絶大な人気を誇りながら、2023年6月29日をもって解散したガールズグループ、BiSH。メンバーの一人、モモコグミカンパニーさんは、“解散宣告”された日から東京ドームを超満員にしたラストライブまでの3年半の日々を、リアルタイムで書き続けていたといいます。
その記録が、『解散ノート』として1冊にまとまり、2月に刊行されました。
すでに小説とエッセイそれぞれ2作、歌詞についてもメンバー最多の17曲を手がけ、文筆の世界でも活躍し続ける彼女に、本作に込めた想いを伺いました。
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生の感情をありのままに
――BiSH解散から約7カ月が経ちました。現在はモモコグミカンパニーさん個人として、テレビ出演をはじめ幅広くご活躍されています。
モモコグミカンパニー(以下、モモコ) 『解散ノート』を読み返してみて、「BiSHでなくなった後、私は人々にどう思われるんだろう」という恐れが滲(にじ)んでいるなと思いました。実際、解散後は世間からの見られ方が厳しくなったと感じることが多いですね。これまでもBiSHというグループ、BiSHのメンバーとしての私に対して、嫌いだとか、ネガティブなことを言われることはありました。でも、これからは私個人が見られるんだな、自分の名前で表舞台に立つのは大変なことなんだなと実感しています。
――『解散ノート』は、2019年11月22日から始まります。BiSHの事務所にメンバー全員が集められ、プロデューサーであり、事務所の代表でもある渡辺淳之介(わたなべじゅんのすけ)さんから「東京ドームで解散」と告げられた、まさにその日です。
モモコ 渡辺さんから「解散」という言葉を聞いたとき、事務所内は気軽に言葉を発せられないような、張り詰めた空気になりました。とてもメンバーと一緒にわいわい帰れるような雰囲気ではなくて、みんな別々に帰ったんです。私も一人で事務所を出て、渋谷の南平台(なんぺいだい)を歩いて……。そうしたら、いつも見ていたはずの景色がふと遠いものに、そしてきらきらと輝いて見えたんです。これまで、同じ道を数えきれないくらい歩いてきて、「今日も事務所かあ」とか「雨なのによお」とか思っていたのに、あの帰り道から、かつてのダルさのようなものが一気に消えた。ああ、これからは毎日をただやり過ごすのではなくて、しっかり踏みしめていこうと思いました。
家に着いたら、すぐに新しいノートを引っ張り出してきて、表紙に「解散ノート」と書きました。何かを考えるまでもなく、ごく自然に「書かなきゃ」と。私はもともと記憶力が悪いので、書かなきゃ忘れるという急き立てられるような気持ちもありました。その日はまず、“解散宣告”を受けてどう思ったのか、生の感情をありのまま書きました。
さらけだすことに価値がある
――冒頭、およそ4ページにわたって、解散に対する率直な思いが綴られています。でも読み進めていくうちに、その気持ちには日によって波があったのかなとも思いました。
モモコ 私は心配性なので、BiSHの人気が上り調子であればあるほど、それっていつか下降していくということだよな、と考えていました。メンバー間の雰囲気も悪くなってしまうのではないか、という不安もあった。だから、“解散宣告”を受けたとき、BiSHのことは愛しているけれど、「東京ドームという終わりがあるなら、そこに向かってこのままみんなで楽しくやっていくのもいいのかも」と思いました。その意味で「よかった」と。
でもライブでお客さんに会ったり、メンバーと何気ない会話をしているときに「ああ解散って寂しいな」と、身体で悲しみを感じるような瞬間もあって、常に揺れ動いていましたね。
解散発表後は、たくさんのメディアから取材を受けて、「解散と聞いたときにどう思いましたか?」と質問されることも多かったです。でも、正直答えるのがすごく難しかった。「よかった」と言えば、その部分だけ切り取られてしまうかもしれない、そしたら他のメンバーやファンはどう思うんだろう、とか色々考えてしまって。結局定型文のように答えざるを得なくて、本当の気持ちを上手く伝えられたとは思えませんでした。『解散ノート』では、自分の見た景色を自分の言葉で記すことで、「私にとっての解散はこうなんだ!」と皆さんに提示したかったという気持ちもあります。
――最初から世の中に出そうと思って書かれていましたか。
モモコ いえいえ。幼い頃から日記はよく書いていたので、その延長のイメージで書き始めたんです。でも、解散まであと1年となったとき、これは本にして届けたい! とはっきり思って。
解散が公式発表されて、その後BiSHはライブをたくさんやったのですが、その1回1回が来てくれた人にとっては最後のライブになるかもしれないと思いながら、私はステージに立っていました。その人たちが、『解散ノート』を読んだときに、私はここに確かにいたよ、と振り返れるような本にしたい、と思って。なので、最後の1年、ライブの後はどんなに疲れていても必ず書いていました。体力的に書くのがしんどいなという日もありましたが、「東京ドーム」という明確なゴールがあったからこそ、書き切ることができたのだと思います。
最後の1年に限らず、『解散ノート』のどの日もリアルタイムで書いていましたね。時間が経つと記憶があやふやになるし、無意識に過去を美化してしまうのも嫌だったので。
――過去のエッセイ集『目を合わせるということ』『きみが夢にでてきたよ』に比べて、本作では一層ご自身をさらけだしている印象を持ちました。ここまで赤裸々に書いたものを刊行することに、ためらいはありませんでしたか。
モモコ 過去2作は、「書いてみませんか?」と誰かから手を差し伸べてもらって書いたものでした。いわば受け身というか、BiSHのことや自分のことを後から振り返って書くイメージだったんです。でも、『解散ノート』は、誰かに頼まれたわけでもなく、ただ書きたいから書いたもので。自分を客観視することなく、その時々の自分をそのまま書いた、いわばドキュメンタリーだと思っています。だからこそ、恥ずかしいこともたくさん書いてある。でも、本として世の中に出すならば、隠したい部分をさらけだすことに価値があると思ったんです。その覚悟がなく、綺麗な部分だけを見せたいならば、私が出す必要はないと。なので、実際に日々書いていたものと、『解散ノート』として刊行したもの、内容はほとんど変わっていません。
解散後もずっと怖がっている
――数行で終わっている日もあれば、エッセイのように長く書かれている日もあります。ご自身の心の状態が、文章の長さや温度感にそのまま表れているのかなと感じました。
モモコ 短いときは、今にも泣きそうで書きたくても書けない、という状態でした。解散後の活動について、渡辺さんと何度も個人面談をしていたのですが、辛辣に現実を突きつけられることも多くて……。今振り返れば“愛の鞭(むち)”だったと分かるのですが(笑)、かなり追い込まれていた日もありましたね。
解散のことは、発表まで両親にも言っていなかったんです。心配をかけたくなかったし、今後どうするかを明確に決められていないのに、胸を張って「解散します!」なんて言う勇気もなくて。でもあるとき、父親に「BiSHがなくなって、私が一人になったら、どのくらいの人が付いてきてくれると思う?」ってさりげなく聞いてみたんですよ。そうしたら、「100分の1くらいでしょ」ってさらっと言われちゃって。表面上はなんともないフリをしたけれど、ショックでしたし、ずどーんって深く心に刺さりましたね。そのときの気持ちも、しっかりノートに書き留めました。
「一体誰に相談したらいいんだろう?」と、気持ちの持って行き場がない状態が続いているときなんかにも、『解散ノート』の存在は拠り所というか、言葉を通じて自分の意志確認をする、自問自答の場所になっていました。このノートには本当にお世話になりましたね(笑)。
――ラストの、解散ライブである東京ドーム公演の記述は圧巻でした。書けることがたくさんあるなかで、あえて書きすぎないように意識されたのかなとも感じました。
モモコ ラストライブのことを書く分量は特に意識しませんでしたが、私個人としてのBiSHの終わりを書こうと思いました。私の見た東京ドームの景色は、5万5000分の1に過ぎません。あの日について滔々(とうとう)と語ろうとか、BiSH全員の気持ちを代弁しようとかは全く思いませんでした。
公演が終わった瞬間、「やり切った」と明確に思えたのは、“解散宣告”から3年半、自分の感情から逃げることなく、向き合い続けたからだと思っています。
――モモコさんが悩んだり苦しんだりする等身大の姿は、BiSHを知らない人が読んでも共感でき、勇気付けられると思います。
モモコ 私は一見、ステージというきらきらした場所にいて、ファンもいて、好きなことを仕事にしていて、悩みなんてないように見えるかもしれません。でも、全くそんなことはないんです。ずっと怖がっているし、解散後だって不安を感じています。今の時代、“安定”なんてどこにもないし、これからどうしたらいいのか、誰も教えてくれないですよね。立派に見える大人だって、私のように自分の仕事や将来のことに迷っているのかもしれない。そんな不安を抱えている人々の気持ちに、この作品が少しでも寄り添うことができたらいいなと思っています。
小説を書けなかったら表舞台に立たない
――BiSHの活動をしながら『解散ノート』を書いて、さらに小説『悪魔のコーラス』を解散直後の2023年7月に刊行されています。第1作『御伽の国のみくる』とは一味違う小説です。
モモコ 『御伽の国のみくる』は、アイドルの夢破れ、メイド喫茶でバイトを続ける女の子が主人公でした。プロットという言葉も知らず、とにかく勢いのまま書きたいことを書いて出来た作品です。設定を見て「アイドルだから書けたんでしょ」と思う読者もいるだろうと感じていたので、第2作では雰囲気の違う作品を書いてやろうと強い気持ちで挑みました。
私はBiSHに入りたての頃から、「自分には何があるんだろう」と自問し続けてきました。他のメンバーは歌唱力があったり、表舞台に立つ経験を積んでいる子ばかりだったので、私には何もないなって毎日のように感じていて。でも、歌詞を褒められることが増えてきて、それがものすごく嬉しくて、「書くこと」で少しずつ自信をつけていきました。ただ、「書く人」を名乗るならば、絶対に小説を書かなくちゃという、強迫観念のようなものがあって。なので、解散直後に小説を発表することは、私にとってとても大事なことだったんです。「解散までに小説を書けなかったら、もう表舞台には立たない」という覚悟で向き合っていました。ずっとピストルをこめかみに突き付けられているような気持ちでしたね。
でも、急に指が止まってしまって書けなくなった時期もありました。「いいものを書かなきゃ」とか、「ファンがいるから書くことを許されているだけなんじゃないか」とか考えてしまって。私にとって、キーボード上の指先は自意識の塊なんですよね。
――『悪魔のコーラス』の帯には、窪美澄(くぼみすみ)さんからのコメントが寄せられていますね。
モモコ もともと窪美澄さんの小説が大好きだったので、帯文をお願いしたいと思って、手紙を書いたんです。そしたら、とても嬉しいお返事を頂けて。書いてもいいんだよ、と背中を押されたような気がしました。
書きたいこと、まだまだたくさんあります。書きたいことが溢れ出してしまって、全てをひとつの作品に入れがちなんですよね。良い作品にするためには、きちんと削ることも課題のひとつだと思っています。
私は村上春樹(むらかみはるき)さんの作品が大好きで、憧れるあまり、第1作の初稿はつらつらと長い文章が多かったんです。そうしたら、編集者さんから「トル」ってばっさり指摘が入って(笑)。めっちゃ頑張ったところなのに! と最初は少し落ち込みましたが、今はどうしたら贅肉(ぜいにく)のない文章を書けるか模索しています。
私自身が色々な小説に救われてきたので、一筋の光が見えるような作品を書いていきたいですね。
――BiSHの頃も、今も、常にどこかに向かって大変な努力を重ねられています。その原動力はどこからくるのでしょうか。
モモコ BiSHに入りたての頃、私は歌もダンスも本当に下手だったんです。リハのあと、私一人だけがステージに残されて、メンバーやスタッフさんからお説教をされることもありました。テレビ出演のとき、私だけ歌のパートがなくて、声の入らないマイクを持ってステージに立ったこともあります。
そんなときは辛くて、ふがいなくて、泣きそうになったけれど、実際にできていないのだから、指摘を受けるのは当たり前のことだとも思っていました。そこでただ泣くのは逃げだと思ったし、泣きたくなるということは、私は悔しいんだな、それならまだ頑張れるじゃん、と思ってがむしゃらに走ってきました。頑張っている自分のことは、信用できるんですよ。これからも、自分の色や感情をしっかり見つめながら歩んでいきたいと思っています。
撮影:榎本麻美
スタイリング:大瀧彩乃
ヘアメイク:澤西由美花
《プロフィール》
モモコグミカンパニー/2015年、“楽器を持たないパンクバンド”BiSHのメンバーとして活動を開始。16年にメジャーデビューを果たすと、大ヒット曲を連発して各メディアで活躍を続ける。18年にエッセイ集『目を合わせるということ』、20年に『きみが夢にでてきたよ』を刊行。22年、『御伽の国のみくる』で小説家デビュー。23年のBiSH解散とともに作家活動を本格化させ、同年『悪魔のコーラス』を刊行。24年2月に解散までの記録を書いた『解散ノート』上梓。
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