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高橋弘希×ピエール中野「ロックバンドは終わらない――邦楽ロック五〇年クロニクル」

高橋弘希×ピエール中野「ロックバンドは終わらない――邦楽ロック五〇年クロニクル」

文學界12月号

出典 : #文學界

「文學界12月号」(文藝春秋 編)

音楽エッセイ『近現代音楽史概論B』が十二月に刊行になる高橋弘希氏と、「凛として時雨」のドラマー、ピエール中野氏の初対談。LUNA SEAはなぜ「バンドを生むバンド」だったのか。ロックバンドは今後も存続しうるのか。同世代にして埼玉県育ちの二人が、九〇年代~二〇〇〇年代を中心に、邦楽ロック五〇年の歴史を語りつくす。

◆プロフィール

高橋弘希(たかはし・ひろき)●1979年、青森県生まれ。2014年「指の骨」で第46回新潮新人賞を受賞。17年『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』で第39回野間文芸新人賞を受賞。18年「送り火」で第159回芥川賞を受賞。他の作品に『朝顔の日』『スイミングスクール』『高橋弘希の徒然日記』『音楽が鳴りやんだら』『叩く』。

ピエール中野(ぴえーる・なかの)●1980年、埼玉県生まれ。「凛として時⾬」のドラマー。クリエイター集団ZiNGのメンバーとしても活躍するほか、ドラマーとしてGLAY、ももいろクローバーZ、星野源、大森靖子などのレコーディングやライブに参加。その他、DJやSNS活用、イヤホンのプロデュースなど幅広く活動している。著書に『#キリトリ線』『#キリトリ線2』。


■越谷界隈の二人

 ――本日は、高橋さんの音楽批評エッセイ集『近現代音楽史概論B』の刊行に先立ち、同書でも取り上げられているバンド「凛として時雨」(以下、時雨)のドラマーであるピエール中野さんをお招きし、お二人がこれまで聴いてきたバンドやその音楽について、たっぷりお話しいただければと思います。

 中野 なぜ僕が文芸誌での対談相手に呼ばれたのか、マジで謎でして。本当によかったんですか?

 高橋 もちろん、第一希望です。

 中野 高橋さんが連載で、時雨を取り上げてくださっているというのをSNSで知って拝読しました。すごい嬉しかったです。あのエッセイの中に、かつてバンドをやっていた時代に埼玉のライブハウス・大宮Hearts(現・西川口Hearts)に出ていた話がありましたけど、どうも高橋さんとは、かつて同じ界隈にいたみたいですね。

 高橋 そうなんですよ。たぶん過ごしてきた場所がけっこう近いんじゃないかな、って。自分、生まれは青森なんですけど、上京してからは越谷はよく通っていたんです。

 中野 わっ、まさに僕の出身地です。越谷のどの辺にいたんですか?

 高橋 越谷~大宮あたりは移動圏内でしたね、だから大宮Heartsも身近なハコでした。加えて、中野さんとは同世代なので、たぶん同時代の音楽を聴いて育ったはず、という予想のもとに、今回は声をかけさせていただいた次第です。そして今日は、これまでに聴いてきた音楽的ルーツを語り合いつつ、もうちょっと大きなテーマも考えていまして。題して「邦楽ロック五〇年クロニクル」――。

 中野 なるほど、邦楽ロックの歴史を、僕らなりに組み立ててみよう、と。

 高橋 はい。その時代時代を代表するバンドを挙げていき、彼らがその後の音楽シーンに与えた影響などを見ていけたらな、と。ただ、ちょっと問題もあって。八〇年代のバンドって、実は体感的にはあまり分からないんですよね。

 中野 まあ、小学生とかですからね。自分の場合は、年の離れた兄たちの影響もあり、LOUDNESS、TM NETWORK、YMOなんかが好きでした。あと、バンド然とした存在ならBOØWYがいましたね。

 高橋 でも、BOØWYって、ちょっと年上の悪い先輩が聴いてる音楽、みたいなイメージがなかったですか?

 中野 その感じはめちゃありましたね。小学校の机とかに、卒業生が彫ったとおぼしき「BOØWY」ってロゴをたくさん見てきましたから(笑)。

 高橋 そういうイメージから、ちょっとBOØWYはとっつきにくかったんですよね。自分は、八〇年代で何か一つ挙げるとしたら、TM NETWORKになりますね。

 中野 僕も異論はないですね。後続に与えた影響という意味でも。

 高橋    自分は時雨に、彼らの代表曲「Get Wild」感をたまに感じますね。

 中野 分かる気がします。ギターが意外とすごい複雑なことをやっているのもそうだし、上物の音の入れ方とかに影響が表れているような。TM NETWORKは、今聴いても格好いいし、新しいなと感じます。

■「バンド」を意識したバンド

 ――私もお二人とは同世代なのですが、やはりリアルタイムで、記憶がはっきりしているところだと、九〇年代以降になるのではないでしょうか。

 高橋 そうですね。もっとも影響を受けたのは、九〇~ゼロ年代あたりのバンドになると思います。

 中野 音楽を聴いていて「バンドっていいかも」と思った瞬間があったと思うんですけど、一番最初に好きになったグループは何でした?

 高橋 やっぱり、LUNA SEAですかね。

 中野 僕も一緒です。別格としてX JAPANのような大きな存在はいましたが、同時代的に、いわゆる「バンド」と認識して好きになったのは、僕もLUNA SEAです。

 高橋 どのあたりから入りました?

 中野    四枚目のアルバム『MOTHER』(一九九四年)をジャケ買いしました。当時通っていたCD屋に、発売日にあのアルバムがすごい平積みされていたのをよく覚えています。ジャケットが格好よかったんですよね。初回盤は帯が透明で。で、オープニングナンバーの「LOVELESS」を聴いた瞬間、ぶっ飛びました。

 高橋 ほぼ一緒なんですけど、自分の場合は先にシングル盤をレンタルビデオ店で借りて、「ROSIER」「TRUE BLUE」という順番で聴いて、これはえらいことになっているなと思っていたところに、あのアルバムが出て。

 中野 LUNA SEAは、すごく「バンド」を意識させるようなサウンドでしたよね。たぶん、各楽器パートの個性が立っていたからだと思うんですけど、まだ子どもでよく分からないなりに、これは他のアーティストとはちょっと違うぞ、と。

 高橋    そういう存在って、LUNA SEA以前にはあまりいなかった気がしますね。たぶん、BOØWYとかがそうだったのかな? というのはありますけど、リアルタイムでは聴いていないから。

 中野 そうですね、あとは、やはりX JAPANですかね。

 高橋 当時、自分がLUNA SEAにハマっていた理由って、基本的にリズム隊が格好よかったからなんじゃないか、と思っていて。

 中野 ドラマーの真矢さんはめちゃめちゃ上手いですからね。自分もすごい影響を受けてます。

 高橋 なんだろう、実際に叩いているテンポ以上に速く聴こえるところがある。

 中野 もともと和太鼓をやっていた人で、祭り拍子みたいなのが体に染みついているからなのか、拍の捉え方がハンパなく上手いんです。ドラムをやっている人ほど凄さの分かるタイプのプレイヤーで、村上“ポンタ”秀一さんという日本トップクラスの凄腕ドラマーが、めったに他の人を褒めないのに「真矢は上手い」と認めたくらいで。

 でも、当時のLUNA SEAって、ドラムも含めて、楽器全体がかなりフレーズをシンプルにしていたんですよね。頑張ればコピーできるかも、と思えるくらい。だから、当時は彼らのコピバンがものすごく増えた。で、それはあえて狙ってやっていたと、後に語っているのをインタビュー記事か何かで知りました。いくらでも複雑なことができるのに、あえてやらなかったところに、あのリズム隊の格好よさは起因しているんじゃないかなと思います。

 高橋 シンプルなベースの格好よさも、LUNA SEAで初体験したようなところがありました。

 中野 当時、LUNA SEAをきっかけに「バンドって格好いい!」と目覚めたのは僕たちだけじゃなくて、そういう同世代はめちゃ多かったと思います。実際、あの時期に彼らのシグネチャーモデルのギターやベースが信じられないぐらい売れたそうです。

 高橋 あ、そういえばLUNA SEAモデルのベース、僕も持ってましたよ。当時、友だち経由でギターやベースが巡ってくる、みたいな文化があったので。

 中野 本当にバンドを生むバンドだったな、って。後続に与えた影響の大きさは計り知れませんね。

■ビジュアル系を追った日々

 高橋    LUNA SEAつながりで聴いたのが、L’Arc-en-Ciel(以下、ラルク)ですね。

 中野 埼玉県民的には、テレビ埼玉でかかっていた『HOT WAVE』という音楽紹介番組の存在が大きくて。新しいバンドのPVをひたすら流してたんですけど、LUNA SEAの後にラルクが流れて、みたいな感じで僕も存在を知りました。

 高橋 僕もその番組は見てましたが、ラルクを最初に知ったのは『D・N・A² ~何処かで失くしたあいつのアイツ~』(一九九四年)というアニメ番組の主題歌として、でした。アルバムで言うと、二枚目の『Tierra』(同)の頃ですね。エッセイにも書いたんですけど、当時ラルクって、まだそこまで売れてなかったんですよ。CDを買うとサインを貰えて握手できるみたいな催しをCD屋でやっていて、僕も行きましたねえ。

 中野 今のアイドル商法の先駆けですね。

 高橋 ラルクは、中野さんにとってどんな存在でしたか?

 中野 LUNA SEAから入って、遡るかたちでX JAPANを聴いて、そこからGLAYや黒夢など、いわゆるビジュアル系の流れを追っていく中で出会ったのがラルクでした。最初に聴いたのは、確か二枚目のシングル「Vivid Colors」ですかね。あの曲のPVを見て、ボーカルのhydeさんの格好よさにびっくりしたのをよく覚えています。で、コピーしようとしたんですけど、当時メンバーだったSakuraさんのドラムにはジャズの要素なんかも入っていて、ニュアンスもすごく繊細で、えらい難しいんですよ。

 高橋 ラルクって、ベースもそうですけど、当時のバンドの中では異様に手数が多い。

 中野 かつフレーズもめちゃめちゃ複雑で。そういう意味では、センスの塊みたいなイメージで、ちょっと手の届かない存在でしたね。

 高橋 同ジャンルの他のバンドはどうでしたか?

 中野 その頃に出会った一連のビジュアル系バンドの中で、僕が一番ハマったのがSIAM SHADEなんです。中学生の時で、やっぱり『HOT WAVE』でPVがかかっていて。バンド好きの友だちと「昨日見た? あのバンド、ヤバくなかった?」って盛り上がって、CDを買いに行くことになるんですが、近くの店じゃ売ってないんですよ。彼らは当時、まだインディーズだったので、自主制作盤しかなくって。で、ちょっと大きな街まで遠征して、大型CDショップで1stミニアルバム『SIAM SHADE』(一九九四年)を買いました。一曲目の「NO CONTROL」っていう曲がべらぼうに格好よくて。全パートめちゃめちゃいいんですけど、やっぱりドラムがすごい。淳士さんは、おそらく今日本で一番上手いドラマーだと僕は思っています。

 高橋 演奏がめちゃ上手いらしい、という話は僕も聞いたことがあります。

 中野 ハンパないです。メイクしないと誰も見てくれないから、仕方なくビジュアル系をやっていたらしくて。あと当時、ライブでコントをやるのがお約束だったんです。だから、彼らはゴールデンボンバー的な存在のはしりというか、元ネタなんですよ。しかも、そのコントがマジで面白い。曲がいい、演奏がいいに加えて、コントがいいんだよね、みたいな言われ方をしていたのをよく覚えています。メジャーデビューする時に、入場料五〇〇円とかでライブをやったんですけど、その時のゲストは高木ブーさんでしたからね。

 高橋 それは確かにすごい(笑)。僕は、SIAM SHADEはアニメ『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚―』で通った感じですね。

 中野 主題歌になった九七年リリースの「⅓の純情な感情」ですね。あの曲は、B’zのベースとかをやっていた明石昌夫さんがプロデューサーとして入った曲で。テンポなんかも以前とはガラッと変わっていて、バンド内でもすっごいモメたらしいです。これは俺たちじゃないだろ、って。結果的に売れたからよかったですけど、デビュー時から追っていた僕からしても「なんでこの曲?」というのは正直ありました。「もっと格好いい、激しいSIAM SHADEで売れて欲しかった!」って。

 高橋 明石さんつながりで言うと、中野さんはB’zには行かなかったんですか?

 中野 B’zは、当たり前に通っちゃっている存在でしたね。もはや歌謡曲として入ってくるじゃないですか。メディアに出まくっていましたし。だから、特段「バンド」という意識もなかった。でも、一〇枚目の『Brotherhood』(一九九九年)というアルバムが出た時に認識が変わりました。あ、めっちゃバンドじゃん、って。なんならB’z側もそれを狙っていたみたいで。「ロックバンド」を意識して、バンドメンバーも一新し、若手中心で揃えた。僕がB’zで一番好きなアルバムです。ちなみに、このアルバムにはドキュメンタリー作品も出ていて、これがバンドをやっている身からするとグッとくる内容で。だって、居間とかに寝っ転がりながらボーカルの稲葉(浩志)さんが歌詞を書いてるわ、その傍で松本(孝弘)さんがフェルナンデスのZO-3(ぞうさん)ギターを弾きながら一緒に曲作りしているわで。あのB’zが、俺たちと同じように曲作りをしている! って、あれはけっこうバンドマンの希望になったと思いますね。そのあたりから好きになって、それまで当たり前に聴いてきたアルバムを、遡ってじっくり聴くようになりました。

■ヘヴィメタルとメロコア

 高橋 しかし、九〇年代はバンドが多すぎて、なかなか総括するのが難しいですね。他に、中野さんが好きだったバンドは?

 中野 ジュディマリとか。

 高橋 JUDY AND MARY。僕は、あまりガッツリは聴きませんでした。とはいえ、ヒットしてたので大体曲は聴いてるんですけど。なんかオシャレなバンドだな、みたいな目で見ていました。

 中野 あとは、さっき名前だけ挙げましたが、黒夢も。それから、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(以下、ミッシェル)もいましたね。

 高橋 思い返すと、自分は九〇年代後半の邦楽ロックがわりと抜けているんですよね。

 中野    なんで抜けちゃったんですか?

 高橋 要は、ヘヴィメタルに傾倒してしまったからです。ちょうど高校生くらいの時だったんですけど……やっぱりメタルにハマるとイカンですね(笑)。どうしてもメタル至上主義になってしまって、他の音楽を聴かなくなる。

 中野 確かに、メタル好きになると、「メタルこそ至高!」って気持ちになっちゃいますよね。自分も通ってきているので、よく分かります。具体的には、どんなバンドがお好きだったんですか?

 高橋 メタリカ、メガデスをはじめとするスラッシュメタル四天王や、ハロウィンとかのジャーマンメタルにハマってましたね。

 ――九〇年代以降、洋楽ロック的にはグランジ・オルタナが台頭してきて、メタル人気は下火になっていった印象があります。

 中野 その延長で、僕が二十歳くらいの時、つまり二〇〇〇年前後は完全に沈んでましたね。メタルでは当たり前のツーバスのドラマーとかあり得ない、ダサッ、みたいな風潮で。BUMP OF CHICKENとかミッシェルが売れてて、洋楽だとRed Hot Chili Peppersが人気で、シンプルなドラムセットばかりになっていた時期ですね。つまり、僕のドラムスタイル的にも冬の時代でした。あと、九〇年代中頃からは、Hi-STANDARD(以下、ハイスタ)を中心とするメロコア(メロディック・ハードコア)ブームもありましたね。彼らも、やっぱりシンプルなドラムセットだった。

 高橋 日本の音楽シーン的には、メロコアが出てきたことでメタルは衰退した、なんてことも思ったり。速くて激しくてメロが良い音楽ならメロコアでいいじゃん、みたいなことになった印象があります。

 中野 当時人気だったストリートカルチャーとの相性が抜群によかったのと、ハイスタのブランディングがめちゃめちゃ上手だったことが大きいと思います。本当はメロコアやってるヤツらもみんなメタル大好きだったのに、そこでいったん置かれちゃった感じがありました。「メタルはいったん待っといてね」って。その後、メロコア界隈がメタルからの影響を公言したり、ちゃんと回収はしてくれたんですけどね。

 高橋 あの界隈から出てきたバンドもたくさんいましたよね。

 中野 いわゆる「AIR JAM世代」ですね。

 高橋 AIR JAMは、ハイスタがやっていた、パンクやハードコア・ミュージックとストリートカルチャーを合体させた音楽フェスで、初回は一九九七年でしたよね。BRAHMANやHUSKING BEEといった、界隈のバンドが総じて出演していました。当時は、ダウンタウンの音楽番組『HEY!HEY!HEY!』(フジテレビ系列)にSNAIL RAMPが出たりとか、本当に一般レベルまで人気が拡大していましたよね。また、当時の日本のメロコアバンドの特徴として、英語で歌って売れた、というのも重要なポイントかと。それ以前には、そういうバンドはありませんでしたから。

 中野 確かに。あと、この時代で忘れてはいけないのが、九〇年代後半にデビューし、ゼロ年代邦楽シーンを席巻したDragon Ashでしょう。

 高橋 彼らが最初に出てきた時は、これまで聴いたことのないものが出てきたな、という感じがありました。新しかった。ミクスチャーロックバンドはメロコア経由でも出てきていましたが、多くの日本の若者は、Dragon Ashでそのジャンルを初体験したのでは。

 中野 そうですね。〇二年にラッパーのZeebraさんが自身のヒップホップグループ、キングギドラの「公開処刑」という曲でDragon Ashのリーダー・Kjさんをディスる事件がなければ、バンドとシーンのその後もだいぶ違っていたかもしれませんよね。いずれにせよ、ストリートな音楽を大衆にちゃんと届けて、かつ衝撃を与えたという意味では、彼らの存在は相当大きなものだったと思います。

 一方、インディーシーンでは、メロコア勢のフォロワーがどんどん出てきていました。例えば、dustboxとか。で、その流れに終止符を打つこととなったのがELLEGARDEN(以下、エルレ)でしょう。彼らの結成は九〇年代末ですが、バンドとしてブレイクするのはゼロ年代から。

 高橋 このあたりから、シームレスにゼロ年代の話に入っていく感じですね。

■青春パンクと、その後

 高橋 エルレはわりと売れてから聴いたんですけど、僕はメロコアとは思っていませんでした。今のバンドで言えば、ワンオク(ONE OK ROCK)とかと同じ括りという印象が。ハイスタの影響下で、一番売れ線をやったのは、結局MONGOL800ということになるのかな。〇一年に「小さな恋のうた」というヒット曲があったじゃないですか。あれで、メロコアはきっとここまでなんだろうな、と思ったのを覚えています。ここがたぶん到達点なんだろうな、って。

 ――メロコアは、いわゆる「青春パンク」と呼ばれたムーブメントへと収斂していった印象があります。

 中野 確かに。青春パンクに括られたバンドにはMONGOL800も含まれますし、サンボマスターや、後に銀杏BOYZ(以下、銀杏)を結成する峯田和伸さんのやっていたGOING STEADYという存在も。彼らはメロコアとはまた違った音楽性なので、「メロコア→青春パンク」という流れにもグラデーションがあったのかもしれませんね。ジャンルが変質していく中で、ちょっと音楽性の異なるバンド同士も同じ界隈でやっていた、みたいな。

 高橋 そういう意味では、エルレがメロコアの流れだというのも納得です。

 中野 ハイスタから青春パンク付近のバンド群への流れって、いわゆるインディーブームに至る過程でもありましたよね。インディーが格好いい、みたいな価値観を、その時期にメディアが盛んに作っていった。対して、メジャーはダサい、と。だから、インディーバンドがメジャーに行くと、裏切り者扱いされてしまった。実際、メジャーで失敗してインディーでやり直すバンドもありました。メジャーになった途端、ライブの動員がめちゃめちゃ減ってしまったりして。

 高橋 テレビ番組に出るとカッコ悪い、みたいなのもありましたよね。

 中野 ありましたねー。当時はネットの掲示板(BBS)なんかもポピュラーになってきていて、そこで発言力のある人がメジャーを否定すると、読んでいる人たちもみんな引っ張られて、メジャーに行ったバンドに対して「裏切られた!」の大合唱という地獄に……。今のSNSと変わらないですね。

 高橋    僕はGOING STEADYって当時あんまりピンとこなかったんです。でも、最近あらためて聴いてみたら、「あれ? やっぱりいいかも」と思えてきて。

 中野 そういうのありますよね。

 高橋 なんだろう、彼らはCDをあんまりちゃんと録らないじゃないですか。音をちゃんとした録音物として録る気がたぶんないんだろうな、みたいなのが伝わってくる。まあ、パンクだからそれでいいんでしょうけど。

 中野 あれは狙ってやったみたいですよ。

 高橋 当時も、たぶんそうなんだろうなと思って聴いてたんですけど、CDとして、さすがに聴きづらいのでは? って。

 中野 銀杏もそうでしたけど、僕も聴きにくかったです。ライブを見るまで全然好きじゃなかった。でも、〇七年に見たライブで完全に度肝を抜かれました。「ヤバッ! こんな格好いいバンドだったの?」って。うちの妻(大森靖子さん)が銀杏の熱烈なファンなんですけど、この時の衝撃を話したら「それ、バンドが一番格好よかった時だよ。あの頃は本当に凄かったんだから」と言われました。

 高橋 最近、同じような体験しました。銀杏のライブをYouTubeで見て。

 中野    画面越しでも伝わるヤバさ(笑)。

 高橋 まさに。僕は映像でしたけど、ライブを見た後だと「ああ、こういう録音でよかったんだな」というのが分かります。というわけで、二〇年越しくらいに銀杏にハマっているところです。

 中野 しかし、ゼロ年代もバンドがたくさんいて、代表格って考えるとなかなか難しいですね。まず、ぱっと思い浮かぶのがNUMBER GIRLですかね。後続への影響を考えると、間違いなく大きな存在です。あとは、くるりとかクラムボンとかASIAN KUNG-FU GENERATION(以下、アジカン)とか。いずれも、時雨より一つ上の世代になるのかな。おそらく、ストレイテナーが一番年の近い先輩という感じですね。で、同世代は9mm Parabellum Bullet。そうそう、『近現代音楽史概論B』でも取り上げられてましたけど、椎名林檎もゼロ年代を代表するアーティストの一人ですよね。

 高橋 同時代の歌い手としては、宇多田ヒカルという存在も大きいですが、より「バンド」を感じさせる存在というと、やはり椎名林檎ですよね。

 中野 僕は、彼女の二枚目のシングル「歌舞伎町の女王」で存在を知ったんですけど、あのインパクトと衝撃は本当に大きかった。ちなみに、あの曲のドラムって、実は椎名さん自身が叩いてるんですよ。ドラマー的にはそこもポイントが高くて。

 高橋 それは知りませんでした。

 中野 さらに、その後に出た1stアルバム『無罪モラトリアム』(一九九九年)がまた、べらぼうによかったんですよね。出来が完璧すぎる上に、時代にも合いすぎていた。洋楽ではアラニス・モリセットなんかが流行っていた時期で、そういう流れにも合致していたな、って。そこから、ゼロ年代以降の活躍は誰しもが知るところです。

■時雨における「メタル性」

 高橋 さて、いよいよ満を持して、ここでゼロ年代を代表するバンドの一つである時雨の話です。僕が時雨に出会ったのは、確かゼロ年代半ばくらいだったので、かなり初期の頃ですよね。当時、後輩が「すごいバンドを見つけた!」と教えてくれて。中野さんは、バンドの結成メンバーではなく、ちょっと後から加入されているんですよね?

 中野 初代のドラマーが一年くらいで抜けてしまい、後任として加入しました。もともと時雨のことはすごくいいバンドだなと思っていて、自分が主催していたイベントに誘ったんですけど、「実は、ドラマーが抜けちゃうんで出れないかもしれないです」って。それで、「じゃあ僕、サポートやらせてください」と挙手したのが最初です。初めてのスタジオ練習の時からバチッとハマったので、しばらくサポートを続けていたのですが、ある時点で正式に加入してほしいと言われて、そのまま現在に至ります。

 高橋 時雨を最初に聴いた時の印象を思い返してみると、ジャンルとしては一応、ギターロック、オルタナティブロックとして聴いていました。あの時期って、インディーでもメジャーでもギターロックバンドってけっこうたくさんいたじゃないですか。

 中野 多かったですよね。

 高橋 そうした中で、時雨は他のバンドたちとは全然別物に聴こえた。で、なぜ違うと感じるんだろうと考えてみたんですけど、それはドラムによるところが大きいんじゃないのかと思い至って。というのは、中野さんはツインペダルを使うじゃないですか。ツーバスのドコドコした音を出せるペダルですね。時雨は、最初のドラマーの人の時からツインペダル、ないしはツーバスの音は入っていたんですか?

 中野 入ってないですね。だから、元の曲のシングルで叩いていたところに、「ここ、ツーバス入るっしょ」って、置き換えられそうなところにツインペダルのフレーズを足していったんです。時雨に「テレキャスターの真実」(『#4』収録、二〇〇五年)という曲があるんですけど、それがたぶん僕が加入して最初の頃に作った曲で、その辺からツインペダルを前提にした曲作りになっていきました。

 高橋 中野さんのドラムゆえに、時雨は他のギターロックバンドと一線を画する存在として僕の中に入ってきたんだと思います。要は、ギターロックなのに、ドラムにメタルを感じた。メタルのドラムでギターロックをやっているバンド、という印象を持った。

 中野 それは完全に正解だと思います。ルーツがビジュアル系で、時雨をやる前にやっていたバンドではSlipknotのコピーとかをやっていたので、メタル色が色濃く出てしまっていたんでしょう。

 高橋 でも、当時のギターロック界隈には、中野さんみたいなプレイをするドラマーはいませんでしたよね?

 中野 さっきも少し話に出ましたけど、シンプルなドラムセットがいいとされていた時代でしたからね。被害妄想もあったかもしれませんが、「お前みたいなドラマーは下北には似合わない」と迫害されているような気分でした。だから、「うるせえ、全員死ね!」と思いながら、意地でツインペダルをドコドコやって、スティックをクルクル回したりしてましたね(笑)。そうした自分のスピリットを象徴するような曲を作ろうと思って、時雨版ヘヴィメタルとでも言うべき曲「nakano kill you」(『Inspiration is DEAD』収録、二〇〇七年)が出来上がるに至ったという。

 高橋 なるほど……(笑)。

 中野 何はともあれ、以降、徐々に多点キットでツーバス使いみたいなドラマーが、シーンの中でも大丈夫になる空気が出来てきたので、あの時に足掻いておいてよかったな、と思いますし、僕のドラムを受け入れてくれたバンドにも感謝しています。

■キング・オブ・邦ロック

 高橋 ここからテン年代に突入します。僕はとりあえず、『近現代音楽史概論B』でも取り上げたKing Gnuを聴いた時に、これはすごいことになってるなと思ったのが一番大きかったかなと。歌も演奏も上手いし、曲もいいしと隙がない。

 中野 彼らの登場はすごかったです。「売れる」ことを狙って、実際にちゃんと売れることができると証明してみせたバンド。前世代と現世代とでグラデーションになっているところに登場してきて、一気にシーンを塗り替えてしまったという意味で化け物感がありました。

 高橋 あと、えらいオシャレだなーと思ったのがSuchmosですかね。

 中野 今のシティポップ再評価の流れを作った功労者ですね。

 ――バンドではありませんが、テン年代はアイドルの存在が大きかった印象があります。また、「楽器を持たないパンクバンド」を自称するBiSHが出てきたり、バンドサウンドを軸とするようなグループも少なくありませんでした。そういえば、『近現代音楽史概論B』では、アイドルへの言及はあまりありませんでしたね。

 高橋 単純にそれほど通っていないので。迂闊に変なことも言えないし。あと、取り上げるアーティストの基準が、かつての自分との間に何か思い出があったかどうか、なんですよ。だから、「このアーティストが抜けている!」みたいに思われることもあるかもしれませんが、それは知らないとか評価していないとかではなくて、単に個人的なエピソードがなかっただけです。あ、でも、アイドルの子がメタルをやるグループがありましたよね?

 中野 BABYMETALですね。

 高橋 彼女たちには若干食指が動きましたけど。メタルなので。

 中野    でも正直、BABYMETAL……というかメタルはやっぱり特別なので、今回の「邦楽ロック」という括りに入れるのはちょっと違うかな、という気分です。

 高橋 メタルは別枠(笑)。でも、分かります。では、いよいよ直近の二〇二〇年代に入りましょうか。

 中野 言っても、まだ三年くらいしか経ってませんからね。最近すぎて……。もはやバンドじゃないですけど、圧倒的なのは藤井風かなと。その才能もさることながら、ネットで弾き語り動画とかを配信していて、その後メディアに出た途端爆売れしていた。あのスピード感にも驚かされました。

 高橋 僕は、YOASOBIとかが気になってはいます。

 中野 あのグループも、まさに「今」を代表する存在ですよね。あとは、バンドじゃないものも含みますが、星野源、米津玄師、Ado、マカロニえんぴつ、Novelbright、Official髭男dism、女王蜂……といくつか浮かんできますけど、最近のようでいて実はみんな活動歴が長かったりして、ぜんぜんテン年代案件……なんならゼロ年代だったりする。ということはやっぱり、息が長く続いているかどうか、フォロワーを生んでいるバンドかどうか、というような基準も「時代を代表する」「歴史に残る」という意味では必要な気がしますね。となると、さすがに二〇年代を象徴するようなバンドというのは、まだ判断できないかなと。

 高橋 これからの活躍に期待してます、という感じになりますかね。

 中野 あ! あと一つ、とても重要なバンドの存在を忘れていました。マキシマム ザ ホルモン(以下、ホルモン)という、日本のロック史上最強のド変態がいました。やっていることが先を行きすぎていてエグいな、って。ホルモンのCDやグッズを買うと付いてくる「腹ペコえこひいきクーポン」という券があって、それを使うと、全国にあるクーポン取扱飲食店で無料トッピングをもらえたりするんですよ。新規取扱店をネットで募集して、どんどん拡大中で。さらには、あれだけの人気バンドなのに、新譜のCDが、そうした関係のある飲食店でしか販売していなかったり。もはや、誰も追いつけない境地に到達してます。本来は、ゼロ年代の括りに入れるべきなのかもしれませんが、自分的にはキング・オブ・邦ロック、邦ロックが生んだ化け物みたいな存在です。

 高橋 中野さん的には、もはや「邦楽ロック五〇年クロニクル」のトップに君臨する存在だと。

 中野 規模感で言ったら、もちろんX JAPANの方が上なのかもしれませんが、ある意味、彼らすらもできなかったようなことを全部やっているなと思いますね。で、フォロワーもちゃんと生んでいるし、自分たちのまわりのバンドも大切にする。だから愛される。世界中どこに行っても活躍できるバンドですし、ホルモンはちょっと別格だなと。このことは、声を大にして言っておきたいです。

■邦楽ロック・ソー・ヤング

 ――そういえば、今名前が挙がったものも含めて、現在売れているバンドの多くがアニメに紐づいていますよね。

 中野 本当に。

 高橋 僕も、アニメの主題歌で知ったバンドは過去にたくさんあります。「アニメ+邦楽ロック」の組み合わせは、カルチャーとして浸透してるし、最近では、そうした出会い方が加速している感もありますね。

 ――思えば、時雨の『PSYCHO-PASS サイコパス』(二〇一二年)や、ボーカル&ギターのTKさんが「TK from 凛として時雨」名義でやられた『東京喰種 トーキョーグール』(二〇一四年)など、アニメの主題歌経由で入ってきたファンもたくさんいるわけですよね。

 中野 はい。やっぱり、アニメの主題歌に決まると知名度がぐんと上がるのは間違いないです。

 高橋 邦楽ロックとアニメは相性がよくて、組み合わせると、すごく格好よく聴こえるんですよね。どっちもよく見えるという意味で、相乗効果が狙えるメディアだな、と。

 中野 やはり日本はアニメが強いし、世界中で人気がありますし。アニメをきっかけに新しい音楽やバンドが世に知られていくという流れは、これからも変わらずあり続けるんじゃないでしょうか。

 ――『近現代音楽史概論B』で、高橋さんは時雨について「大衆の支持を得た最後のオルタナティヴ・バンドかもしれない」という分析をされてました。つまり、ある種の時代予想だと思うのですが、お二人は、これからの邦楽ロックシーンはどのようになっていくと考えていますか。

 高橋 邦楽ロックの未来はどうなっていくのか、ということですね。さっき中野さんが挙げてくださった二〇年代のアーティスト群からも分かりますが、最初からソロという人も珍しくありません。なので、ロックバンドが今後も存続し得るのか? という論点もあるかもですね。

 中野 とはいえ、なんのかんのバンド・ミュージックは続くと思いますけどね。結局、時代は繰り返していくので。九〇年代に、世の中的には「メタル冬の時代」だったわけですが、Slipknotなどの登場が後押しになり、ゼロ年代から徐々に復活していきましたし。単純に今が、バンドがあまり日の目を見ないターンというだけじゃないでしょうか。

 高橋 いずれ、またロックバンドが世間を席巻する日が来る、と。

 中野 またアニメの話に戻っちゃいますけど、バンドものの『ぼっち・ざ・ろっく!』(二〇二二年)が流行って、楽器を始める人も増えているらしいですしね。主人公たちが結成する女子高生バンド「結束バンド」のフルアルバムという体でサントラも発売され、すごく売れているみたいです。なんなら、彼女たちも「二〇二〇年代を代表するバンドの一つ」になるかもしれません。作品の随所に仕込まれたパロディを通して、ネタ元であるアジカンに注目が集まったり、若い世代に音楽やバンドが「届く」機会や可能性はまだまだたくさんあるんだな、と痛感しています。

 高橋 ですね。今日は、一九八〇年代から始めましたが、高橋研究によると、邦楽ロックが誕生したのは一九七一年あたりなんですよ。バンドでいえば、はっぴいえんど、頭脳警察あたり。一方、洋楽ロックはそれより少し早くて一九六五年あたり。ビートルズやストーンズがロック調になったころですね。となると、日本では生誕五〇年ちょい。考えようによっては、これって意外と若いんじゃないか? とも思うわけです。そんなわけで、「邦楽ロックもまだまだいけるんじゃないか」と希望を残して終われたらと思います。本日はありがとうございました。

(九月六日、文藝春秋にて収録)

構成●辻本力


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