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李琴峰が誰からも奪われない/奪わない言葉で紡いだ、唯一無二の小説

李琴峰が誰からも奪われない/奪わない言葉で紡いだ、唯一無二の小説

文:倉本 さおり (書評家)

『彼岸花が咲く島』(李 琴峰)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『彼岸花が咲く島』(李 琴峰)

 日本で生まれ、日本で育ち、日本国籍を持っている。

 そういう人びとの多くにとって、たとえば日本語とは空気のようなものだろう。当たり前のようにそこにあって、当たり前のようにその中で呼吸をしている。息が吸えなくなるなんて想像もしていない。

 それはしらずしらずのうちに考える機会を放棄しているということでもある。

 李琴峰の小説を読むといつも目の覚めるような思いがするのは、多言語を生きる彼女のまなざしによって鋭く鮮やかに研ぎ澄まされた日本語が、つねに問いを突きつけてくるからだろう。そうやって言葉本来が擁する力を呼び覚ましてくれるのだ。

 

 本作の幕あけの会話は、居心地のわるい、収まりのつかない不穏な気配に満ちている。

 美しくも禍々しい彼岸花が一面に咲き乱れる砂浜に、白いワンピースを着た傷だらけの少女が漂着する。どうやら記憶を失っているらしい。「ここ、どこ?」「なんでわたしはここにいるの?」。恐怖に駆られて質問を繰り返す少女に、格子柄の着物を着た地元の娘・游娜が勢いよく答える。「ここは〈島〉ヤー!」「リー、海の向こうより来したダー!」――微妙に通じ合わない言語の応酬に、少女といっしょに私たち読者も頭を抱えることになる。

 それでも、もどかしい読書はそう長くは続かないから安心してほしい。〈島〉には游娜たち島民がふだん使っている〈ニホン語〉以外にも、女たちだけに習得が許された特別な言葉である〈女語〉が存在するらしく、ほどなくして少女は游娜とおおまかな意思疎通ができるようになる。なぜなら、少女の話す〈ひのもとことば〉と島の〈女語〉はかなり似ていることが――それどころか文法的にほぼ同じであることがわかってくるからだ。

 彼岸花の群生にはじまり、ガジュマルや蒲葵、命そのもののエネルギーを内側から押し出すように鬱蒼と生い茂る亜熱帯の植物たち。牛や豚、山羊や馬が飼育されている牧場に、米、芋、砂糖黍が植えられる田んぼ。であいがしらの混乱を乗り越え、読者のピントがすこしずつこの物語に合うようになる過程で輪郭を濃やかに際立たせていくのは、〈島〉の生態の豊穣なありようだ。台湾と日本の間にある島――与那国島をモデルに描かれたという作中の舞台は、生きるということの営みが精緻に彩られ、細部にわたって根を張り巡らせている。そこにあるのは記号的な「楽園」ではない。だからこそ〈島〉独自の風習やルールの存在がなまなましくたちあがってくる。

 砂浜で再び倒れたあと、游娜が住む家で意識を取り戻した少女は、宇実という名を与えられることになる。元気いっぱいで天真爛漫、周りにいる人を自然と笑顔にさせる游娜。游娜の幼馴染で飯団(おにぎり)づくりの名人、男子でありながらこっそり〈女語〉の練習をしている拓慈。歳の近い二人の友人の助けを借りつつ、宇実はすこしずつ〈島〉での生活に適応していく。周囲にいる大人の島民たちはそれぞれに忙しく立ち働いているが、どこか余裕があって、みな親切だ。ところが〈島〉の最高指導者たる〈大ノロ〉は「外の人間」である宇実を厳しく突き放す。「出ていきたくないんなら」「春までに〈島〉の言葉を身につけなさい。そして〈島〉の歴史を背負って、ずっと〈島〉で生きていきなさい」。かくして宇実はとまどいながらも懸命に言葉の習練に勤しむことになる。

〈うつくしいひのもとことばをとりもどすためのおきて〉〈うつくしいひのもとぐにをとりもどすためのポジティブ・アクション〉(20p)――勘の良い読者なら、作中でちらつく謎の正体が私たちの住むこの国(・・・)の行く末をラディカルに転写したものであることにすぐ気づくだろう。その背後には歪んだ排外思想と空虚な伝統主義、そしてなにより為政者側の欺瞞がグロテスクに蠢いている。

 一方、〈島〉で生まれた子供たちは、血縁とは無関係に〈オヤ〉と呼ばれる大人たちに養育され、成人したあかつきには本人の希望に基づき、独立後に住む家を無償であてがわれるという。その際、誰かと共に暮らすのも、ひとりで暮らすことを選ぶのも本人の自由だ。恋愛が性別に縛られることもないし、女性が出産に縛られることもない。游娜たちが生きる〈島〉の社会のおおらかなありようは、家父長制に囚われて疲弊しきった現実の日本の社会システムの綻びを逆説的に照らし出していく。

 冒頭に据えられた一文は実に象徴的だ。

 砂浜に倒れている少女は、炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでもあった。(9p)

 燃え盛るように赤くゆらめく彼岸花の群れのなかで倒れている少女の姿。この物語の語り手は、彼女が「炙られている」ようにも「守られている」ようにも映ると形容する。真逆の意味のようでいて、両者は実のところとても近い。いずれも象られるのは受動的で従属的な姿であり、行為の主体を担う立場からはあらかじめ弾き出されている。

 そんな弱々しく無力な存在として物語に登場した「少女」こと宇実が、游娜をはじめ〈島〉の人びとと寝食を共にし、働き、祭事に参加し、笑いかわすようになるうちに変容していく。その過程において重要な役割を果たすのが「言葉の習得」というモチーフだ。大ノロが宇実に対してことさら厳しい態度を向けていた理由。それはのちに大ノロ自身の口から、ある重大な秘密と共に明かされることになるのだが、読者の視点からすれば別の解釈も可能だろう。〈島〉に辿りついてしばらくの間、〈ひのもとことば〉でしか話すことのできない宇実は、ここでの日用語である〈ニホン語〉で交わされる会話に参加することができず、游娜や拓慈らが〈女語〉に切り替えてくれるのを待つ場面が多い。だが大ノロとの面談を機に、〈女語〉に加えて〈ニホン語〉も覚えて積極的に用いるようになった宇実は、〈島〉で起こる出来事に対して能動的に関わっていくようになるのだ。

 自らで考え、行動し、社会に参加する。言葉はそれらすべての営みの根にあたる。

 いうなれば人と人が暮らすこの世界において、言葉とはそのまま力となり得るのだ。

 言葉を学び、〈島〉の歴史を知った宇実は、畏れつつも自身が歴史を編む側に立つことを――すなわち自らが生きる世界を自らで担うことを選択する。その姿には「言葉」ないし「言語」というものに対する作家・李琴峰のゆるぎない愛と信頼が刻まれている。

 だが綺麗事ばかりが綴られているわけではけっしてない。誰よりも上手に〈女語〉を話すことができるのに、ただ「男」に生まれたというだけでその事実を隠さねばならず、ノロになるための試験を受ける機会も与えられない拓慈は〈島〉の暗部を示唆する存在だろう。なぜノロには女しかなれないのか。なぜ歴史を受け継ぐための言葉である〈女語〉を男が学んではいけないのか。背後には〈島〉の血塗られた経緯があり、まさしくわたしたちが手を染めてきた/見過ごしてきた権力と暴力の轍がある。とはいえ男か女かの二元論に囚われているかぎり天秤が逆の方向に傾くだけで、本当の意味で自由ではいられないことは游娜も宇実もわかっている。わかっているからこそ、この小説は最後まで言葉で問いをまなざし、考えることを促し続ける。

 李琴峰は台湾出身。十五歳のときに独学で日本語を学びはじめ、大学と大学院で日本文学や日本語教育学を専攻し、二〇一三年より日本で暮らしている。二〇一七年に「独舞」(のち「独り舞」に改題、二〇一八年、講談社、のち光文社文庫)で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家としてデビューしたのちは、二〇一九年に「五つ数えれば三日月が」(同、文藝春秋)で初めて芥川賞の最終候補に挙がり、二回目のノミネートとなった本作「彼岸花が咲く島」(二〇二一年、文藝春秋)で二〇二一年七月に石沢麻依「貝に続く場所にて」と共に受賞を果たした。ちなみに同年には『ポラリスが降り注ぐ夜』(二〇二〇年、筑摩書房、のちちくま文庫)で芸術選奨新人賞も受賞している。

 こんなふうに羅列してみると、いかにも作家として順調なキャリアを積んでいるという印象だが、むしろここで強調しておきたいのは独学で日本語を学びはじめたという点――李自身の言葉を借りれば「自らの意志で日本語を学び」「自らの意志で日本に移り住んだ」という点のほうだ。

 台湾の地方出身者であり、女性であり、性的少数者であり、在日外国人。マイノリティの属性を示す複数の記号を外部から否応なしに押しつけられてきた李は、「生きているだけで常に様々な隔たりを感じている」とエッセイ集のあとがきのなかで語っている。李にとっては、そうした「隔たり」に穴をあけてくれる可能性を湛えているものが言葉であり言語なのだ。

 国籍というのは閉じられたもので、所定の条件を満たし、所定の手続きを踏まえ、所定の審査を通して初めて手に入るもの。新しい国籍を取得するためには古い国籍を放棄する必要がある場合もある。しかし「語籍」は開かれたもので、誰でもいつでも手に入れていいし、その気になれば二重、三重語籍を保持することもできる。国籍を取得するためには電話帳並みの申請書類が必要だけれど、語籍を手に入れるためには、言葉への愛と筆一本で事足りる。国籍は国がなくなれば消滅するけれど、語籍は病による忘却か、死が訪れるその日まで、誰からも奪われることはないのだ。

(「日本語籍を取得した日」早川書房『透明な膜を隔てながら』所収)

 誰でもいつでも手に入れていいし、誰からも奪われることはない――「語籍」とは言い得て妙だ。「日本語文学」の担い手として、多言語を生きるひとりの人間として、李のありようを実に的確に示している。してみれば本作における〈ニホン語〉という言語自体が、李の考える「楽園」の体現だとみることもできるだろう。ひらがな、カタカナと漢語、おそらくは日本語中国語台湾語しまくとぅば(島言葉)の要素が混ざり合ったその言語に最初こそ面食らった読者も、本を閉じるころにはすっかり親しみを覚えているはずだ。その豊かで煩雑な過程こそが「他者を受容する」ということでもある。

 デビュー作「独舞」では「死」という言葉を生のエネルギーに見事に昇華してみせた。『ポラリスが降り注ぐ夜』では日本の小説のなかで不可視化されてきたクィアの女性たちの群像を緻密に描き出し、新疆ウイグル問題に果敢に切り込んだ「星月夜」(二〇二〇年、集英社、のち集英社文庫)では、ともすれば塗りつぶされてしまう声を繊細に誠実にすくいあげた。ついでにいっておくと、本作のなかに〈女語〉のテキストとして登場する文章は李の「五つ数えれば三日月が」の一節だ。

 李琴峰は誰からも奪われない/奪わない言葉で小説を紡いでいる。

文春文庫
彼岸花が咲く島
李琴峰

定価:792円(税込)発売日:2024年07月09日

電子書籍
彼岸花が咲く島
李琴峰

発売日:2024年07月09日

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