なぜかというに、地理学者に興味のあるのは、大都会のあいだを貫いて流れるエーブル河だけであって、モトリルの西郊、草むらに隠れて、わずかに三十ほどの花を養っているにすぎない、あの小川では、けっしてないのだから。〈この小川には注意したまえよ。おかげで、せっかくのあの原っぱが、不時着の役には立たないのだから……。これも、きみの地図に記入しておきたまえ〉そうだ! モトリルのあの小蛇のことを、ぼくは一生忘れないだろう!
(『人間の土地』サン=テグジュペリ 堀口大學訳 新潮文庫)
『最終飛行』を読みながら、私は彼のこの文章のことを幾度も考えた。
物語は、飛行機――翼長十八メートル、機体長十二メートル、フランスの双発の偵察機ブロックMB一七四――が、空から地へ向けて着陸するところからはじまる。
時は、一九四〇年。フランスの地が、ドイツ軍に占領されつつある。
飛行機の狭い操縦席に窮屈に座し、口から酸素マスクを外すのは、身長百九十センチを超え、じき四十を迎える、巨体の主人公、アントワーヌ・ドゥ・サン・テグジュペリ。
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私が、サン・テグジュペリの名前を知ったのはいつだっただろう。
彼の本、『星の王子さま』はあまりにも有名である。
もはや思い出せないほど子どもの頃、あたりまえのように私はその本を読んだし、一九七四年に作られたスタンリー・ドーネン監督の映画も観たと思う。大人になってからは、「箱根★サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」へも出かけていった。
本当に大切なものは目に見えないんだよ、というメッセージは、あまりにも真実だし、ゆらゆらとした筆致で描かれた羊やバオバブの木の絵は可愛らしい。
私は、この名作本はきっとだれの心をも摑むのだろう、と疑わなかった。しかし、ただ一度だけ、「私、『星の王子さま』って大嫌い!」と言い放った女友達がいて、私はとても驚いたことを覚えている。
そして、動揺した。
実のところ、私もまた、心のどこかで、『星の王子さま』に、言葉にならないわだかまりを覚えていたから。
とはいえ、私はその気持ちが、自分自身でも一体何なのかがわからなかった。
それに、わざわざ『星の王子さま』を嫌いだと口にするなんて。まるで禁忌に触れたかのようだった。それを否定すると、まるで、私が心無い人であることを露呈しているかのようでさえあった。
その時、果たして私がどんな返事をしたのかも、もう思い出せない。彼女がなぜその物語を好きではないのかも、聞きそびれてしまった。
しかしそれから十年ほどを経て、佐藤賢一氏の『最終飛行』を読み、私は目を見開かされる思いだった。
それは、彼女が怒りすら込めて『星の王子さま』が大嫌い、と口にした気持ちを重ねてなぞり、私自身の心にわだかまっていたものひとつひとつを解きほぐすような、鮮烈な体験でもあったから。
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佐藤賢一氏の愛読者の方々に、あえて私が述べるまでもないだろうが、彼の筆を通すと、それがどんな人間であれ、私は目を離せなくなる。
シャルル・ドゥ・ゴール(この本にも登場する)にしても、ナポレオンにしても、あるいは、フランソワ・ベトゥーラスにしても。私はページを繰るうちに、否が応でもそこに惹きつけられてしまう。
好きとか嫌いとか、そんな話ではない。人間というものの複雑さに、傲慢さに、不完全さに、どうにも私は心を鷲摑みにされてしまうのだ。
この度の、サン・テグジュペリもまたしかり。
「恐ろしく美しい」「信じがたく可愛らしい」妻のコンスエロへの態度たるや、もう私は読みながらじりじりする。
彼は彼女にあれこれ指図し、彼女を彼が決めた場所に留まらせ、会いに行くからと約束をしておきながら、やっぱり別の女のところへ飛んでゆく。
いや、妻だけでない。まわりの人たち全てに対するその態度に、じりじりを通り越し、私ははらはらさえする。
ひとたび議論をはじめれば「完全に論破してしまわないと気が済まない」。
昼夜逆転、真夜中に大声でディクタフォンに向かって喋りながら原稿をしあげ、できあがった原稿は相手の都合などおかまいなしにすぐさま読んでもらいたがる。
私は、繰り返し、かつての女友達と声を重ねるようにして、「大嫌い!」と、心の中で叫び続けてしまう。
しかし、どうしたわけか、なぜか、どうにも、憎めないのだ。
愛人のネリーは、言う。
(ちなみに、彼女は、戦中はるばるロンドンからアルジェまで訪ねてきたにもかかわらず、到着するなり、歓迎されるより先に作品を読めと強要され、疲れたから読むのを休みたいといえば、作品がつまらないのか、と詰めよられる!)
「あなた、相変わらずの王子さまだから」
彼女は彼をそう評す。
「ええ、王子なの。素敵なくらいに我儘なの。高い理想を求めてしまうのも、そのためね。うまく受け入れてもらえなくて、そのたび傷ついてしまうのも同じこと」
彼は、この社会の正しさに、囚われない。囚われないでいたくて、あがく。あがき続ける。
あたかも、飛行機で空へ舞い上がれば、そこから逃れられるかのようにして。
実際、空から俯瞰し、地に見えるのは、国境ではない。
ドイツ軍を偵察しながらフランスを飛んでいるうちに、気づけばイタリアへ到達していたように、そこにあるのは、山であり、海であり、街の光なのだから。
しかしこの地では、社会の正しさを主張し合う戦争が起きていて、彼はそこへ引きずり込まれてゆく。
だから、飛びたい。飛ぼうとして、あがく。
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私は、彼の、素敵なくらいな我儘さと、まっすぐなあがきに、羨望を覚える。それと同時に、まわりの人たちを慮っては、結局、王子さまみたいには振る舞うことのできない、私自身の平凡さと不甲斐なさにも苛まれる。私の中にあるわだかまった感情は、そうして、ひとつ、また、ひとつと、ときほぐされてゆく。
その背後には、フランスやアメリカ、アルジェリアの街々、アンドレ・ジッド、ジャン・ルノワールをはじめ、作家や映画監督、飛行機乗りや、恋人たち、登場人物のひとりひとりが、うねるような歴史が、仔細にちりばめられる。
その描写の丹念さは、あたかも地図に、小川を書き込んでゆくこと、その小蛇のことを、忘れずにいる、ということを目のあたりにするようでもあった。
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。
(『人間の土地』サン=テグジュペリ 堀口大學訳 新潮文庫)
この本を読み終えたいま、素敵なくらいに我儘でありたいと、空を、高みを目指し、不器用にあがく彼の姿は、私の目には、どこまでも高貴に、この地を照らし光かがやいて見える。