2021年10月26日、那覇の自宅で亡くなっているのが発見された作家・樋口有介さん。
『ぼくと、ぼくらの夏』で1988年にサントリーミステリー大賞読者賞を受賞してのデビュー以来、その少し斜にかまえた、でも奥底に清々しい含羞のある作風で、読者から愛され続けた。
没後3年となる今秋、青春ハードボイルド作家としての代表作となった長篇『枯葉色グッドバイ』(文春文庫)が、人気イラストレーター・げみ氏の描きおろしカバー画で、あらたにお目見えする。それを記念して、2003年の単行本刊行時の新刊著者インタビューを公開!
―― 一家惨殺事件の生き残りの美少女、事件を追う警視庁準キャリアの女刑事。 そしてこの二人からそれぞれ頼りにされる元捜査一課の敏腕刑事……ただし現在は代々木公園のホームレス。新刊『枯葉色グッドバイ』は、主人公三人の個性が際立つ作品となった。
樋口 ホームレスのことは前から気にはなっていたんです。 二年前まで代々木に住んでいたから、 公園でよく見かけて、すごい一等地に住んでるな、と思ったりしてました。
ところがその内こちらのほうも、妙に懐が寂しくなりまして(笑)。本は年に一冊半のスローペースだし、思うように売れないし。もともと格好も気を使わない、カネのかかるほうじゃないんだけど、やっぱり飲み代が大きくてね。新宿に歩いていけるのがいけなかった。飲み屋のツケはたまるわ家賃は高いわで、カネのやりくりで落ち着いて小説なんか書けたもんじゃない。
そこで一度清算して、環境を整えて出直そうと思ったんです。山の中の空き別荘を探しに入った不動産屋で紹介されたのが現在の家です。 家賃ですか。 五分の一になりましたよ!
――引越し先は隣県の私鉄沿線。駅からは遠いが静かで小さな庭もついた平屋で、訪れる客からは、懐かしさと居心地のよさを感じさせると好評である。
樋口 今だからまだ見られるんです。 最初に見に来たときなんかひどかったもん。古い上に何年も空き家で、とんでもないあばら家でしたよ。
それで、「あ、ここまで落ちたか」と思ってね。ホームレスと同じだな、という心境になった。実際あそこまでやる必要はないというだけで、ほんとのところ、心情的にはずっと近いところにいるんだ、と感じた。だったらホームレスを主人公に小説を書いてみよう。それがきっかけです。
ですから主人公のひとり、椎葉というホームレスが元刑事だったという設定も、特別奇をてらったつもりはないんです。探偵として事件を解明していく素地をもたせるためには、元会社員よりは説得力あるでしょう。それだけのことです。
――椎葉は警察学校の教官も務めた優秀な刑事だったが、数年前に職を辞し、離婚してテント生活を送っている。刑事の夕子は憧れの教官だった椎葉と偶然再会、行き詰まった捜査を打開すべく、日当二千円で「ホームレス探偵」椎葉を雇う。仕事への情熱は一直線だが、煮詰まって空回りすることもしばしば。やることが不器用で、甘えるのが苦手。 夕子は今までの樋口作品にはない新しいタイプのヒロインといえる。
樋口 そもそも、女性が主人公の小説というのが珍しいんですよ。理由は私の文体です。デビュー以来十年以上、ほとんど一人称で書いてきたんです。一人称の、あのぶつぶつゴタクを並べるような感じが好きで、こだわってもきたんだけど、そうするとどうしても主人公はひとりで、男の視点になってしまう。その上、一人称で書くというのは技術的に制約が多い。特にミステリーだと、主人公の目を通したことの中だけで事件を解決していくわけですから、その縛りのきつさは並大抵じゃないんです。
これじゃ世界が拡がらない、このままではやばい。そう思っていたところ、前々作の『魔女』の時、当時の担当編集者が非常に熱心にアドバイスをしてくれて、思い切って変えたんです。ずっとこだわってきた文体を変えるのはしんどい作業でしたけれど、そのおかげで今回、複数の主人公や女主人公を書けたんだと思います。
――文体の転換は、樋口さん自身の動きも軽くした。著者のカメラは自由自在に作品世界を飛び回り、情景を切りとっていく。
樋口 こうすれば見せ場が作れるとか、このシーンは美しいなとか、距離をもって考えられるようになりました。何でも出せる、どうとでも動かせる。もう楽で楽で。書きたいように書けるのが嬉しくてね。作家のくせに今まで自由に書けなかったのかといわれると、できなかったんですよ、不器用なことに。おまけにカネの工面からも解放されたから気持ちもゆったりして、つい八百枚も書いちゃった(笑)。
――「おれがプライドを棄てたのは、プライドなんか棄てたほうがいいと判断したからだ。人間はプライドさえなければ、もっと簡単に、平和に生きられる」
本文中の椎葉の言葉だが、これは樋口さんの言葉でもあるようだ。
樋口 椎葉も最初はもっと屈折した男として書くつもりだったんです。それが、改稿作業の中で何を考えているんだろう、何がやりたいんだろうと、椎葉という人間を剥いでいくうちに、わからないや、という結論に達した(笑)。もしかしたら、そんなものもないんじゃないか、とも思った。椎葉は別に人生を投げ出して自棄になっているわけでもない、世をすねて呪っているわけでもない、ただし働きもしない。それだけなのかもしれないなって。
これでいいんだよ、と思いましてね。 現実に今の私も、これに近い心情があります。若いときは上昇志向の強い人間でしたけれど、歳もとって、今の家にひっこんで、カネの工面や人づきあいを削ぎ落としてみるとね、不思議な解放感をおぼえた――人生の基本は、静かに生きて静かに死ぬということ、と思うようになったんです。もちろん自分は仕事するし、もうちょっと盛り場が近いといいな、とかの欲も捨てられていないんだけど、堕落することと人生を諦めることは、似ているようでまったく別のことのような気がします。
――著者はホームレスとその暮らしを突き放すでもなく寄りそうわけでもなく、淡々と程よい距離をもって描いている。それでも読む側に、どこか一抹の羨ましさを感じさせるのはなぜだろう。 家族を惨殺された上に誰にも言えない深い悩みを持つ女子高生・美亜が、公園でホームレスたちの暮らしに触れ、「自分もホームレスになれるか」と椎葉に問うシーンがある。普通ならありえない話だが、読む側に不自然とは感じさせないのだ。
樋口 日本人の中には、漂泊する人たちへのほのかな憧れのようなものがあるんだと思いますね。デビュー前に、やっぱりカネがなくて秩父の廃村で暮らした時期があるんだけど、近くの年寄りの話聞くとね、瞽女さまとかが山越えて来たり、炭焼きとか、いろんな人が回ってきていたんだって。私が生まれて以降の話ですよ。私自身、もう四回くらい引越しをしているんですが、定住しない暮らしもひとつの人生のかたち、そういう価値観を受容するところが連綿とあるのではないかと思いますね。
――本作はミステリーとしても上質な仕上がりをみせている。骨太なプロット、大胆なトリック、そして細やかな情感。小説の面白さを満喫できる長篇小説となった。
樋口 今回いちばん気をつけたのはね、とにかく最後まで手を抜かないこと(笑)。そんなの当たり前だと思うでしょう。ところが読者からよく「最後があっさりしすぎ」と言われていたんです。それは犯人が分かったあとまでぐずぐず言うのは嫌だという私の好みゆえなのですが、まあそう受け取られていたのは確かなわけですから、とにかく今回は最後まで、読者が納得するまできっちり書き上げようと決めました。
――デビュー以来自らに課してきたストイックな手法を手放したことが、樋口さんに、この新たな変革を試みる心の余裕をもたらしたようである。
樋口 それも成功したと思うなあ。自分で言うのは恥ずかしいものがありますが、これはたぶんデビュー以来最高傑作じゃないかと思うんです。気持ち良く書いて、その気持ちが今も残っている。そういう作品は、読者の方も気持ち良く読んでくれるのではないかと思います。他の人の小説を読んでいても、「あ、気持ち良く書いているな」というのがわかる作品は、やっぱり傑作ですからね。
実はデビューしてから十年間は、いっさい小説を読まなかったんです。じーっと自分だけの視点でやってきたわけだから、ある意味すごいんだろうけど、やっぱり疲れるし無理がありますよね。その頃は一作書くとへとへとになって、何カ月か次の仕事に手がつかなかった。五年くらい前から読むようになったんですが、いちいち感心してます。ひとの小説は勉強になります。 今さら何なんだと呆れられそうですが(笑)。結局、ちゃんと作家らしく小説を書こうと思ったということなんですね。十五年目、二十四冊目にして。
――青春小説の旗手としてすでに多くの読者を得ている樋口さんから、まるで新人作家のような息づかいが伝わってくる。新たな道が目の前に開いた時の陶酔と興奮。
本書は新生・樋口有介の「第一作」といえるのかもしれない。
樋口 十六、七から作家になろうと思って、会社勤めもろくにしないで小説を書いてきました。最近は新人賞をとった人に出版社側がよく「お勤めは辞めないでください」って言うらしいけど、私は言われなかった、もともと無職だから(笑)。
昔、サントリーミステリー大賞の選考会の後で、どこかの新聞社の女性が「ご職業は何でしょうか」って訊くんですよ。「いや、職業はありません」と答えても、「新聞の記事としてそれじゃ困るんです」と懸命に食い下がるの。弱ったなあと思っていたらね。隣にいたイーデス・ハンソンさんが叱ってくれたんです。
「そんなことはどうでもええんや!」
今しみじみ、作家になれてよかったな、と思っています。
聞き手 「本の話」編集部
(初出:本の話2003年11月号)
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枯葉色グッドバイ
発売日:2008年11月20日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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