- 2024.05.17
- 読書オンライン
舞台は「絶望しかない地獄」。高齢者ビジネスの闇を描いた社会派ミステリーの背景にあるもの
中村 淳彦
『マンモスの抜け殻』(相場英雄)
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
二〇〇八年~二〇一五年、筆者は小さな介護施設を3店舗経営していた。二〇〇〇年代後半に連載していた月刊誌が次々と廃刊となるだけでなく、出版社そのものが倒産や廃業、M&Aが繰り返され、数年後の未来がとても想像ができないと文筆業を廃業した。なんとか安定した仕事に就いて家庭を支えなければならない――父親、世帯主としての焦りが筆者を間違った道に進ませてしまった。
ライターを廃業した筆者が介護事業を選んだのは、二〇〇〇年四月に「高齢者を家庭ではなく、社会で支える」という号令の下で介護保険制度が始まり、圧倒的な需要が見込まれていた産業だったからだ。介護や福祉のことをなにも知らない素人でも、自分自身が相当な覚悟をして時間と手足を使えば、なんとかサービス提供ができるのではないかという目論見があった。実際に初月からある程度の売上は確保し、なんとか事業はまわった。しかし、筆者が経験した介護の世界は、当初はまったく想像していなかった「絶望しかない地獄」だったのだ。
壮絶なブラック労働が業界では日常だった。
当時を思い出すだけで、今でも吐き気を催すほどのダメージを受けた。一言で説明すると、介護保険制度以降の介護は「いらない底辺の人間を一か所に集めて隔離する」国策だった。蓋を開ければ、高齢者を支える人々はまともではなく、用無しとなった失業者、異常者、貧乏人、成功体験がなにもない無能者、人生で一切女性に相手にされなかった中年童貞みたいな人々の最後のセーフティネットになっていた。要介護高齢者の下の世話、認知症高齢者に手間がかかることは十分に承知していたが、介護職を筆頭とする介護関係者の貧困、妬み、嫉妬、イジメ、マウント、非常識の蔓延が今でも吐き気を催してしまう理由だ。
国は一九八〇年代後半にゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年戦略)を掲げ、旧ヘルパー2級(介護初任者研修)、介護福祉士、居宅介護支援員(ケアマネ)など、各種資格を取り揃えて専門学校や大学を資格養成所に変更させた。健全な資格階級社会を目指して、万全の準備をして介護保険制度を発進させた。しかし、要介護高齢者の急激な増加に人手や体制は追いつかず、誰も彼も入職させたことによって、「いらない人間を一か所に集めて隔離する」産業に成り果ててしまったのだ。
本書『マンモスの抜け殻』で大きなキーワードとなった介護保険の不正請求や、精神疾患養成ともいえる三十六時間勤務などの壮絶なブラック労働が業界では日常だったこと、三百六十五日休みなしの職員たちの愚痴と悪口、動物園の猿のような中年童貞同士の喧嘩、身体的虐待、精神的虐待、認知症高齢者への性的虐待、不倫、ストーカー、夜逃げ、使用済み下着の販売、覚せい剤蔓延と直接見てきたことは枚挙に暇がなく、先日には加害者も被害者もよく知る介護関係者同士が殺し合う殺人事件まで起こった。知人の写真と名前が繰り返される報道をため息つきながら眺め続けた。
異常な介護業界に限界を感じて二〇一二年にライターに出戻り、二〇一五年には会社は清算して施設は潰した。それから介護の産業の現実や危機を記事や書籍で訴えたが、それほど時間が経たないうちに川崎老人ホーム殺人事件(二〇一四年)、相模原障害者施設殺傷事件(二〇一六年)が起こった。国を挙げて新しく創設した社会保障は大失敗したのだ。失政で許されない規模である。国や都道府県は現実を隠蔽しながら関係者に前向きなポエムを叫ばせたり、小学校や中学校でなにも知らない子どもを集めて「素晴らしい仕事」と洗脳したり、新聞社やテレビ局に要請してスケープゴートを定めて職員や事業者を吊るしあげたり、徹底した高齢者優遇で現役世代の屍(しかばね)を積み上げながら、絶望的な介護保険制度を継続していくしかないのだ。
隠ぺいされた介護業界の現実を伝えた。
「これから介護の世界を舞台にエンタメ小説を書くのです。中村さんの知っている介護の世界を教えて欲しい」
編集者が用意してくれた中華料理店で相場英雄さんと会ったとき、筆者はそう言われた。舞台は実際に新宿区にある限界集落となっている巨大団地群だという。介護業界の現実は基本的に隠蔽されている。筆者の役割だと、相場さんに知る限りのことを伝えた。
本書は都心の限界集落で殺人事件が起こり、捜査によって超高齢社会や介護産業の実態が描かれていく。相場英雄さんの筆致によって描かれた超高齢社会の現在、そしてテクノロジーによる問題解決の芽を見せる未来予想図は暗くはない。しかし、二〇二五年~二〇四〇年の日本の超高齢社会のピークに、有効な介護ロボット開発は間に合わない。現実的には解決策はなく、筆者個人はこれからさらなる悪化の一途をたどるだろうと予想している。
介護保険制度によって民間が参入するようになった。競争によってサービスの質を上昇させる建前だが、実態は徹底的な利益優先、さらに介護保険の不正請求は常識である。不正請求は詐欺を意識的にやる事業者もあれば、どうしても書類整備が追いつかなくて結果として不正請求となるケースもある。
介護業界に希望はあるのか。
介護の仕事がブラック、過酷と言われる大きな理由に「保険請求のための書類整備」がある。介護職や介護事業者はサービス提供時間内の行動もすべてを書類化することを求められ、深刻な人手不足のなかで書類に要する時間が全労働時間の3割程度と異常なことになっている。さすがに多少の改善はされているかもしれないが、筆者がかかわった二〇一五年まではメールすら使用することはなく、ひたすら手書きでファックスで送信していた。自治体の介護保険課による事業者への実地指導、監査という書類チェックがあり、本書で描かれる実際と保険請求のためのシフト表が二重にあるのは常識だ。さらに介護職は慢性的な人手不足、介護保険事業者も条件さえ揃えれば、簡単に保険事業者として認可される。入口が広いので反社を含めたあらゆる悪質な人材や事業者が紛れるのは当然で、筆者は実際に介護現場の覚せい剤蔓延を目撃している。
本書はそんな介護業界のそのままのリアルが描かれた。ラストの最新テクノロジーによる問題解決を匂わせる希望は、相場さんの母国への期待と優しさだろう。
提携メディア