町工場を営む筒井宣政の二女・佳美は、心臓の疾患を持って生まれ、9歳の時に、「余命10年」と宣告されてしまう。心臓に疾患を持つ娘の命を救うため、宣政と妻の陽子は「人工心臓の開発」という無謀な挑戦に踏み切った――。
絶対にあきらめない家族の〈愛の物語〉、として話題になっている『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」23年間の記録』(文春文庫)。今作を原作とした映画「ディア・ファミリー」が、6月14日に全国で公開される。
著者の清武英利が、奇跡の実話の舞台裏を綴った。
医療とは無縁の素人が、人工心臓の研究開発に挑む!
本書は、娘のために人工心臓作りに挑んだ町工場家族の実話である。
本のあとがきにも記したが、私はこの話を二〇〇一年七月に知った。記者として恥ずかしいことだが、刊行までに二十三年もかかったことになる。
当時の私は読売新聞中部本社(現・中部支社)の社会部長を務める一方で、一念発起して『幸せの新聞』を週に一度作っていた。
<この新聞に悲しいニュースは一行もありません>
とうたって、中部読売発行の新聞の第三社会面に、挫折から再起する人々の物語や胸に残る人生転機の手紙、心に響いた言葉などを紹介し始めていたのだった。『幸せの新聞』の題字の通りに、幸せのニュースで新聞の丸々一ページを埋める試みで、私自身が編集長を兼ねて連載の筆を執り、編集作業にあたっていた。
創刊から三か月、「あしたがある」という連載用に、その原稿は提稿されてきた。
名古屋でビニール樹脂を加工する小さな町工場を営む筒井宣政さんが、先天的な心臓の難病を抱えた二女のために、未知の世界に挑んだ二十三年間の物語である。
執筆したのは山下昌一という若い記者で、四百字詰め原稿用紙にして三枚に満たない新聞記事だった。
そこには、筒井さんが先代の残した膨大な借金に苦しんでいたこと、二女の佳美さんが「長くは生きられない」と告げられていたこと、それで、医療とは無縁の素人なのに、無謀にも人工心臓の研究開発に挑戦したこと、そして、ついに日本初のカテーテルの完成にたどり着いたこと――がコンパクトに記されていた。
――こんなことが本当にあるのか。
他人の非や過ちを暴いてきたものの免罪符として。
私は新聞の社会面に溢れるほどの死と不幸と異変のニュースを書き続け、部下には無理を強いてきた。五十歳を超えた、擦れっ枯らしの記者だった。それが刷り上がったゲラを社会部長席で読んでいるうちに目頭が熱くなり、しばらく身動きができなかった。
最後の十四行には、こう記されていた。
<念願の製品ができた一年後、佳美が二十三歳になった時、体調を崩した。一か八かの手術も不調に終わった。最後の夜、佳美の大好きなクリスマスの賛美歌を歌いながら、心電図の波が消えるまで見送った。
「あの子は自分が助からなくても、救われる人がたくさんいることを喜んでいるだろう」。筒井はそう信じて、今も製品の改良を重ねている>
子供のためなら親はここまで悲運や困難に抗うものなのか。そして、人間はどこまで可能性を秘めているのか。
『幸せの新聞』を創刊したころ、日本の失業率は過去最悪に向かっていた。私は「試練を前向きにとらえ、明るく生き抜く知恵が新聞に求められている」と編集局長や部下には説明していたが、心の片隅では、切った張ったの社会部記者では終わりたくない、大げさに言えば、記者として他人の非や過ち、澱みのようなものを一方的に切ってきた過去に対する免罪符を得たいと思っていたのだ。
多くのジャーナリストが書き残そうとした「奇跡の物語」
そして、この物語に出会って、なぜか救われた気持ちになった。こんな物語を発掘するために、自分は生きているのかもしれないとも思えたのだ。
しかし、この物語を残し伝えたい、と思いながら、当時は本や映画に仕立てたりすることなどできなかった。裏付けのためには出張を繰り返し、医療界にもずんずん踏み込んでいかなければならない。中部社会部長として事件を追い、たくさんの新聞連載を抱え、『幸せの新聞』を続ける私に、その時間はなかったのである。
それに、この話があまりに純粋過ぎて、踏み込めない何かを抱えているような気もした。何よりも夭折した佳美さんの短い青春と人間像に迫ることができなかった。その間に筒井さん家族の物語は、テレビドラマや番組などにも取り上げられたが、やはり私の疑問に答えてくれるものはなかった。
筒井さんが佳美さんの結婚をめぐる逸話を漏らしたのが二〇二一年である。人工心臓の開発に苦闘した痕跡を求めて、一緒に東京大学や東京女子医大付属病院を回っていたときだった。立ち寄った蕎麦屋で、彼は思い出を噛み締めるように話し始めた。
ああ、そのときがようやく巡ってきた、と私は思った。
この間に山下記者は新聞社を辞め、いまは在日オーストラリア大使館の文化広報担当として働いている。彼を始め、たくさんの人々がこの奇跡的な話を書き残そうと試みたらしい。
『アトムの心臓』の出版や映画「ディア・ファミリー」の完成をフェイスブックで報告したところ、元NHKプロデューサーの福田忠司さんからメッセージをいただいた。かつて人工心臓を取材した折に、筒井夫妻の話を知り、世に出すべきだと思ったが叶わなかったという。メッセージの末尾にはこうあった。
<今回のこと、私が言うのも変ですが、言わせて下さい。本当にありがとうございました>
それで気付いたのだ。
そうか、私は山下記者や福田プロデューサーからバトンを受け継いだ、最後のランナーだったのか、と。
INFORMATION
本書を原作とする映画『ディア・ファミリー』が6月14日(金)に公開されます。
主演:大泉洋/監督:月川翔/配給:東宝
映画公式サイト:https://dear-family.toho.co.jp/
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