エピローグで、登志矢は当初の予定を変更している。大連から〈縄〉を頼って満州国を移動しソ連国内に戻るという脱出経路ではなく、上海に渡ってマニラ経由でメキシコへと向かっているのである。この目的について登志矢は言及していないが、ことによると意味を取り損ねた読者もいるのではないかと思う。蛇足を承知で補っておきたい。
プロローグでは、モスクワから登志矢に指示を出していた男が音信不通になり、その後メキシコで殺されたと記されている。この人物こそ、十代の登志矢と出会って生きる指針を与え、後には彼の命を救ったサポフスキーなのである。その彼が非業の死を遂げた地に登志矢がやって来た以上、目的は復讐しかありえない。東京で長い眠りに就いていた時期にも、登志矢は自分の家族や恩師の娘らを虐殺した相手に私的な復讐を遂げてきた。これも同じで、私的な闘争であろう。サポフスキーがメキシコに移った理由は、党から排除されたためだと考えられる。その復讐を行うのは、ソ連と袂を分かつことに等しい。
サポフスキーは架空の人物だが、レフ・トロツキーと重なり合う部分がある。本作の中でトロツキーは、赤衛軍を率いて革命の反動勢力と闘う人物として少し登場している。トロツキーはその後独裁体制を強化していくボリシェヴィキ主流派と対立して失脚し、一九二九年に国外追放された。メキシコを拠点として活動していたが、党の実権を握ったスターリンが放った刺客によって一九四〇年八月二十一日に暗殺されたのである。国家は自らに従わない個人を粛清していく。その波に呑み込まれた者たちのために一矢を報いる存在としてエピローグの登志矢は登場するのだ。
ここまであえて書かなかったが、『帝国の弔砲』は日露戦争で日本が敗北したもう一つの未来を描く物語でもある。本作に先行する形で佐々木は、ロシア帝国の統治を受けた占領下の東京を舞台にした警察小説の連載を開始、これは『抵抗都市』(二〇一九年。現・集英社文庫)として単行本化された。その続篇が『偽装同盟』(二〇二一年。集英社)で、両作内では第一次世界大戦中から帝政廃止までの時間が描かれる。『抵抗都市』と『帝国の弔砲』の連載が並行していた時期には、共通する歴史改変設定を一方は戦争に負けた被支配国側から、もう一方は戦勝国側から描くのだろう、くらいの認識で私は読んでいた。完結後に振り返って初めて、より長い期間を扱った『帝国の弔砲』は、国によって個人が蹂躙されるという悲劇を描く大きな物語であったことが理解できたのである。
歴史改変の導入によって描けたことがもう一つある。革命の混乱に乗じ、日本軍はシベリア極東部に侵攻してくる。この行為の不誠実さは、第二次世界大戦末期に満州国を襲ったソ連軍とまったく同じである。立場が変われば日本もソ連と同じ非人道的行為に出るということだ。この展開により、日本もまた個人を圧殺する国家の一つであるという見解が明示されるのである。なんという徹底ぶりか。
国家という巨大なものに抗い続ける男の肖像を本作で佐々木は描いた。それはいまだ現在の姿を写し取るための素描さえ確立できていない同時代人への叱咤激励のようにも感じられる。このように生きる男を私は描いた。あなたはどうする。
佐々木のそんな声が聞こえる。
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