビックリしましたね。普通のスタジオだったら、皆、家に帰ってしまっていた。合宿みたいな環境じゃなかったら生まれなかったんじゃないかな」
こうして、予定していたB面は「ラブ・ストーリーは突然に」に差し替えられることになったが、ここでひと悶着が起きた。レコード会社「Little Tokyo Label」の担当、丸谷和貴が、どうしても「ラブ・ストーリーは突然に」をA面にしてくれと頼んだのだ。小田は「それはできない」と断った。しかしさらに粘り、吉田から「無理だ」と断られたあと、ツアー中の小田が滞在していた名古屋のホテルにまで東京から車を飛ばし、真夜中、小田の寝込みを襲った。
「電話がかかってきて、どこにいるんだと訊いたら、ホテルの下にいますと。なんだよ、そんな無茶するなよって。ずいぶん熱い奴だなと思ったけど、いま思うと、強引なだけだったな」
小田は仕方ないなと彼の思いを受け入れ、両A面とした。
本来A面の「Oh!Yeah!」は第一生命のコマーシャルに使う予定の曲で、第一生命はこれをA面にとは言ってはいなかった。しかし小田は、感謝の意を込めて初めてA面にしたいと決めていた。一度決めたことに対して、小田は頑固だ。結果、両A面という変則で売り出されることとなった。
ちなみに「Oh!Yeah!」の印象的なフレーズ♪嬉しい時は右 左の肩は涙♪を聴いた時、武藤敏史はその少し前に、小田とゴルフをやった時のことを思い出したという。小田がスコアカードを置いたので、なにげなく見ると、そこに「嬉しい時は右、左の肩は涙」と書いてあった。
「ゴルフをしながら詞が浮かんだのでメモしたんですね。切り替えは早い人で、四六時中考えているわけじゃないだろうけど、それは印象に残っていますね」
1991年2月6日、シングル「Oh!Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に」はリリースされた。その日、小田と吉田はゴルフ場にいた。朝食の時、レストランに置かれたスポーツ紙を見ると、全紙とも「ラブ・ストーリーは突然に、空前の大ヒット」の大見出し。テレビの朝の情報番組でも報じていた。それを見て小田が言った。
「俺たち、ここにいていいの?」
吉田が答えた。
「でも東京に戻って、何するんですか?」
それがその後起きた想像すらしていなかった怒濤の現象の始まりだった。
「売れるというのは、ああいうことなんだな」
当時、ファンハウスの宣伝部にいた斎藤隆も、レコード店から「お客がなにやらただならぬ動きをしています」との報告を受けていた。初回数は14万枚、それも通常に比べても十分多かったが、さらに次から次へと追加注文が殺到し、一週目で早くも80万枚を売り、工場がフル稼働しても出荷が間に合わない事態にまでなった。
なにしろ、小田自身が「あっちこっちの親戚から頼まれたけど、あれは手に入らなかった。ほんとにびっくりした。売れるというのは、ああいうことなんだな」と振り返るような現象だったが、斎藤はこう述懐する。
「ミリオンというのは、1975年の『およげ!たいやきくん』と1972年の宮史郎とぴんからトリオの『女のみち』以来、ずっとなかったんです。突然変異だと思いましたね。ただ、半年後、チャゲアス(CHAGE and ASKA)の『SAY YES』がまたミリオンとなり、小田さんのヒットはミリオン時代の前兆だったんだなとあとからは思いました」
小田がこの曲を初めて人前で歌ったのは、発売から3カ月ほどたった5月18日。ベストアルバム「Oh!Yeah!」発売を記念しての深夜ライブでだった。場所は、新宿にあった日清パワーステーション。
「凄かったよね。みんな『わぁーっ』となって、お客が初めてナマで聴いたんだなというのがよくわかった。規模は違うけど、サイモン&ガーファンクルが初めて『明日に架ける橋』をやったとき、曲名を言っても観客はシーンとしていたのに、演奏が終わって、わぁーっとなった。彼らと比べたら、スケールは小さいけど、初めてというのは一回しかない。ナマで初めて披露したときの観客の歓声というのは忘れられない」