銀行に勤める男たちが出会う様々な、困難と悲哀を、名手・池井戸潤が6つの短篇で綴った文庫オリジナル『かばん屋の相続』の映像化が決定――これまでも『半沢直樹』『花咲舞が黙ってない』『シャイロックの子供たち』など、銀行を舞台にした、数々の大ヒットを打ち立ててきた池井戸作品。待望の次なる映像化作品を解説する!
強靱
池井戸潤の小説を読むたびに思うことがある。
小説とは、主人公がいて、主人公のためのストーリーがあって、彼/彼女を取り巻くその他の脇役たちがいて、それで成り立っているのではないのだと。
池井戸潤の小説では、脇役たちもまたしっかりと生きている。主人公と同じレベルで生きているのだ。そうした人間たちが交錯するなかでドラマが生まれてくる。それをある人物の視点から書き起こしたのが池井戸潤の小説といえよう。
特に本書『かばん屋の相続』のような短篇集では、主役と脇役の登場比率に極端な差異がない分、その特色が顕著だ。極論すれば、本書の全六篇、いずれも池井戸が主役に設定した人物以外を主役としても成立してしまいそうなのである。言い換えるならば、本書の各作品は、脇役の視点から物語を見つめ直すと、張りぼての裏側が見えてしまったり、登場人物のぺらぺらな薄さが露呈してしまったりするような小説ではない。存在感たっぷりな、個々の人生をそれぞれ生きてきた登場人物たちがぶつかり合って生まれる、極めて強靱な物語なのである。
人間
そうした強靱な短篇の各々は、二〇〇五年から〇八年にかけて『オール讀物』に掲載された。本稿では、それらを雑誌掲載順に各篇を紹介するとしよう(本書にはほぼ雑誌掲載順に収録されているが、第五話と第六話の順序が逆である)。池井戸潤という作家の動向も交えながら。
まずは第一話「十年目のクリスマス」である。この短篇は、『オール讀物』二〇〇五年十二月号に「非常出口」というタイトルで掲載された。
十年前に火災事故で倒産した神室電機の社長を新宿で見かけた銀行員の永島。なにやら羽振りがよさそうな神室の姿を見て、永島は思った。あのとき一文無しで路頭に迷ったはずの神室に、この十年間で何が起こったのか、と。
この短篇では、十年前のドラマ、すなわち危機を迎えた神室電機に融資するか見送るかを巡る永島の葛藤や、一企業の主として従業員や家族に責任を持つ神室の必死さが、永島の回想としてまず語られる。そのうえで、神室の現状を巡る謎を永島が解明しようとする現在の姿が描かれている。この二人の人物を巡る二重構造が、神室という男を描き出す上で極めて効果的に機能している。しかも、現在の神室に全く科白を喋らせずに、だ。池井戸潤の技量のほどが判ろうというものだ。
そしての永島と神室の物語に、十年前に永島と同じく銀行員として融資について検討した面々の人生や、あるいは神室の娘の人生が織り込まれている。それぞれに存在感を持ってだ。わずか五十ページ足らずですらすらと読める短篇だが、中身は実に濃密である。
この第一話を雑誌に書いた翌年一月、池井戸潤は『シャイロックの子供たち』という小説を上梓する。二〇〇三年から〇四年にかけて『近代セールス』に第六話までを連載し、その後第十話までを書き下ろしで加筆して完成させた作品だ。『シャイロックの子供たち』は、作家池井戸潤を考えるうえで非常に重要な一作である。なぜならこの作品の執筆途中で彼は、作家がポンと作中に置いた登場人物であっても、それは読者にとっては一人の人であるということを強く意識するようになり、同時に人を描くことの本当の面白さに気付いたからである。その『シャイロックの子供たち』の刊行直前に書かれたこの第一話、個々の登場人物がしっかりと語られているのも宜なるかな。短篇としての決着のさせ方も、神室の謎の解明で終わらせるのではなく、やはり人を重視した終わらせ方となっている。その点にも注目したい。
第二話「セールストーク」は、ある印刷会社に融資見送りを言い渡した銀行員の北村を視点人物として、引導を渡されたに等しい印刷会社社長・小島の“奮闘”が描かれる。『オール讀物』二〇〇六年七月号に掲載された。
北村の銀行からの融資は得られなかったものの、小島はなんとか五〇〇〇万円の融資を別口から取り付け、危機を乗り越えた。その別口融資は、他の銀行ではなく、個人からのものだという。一体誰が? そしてこの個人融資を巡って、北村の周囲もざわつき始める……。
こうした個人融資の謎の解明に、銀行の与信検査というイベントを重ねて実にスリリングなクライマックスを演出する池井戸潤。いやはや巧い。そしてもちろん巧いだけではない。狡い人物や底の浅い人物をきっちりと描き、また、真っ当な考えを持って行動する銀行員もきっちりと描いている。特に、北村とともに行動する入行二年目の若手江藤がよい。彼の今後の成長が愉しみである──小説の脇役だが、ついついそう思ってしまう。
「セールストーク」を『オール讀物』に発表したころ、彼が『月刊J-novel』に連載していたのが『空飛ぶタイヤ』である。大型トレーラーから脱落したタイヤが母子を直撃し、母親が死亡するという事故を起こしてしまった運送会社の社長と、リコール隠しを行った大手自動車メーカーとの対決を描いた長篇である。これはまさしく『シャイロックの子供たち』以降の池井戸長篇と呼ぶべき作品で、運送会社の面々や彼が訪ね歩く人々、あるいは大手自動車メーカー側で自社防衛に走る社員達などが、それぞれくっきりと造形されており、そのなかでリコール隠しを巡る骨太な物語が進行していくのだ。二〇〇六年九月に単行本として刊行されたこの作品が、第二八回吉川英治文学新人賞及び第一三六回直木賞の候補として高く評価されたのも当然といえよう(受賞に至らなかったのがむしろ不思議だ)。
『空飛ぶタイヤ』刊行に続くタイミングで『オール讀物』二〇〇六年十一月号に掲載されたのが第三話「手形の行方」だ(雑誌掲載時は「手形」というタイトル)。
ミュージシャン志望で、銀行員はデビューまでの腰掛けという不遜な態度を取りつつ、ときおり大口の案件を獲得してくる若手銀行員の堀田。彼が一〇〇〇万円の手形を紛失するという事件が起きた。彼を監督する立場の伊丹は、手形の発見に尽力する一方で、手形を堀田に渡した社長や手形の振出人との調整にも奮闘する。ふてくされたような態度をとり続ける堀田とともに。
伊丹はやがてこの事件の真相を探り出す。その真相は、この紛失事件に関与した人々の胸の内を照射し、そして伊丹には(あるいは読者には)見えていなかった実像を見せることになるのだ。モノトーンの幕切れが、生々しくも誠実な一篇である。
第四話「芥のごとく」は『オール讀物』二〇〇七年三月号に掲載された作品。大阪で二十年近くも鉄鋼商社を営み続けてきた豪傑女社長の土屋。だが、平成に入って彼女の会社も苦しくなってきていた。入社二年目の山田は、そんな土屋の会社を支えようと頑張るのだが……。
神風が吹くわけでもない現実をきっちりと見据えた小説であり、その現実のなかでなんとか会社を存続させようともがく女社長の必死さが、また、土屋の会社を支えようとする山田の必死さが、読む者の胸を強く打つ。彼等の奮闘とその結末が、土屋の姪の人生に与えた影響も深く読者の心に残る。
この短篇はまた、平成の始まりというよりは、まだまだ昭和の終わりの余韻に包まれた年代背景と絶妙に共鳴している。「芥のごとく」という題名と、作中に登場する美空ひばりの『川の流れのように』もどこかしら響き合っているようだ。
ちなみに、主人公の山田は昭和六十三年に大学を卒業して銀行に入り、大阪で女社長の会社を担当と設定されている。この山田と、さらには女社長の造形には、池井戸潤自身の体験が投影されているのではないかと推測される。池井戸自身、若手銀行員時代に大阪で豪快な女社長が経営する会社を担当したことがあり、一緒に夕飯を食べたこともあるのだ(『本の話』二〇〇六年二月号の「シャイロックの末裔」と題したエッセイでそう語っている)。その観点でももう一味愉しめよう。
「芥のごとく」の二ヶ月後、池井戸潤は『IN★POCKET』で長篇の連載を始めた(二〇〇七年五月号~〇九年四月号)。『鉄の骨』である。若きゼネコンマンを通じて、談合の実像や是非に迫る長篇だ。その連載と並行して、池井戸潤が書き上げたのが第六話であり表題作でもある「かばん屋の相続」だ。『オール讀物』二〇〇七年一二月号掲載の一篇である。
父が興したかばん屋を継ぐのを嫌がって大手銀行に就職した兄。兄不在のなかでかばん屋をずっと支えてきた弟。父親が亡くなった際に兄が持ち出した遺言状で、その関係が大いに揺れることになる。遺言状には、かばん屋を兄に継がせると書かれていたのだ。自筆の署名はあるものの、父の死のわずか一週間前に、兄側の弁護士によって作成されたワープロ打ちの遺言状であった……。
かばん屋のお家騒動を、担当銀行員の視点から描いた作品である。多くの読者が気付かれるように、二〇〇六年に起きた一澤帆布の相続争いに着想を得た短篇だろうと推測される。あちらは一旦は兄側(元東海銀行行員だ)の勝訴で終わるものの、この「かばん屋の相続」が発表されたあとの二〇〇九年に、遺言状が偽物と最高裁で決着し、本書でいうところの弟側が勝ちを収めている。
翻って本作品では、騒動の発端こそ一澤帆布と重なるが、そこから先の話の展開は、当然のことながら池井戸潤オリジナルのものとなっている。二〇〇二年一月の母子死傷事件を題材に『空飛ぶタイヤ』を書き上げた池井戸潤らしい一篇である。かばん屋に生まれた兄と弟、それぞれの想いがぶつかり合い、さらに父の想いも重なって池井戸潤の小説は着地する。それも、実にクレバーで、かつ素敵なかたちで。
二〇〇八年六月の『オレたち花のバブル組』(“バブル組”シリーズの第二弾で、第二二回山本周五郎賞候補となった)を挟んで発表したのが第五話「妻の元カレ」(『オール讀物』二〇〇八年九月号)である。銀行員としての将来に悩みつつ、私生活で妻に関してふとした疑念を抱いてしまったヒロトが主人公だ。池井戸潤は、ヒロトと妻の関係の緩やかかつ本質的な変化を描きつつ、そこに妻の元カレの浮沈を絡め、かつ銀行員としてのヒロトの停滞するキャリアを並べて描く。悪意ではなく、かといって一〇〇%の善意でもなく、三人の生々しい勘定が軋んで深い余韻を残す。まさに大人の小説といえよう。
下町
「妻の元カレ」の翌年に連載を終了し、同年十月に単行本として世に送り出されたのが『鉄の骨』である。
何故談合はなくならないのだろう──池井戸潤のこんな疑問がきっかけとなって生まれた同書は、第一四二回直木賞候補となり、そして第三一回吉川英治文学新人賞に輝いた。『空飛ぶタイヤ』と並び、池井戸潤の代表作といってよかろう。
この二作品、熱気といいスリルといい読み応えといい満点であり、さらに展開の妙味も読後感も素晴らしいという作品である。こんなにも上質な作品はそうそう書けるものではない──そう勝手に決めつけて私は、『空飛ぶタイヤ』『鉄の骨』を凌ぐ作品はしばらく書かれないだろうと思い込んでいた。
だが、それは私の思い違いであった。
漢字の読めない首相を題材としてユーモアたっぷりに政治の世界を風刺しつつ、同時に世の中を本気で考えることを描いた二〇一〇年五月の『民王』(これはこれでとことん痛快な一冊だ)を挟んで二〇一〇年十一月に刊行された『下町ロケット』が、またしても抜群に熱く圧倒的に素晴らしい小説だったのである。
大企業と中小企業の対決という『空飛ぶタイヤ』でおなじみの構図でスタートする『下町ロケット』。今回は大企業が財力にものをいわせ、ロケットエンジンに関する技術を持つ佃製作所を、特許訴訟を通じて牛耳ろうとするのである。この構図に加えて、『下町ロケット』ではもう一つの大企業が別の思惑で絡んでくる。この三つ巴の争いのなかで佃製作所内部の足並みも乱れ始める。二代目社長である佃航平──元宇宙科学開発機構の技術者というキャリアの男だ──が、この難局に立ち向かう……。
何度でも繰り返すが、いい小説である。大企業との闘いの迫力や、佃製作所の面々の技術者としての誇りと意地が、読者の心をがっちりとつかまえる。敵役という位置付けの大企業側の面々がそれぞれに現実を直視して動いている点もまた魅力だ。一面的な悪役ではなく、彼等も自身の経験と判断に基づいて動いている。だからこそ彼等の動きから目が離せないし、佃製作所側の頑張りに肩入れする気持ちがよりいっそう募るのである。
そこにさらに航平の娘や別れた妻、銀行から佃製作所への出向社員なども登場して、物語の奥行きを出す。いやはや、素晴らしい素晴らしい。
第四四回江戸川乱歩賞を一九九八年に『果つる底なき』で受賞して以降、高値安定を続けていた池井戸作品だが、『シャイロックの子供たち』以降、それが更にもう一段高いレベルで成長を続けているのである。彼が放つ作品群には、もはや嘆息し、堪能するしかない。
超越
本書は、池井戸潤の原点ともいうべき銀行員を主人公とした短篇を集めた一冊である。銀行で得た金融業界の知識を活かしてはいるが、それだけに依存した作品ではない。
元銀行員という経歴と、銀行を舞台にしたミステリであるデビュー作『果つる底なき』の内容から、池井戸潤には当初“金融ミステリの書き手”、なるレッテルが貼られていた。なんともステレオタイプなレッテルだが、デビュー当時の著者の一面を切り取るには、使いやすい言葉であったこともたしかだ。
実際に池井戸潤は“金融ミステリ”と呼ぶのに相応しい上質な作品を放っている(後に『架空通貨』と改題する二〇〇〇年の『M1』などがまさにそれだ)。池井戸潤は、その後、様々な作品を書き続けることで、自身が“金融ミステリ”というレッテルで括られない作家であることを証明してきた。
そしてこの『かばん屋の相続』である。六篇の主人公全員が銀行員という、まさに“金融ミステリ”のレッテルが似合いそうなフォーマットを使いつつも、一読すればその枠に封じ込めることが明らかに不可能な作品群である。逆説的な言い方になるが、“金融ミステリ”の枠組みを活かして、自分がその枠組みを超越したことを示した作品集なのである。
しかもだ。何より重要なのは、そうした池井戸潤の過去を知らない読者にとって、本書が独立した作品集として、素直に、そして十二分に愉しめる一冊に仕上がっていることである。極めて自然体であり力みがない。にもかかわらず引き込まれるし満足できる。
池井戸潤は、もはやこんな領域にまで到達しているのである。
2011年4月
(むらかみ・たかし 書評家)
かばん屋の相続
発売日:2014年08月01日
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