- 2024.10.26
- 読書オンライン
問う人の屈託──映画監督の西川美和さんが『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』を読む
西川 美和
問う人の葛藤──『監督』という呼称を冠する仕事はすべて、人に嫌われるものだと思う
まずはどうしても、落合博満という稀代の野球人について書かれたこのノンフィクションの解説を、グラウンドでの野球経験もなく、もちろん指導者としての経験も持たないど素人――しかも、いまだにインフィールド・フライのルールなどにも戸惑ってしまうレベルの観客の立場から書かせてもらうことの不適格さについて、読者に謝らなければならない。そのくらい落合博満という人の野球観はすべての野球人・野球ファンの大きな関心事だし、またあの監督在任の八年間の思惑の謎は、今も人々の脳裏に濃くかかった霧のようなものだからである。史上初の一億円プレーヤーにして、三冠王を三度取った「落合さん」を抜きに日本のプロ野球史は語れない。現役時代から、どうしてあの人だけがあれほど他の野球選手と違って見えたのか、そして監督としてはさらに不可解さを極めたのか――いや、この際言葉を濁さず「嫌われたのか」について、多くの人が憶測で語り続ける中(日本の全プロ野球ファンは、評論家であり番記者である)、その落合さんの生の言葉を捕らえ、当時の選手やスタッフの証言を毀誉こもごもに綴ったドキュメントは、野球というスポーツと哲学の最難関の奥義に触れる読み物であるはずだ。日頃から多くの記者をはべらせ、選手やスタッフとも垣根を作らぬ人ならばともかく、夫人以外の他者をいかにも寄せつけなさそうな、かのミステリアスな指揮官がタクシーや新幹線で隣に座らせて言葉を聞かせ、時に眠りに落ちる姿さえ見せた記者がいたとは。この本の内容は、門外漢よりも野球道に通じた識者によって改めて評論され、語られるべきだということは初めに断っておきたい。
しかし私はその記者の名前に覚えがあった。ああ、鈴木忠平さんなのか――。直に会ったことはなかったが、以前隔月で一ページほどのコラムを連載させてもらっていた「Sports Graphic Number」で、たびたびその名前を目にしていたからだ。鈴木さんの書く言葉は、あたかもその勝負の瞬間の空の色をアスリートの隣で見ていたり、あるいは試合後に一人残ったロッカールームでのつぶやきを盗み聴いていたかのように写実的で、いかにもNumberらしい物語性とケレン味に溢れていたが、瞠目したのは清原和博さんの『告白』のインタビュー記事だった。
読者は、薬物使用で逮捕され、スターダムから転落した「キヨハラ」という怪物の現在地を知りたくてそのインタビューのページを開くが、鈴木さんのルポルタージュには、書き手である「私」の震えや戸惑いが太く介在している。私たちの知っている、八重歯の笑顔のあどけなかったスーパースターとは別人と化した表情のない中年男性と、無機質な部屋に対峙する一人の人間の緊張がひしひしと伝わってくるのだった。やけに躊躇するのだな、と感じさえする。スポーツ記者とは、こんなにも慎重なものだろうか。
記者という人たちは、取材し、書くことを生業としている。彼らは書かなければ生活できないし、こと対象が芸能人やプロスポーツの選手であれば、あんただって書いてもらってなんぼだろ、という持ちつ持たれつの認識もあるだろう。だから、取材対象の私生活の領域にも踏み入り、機嫌をとり、挑発し、時に傷をえぐることにも迷いはないのがプロだとも思っていた。その一方で、相手の有名性にかこつけてところかまわず奇襲し、スキャンダルや敗北に我先にと群がる姿を見ると、何か人間の浅ましさの煮凝りのような気がして、目を背けたくなることもある。
マスコミ嫌いと言われたイチロー選手が、記者の言葉の揚げ足をとって、その不勉強や観察不足をあげつらう姿は、まるで無責任な観客の私自身の無知と半端な好奇心を咎められてもいるようでハラハラしたが、あれを「取材者との真剣勝負」や「愛情」と解釈するべきか、シンプルな「敵意」や「軽蔑」と捉えるべきだったか。意地が悪いようだが私はやはり後者の配分が多いのではないかと想像していた。常に問いかけられる側の人は、答えた言葉が人質に取られたように一方的に持ち去られ、時に文脈を無視したかたちで世間にばら撒かれ、意図せず第三者を貶めることになったり、自分という存在を測られたりしてしまう。なぜ質問者の思考のレベルに下げられなければならないんだ。俺を晒すつもりなら、お前も同じだけ晒されてみろ。そんな気持ちが、生まれてもおかしくはない。長年注目を浴びてきたトップアスリートが、メディアに対して退屈な決まり文句を繰り返すか、喧嘩腰になるか、あるいは無言のまま拒否するか、そんな傾向になっていくのを見ながら、無理もない、と思うことも多くなった。きっと彼らは、書かれてしまった自分自身の言葉に、幾度も傷ついてきたに違いないからだ。
けれど鈴木さんの「私」が対象に近づくプロセスには、「知る権利」などという言葉を安易に振りかざすのとは程遠い足取りの重さがある。落合邸のガレージに初めて立った時のあの長々とした煩悶。自分は伝書鳩だ、青二才だ、末席の記者だ、全てはあらかじめ決められている、これは自分の意思じゃない、競争やお追従笑いもしたくない。眠い、鞄が重い、でも記者として、行かねばならない。行きたくない――端正で硬質な筆致なのにもかかわらず、読んでいるうちに私の中には笑いさえ込み上げてきた。スポーツ新聞の担当記者といわれる人たちの中にも、こんなにも普通人らしい屈託やためらいがあるのか。その取材者としての恐れや足踏みのようなものがあるせいで、読者を対象に一足飛びには近づかせない。「そんなものじゃないだろ」と、記者自らが読者に対してバリケードを張っているようにも読める。この態度が、私には信じられた。
本書の冒頭に登場する鈴木さんは、まだ二十代後半の駆け出しだ。三十路前の若い記者の、このいびつなまでの屈折と諦観は、年代の近い私にはよく理解ができる。世の中の器はまだ全て戦後の昭和の形を引き継いでいた。その中で、物語もスターも経済成長もピークアウトしてひたすら下降を続ける最中に社会人生活が始まった。この先、自分たちが切り開けるものなんかあるのかね、というシニシズムを抱えながら、なぜかペンを握り、重たい鞄を持って現場に向かう。重たい鞄の中身が役に立つことなど実際にはほとんどない。前時代性と非効率の象徴のようなものだと知っているのに、その重みを手放すことができないのだ。
若い日の鈴木さんが、誰にも援護されず、評価もされず(多少の自虐もあるのだろうが)、沼の泥を掻くようにしながら名古屋と東京の行き来を繰り返す中で、落合監督との距離をジリジリと詰め、またその現場に立った選手やスタッフの重い口を開かせて「落合という人は何を見ているのか」を紐解いていく道程は、まるで天候不良の登山のような苦しさだ。いや、山を登っているのか、谷に下っていっているのかもよくわからない。けれどおそらく鈴木さんも、どこかで分かっていたのではないか。自分自身の抱く鬱屈や、社内や記者仲間のどこにも属せないような孤立感こそが、落合博満という天才だが決してエリートではない異端の人の胸を唯一こじ開ける杖であるということを。「お前、ひとりか?」といってタクシーに乗せる場面がある。おこがましいが、私にはそう声をかけた落合さんの気持ちはわかる気がする。自分自身に疑いも持っていないような人間に、幾千もの問いかけに心を削られてきた人が言葉を喋るものか、と思うからだ。
私は広島県の出身だが、落合さんがドラゴンズの監督在任期間中(2004~2011)の地元広島東洋カープはどん底の低迷期だった。東京に暮らしていても、周囲にカープの戦いぶりに注目する人などはおらず、このまま永久にAクラス入りすることなくカープはどこかへ身売りするか自分は死ぬのだろうとさえ思っていた。
一方落合ドラゴンズはそつがなく、ド派手なスター選手や強さの印象はないのに、寡黙に勝ちをもぎ取っていた。現役時代の落合さんといえば、他の人と歩調を合わさない独立自尊のリアリストでありながら、常にニタニタと緩んだ笑みを浮かべて、場の空気にも流されずあっけらかんとホームランを放つユニークな魅力に溢れた人と記憶していたが、監督になって以後、かつての鷹揚な笑みは、温度を失った冷笑に見えるようになった。人の喜ぶところや泣くところに反応しない達観的な表情と采配は、激情型の星野監督時代の記憶とのコントラストも相まって、お世辞にも愛されているようには見えなかった。天才として生まれついた人には、不出来な者の気持ちはわからないというが、腕組みをして気だるそうにベンチに体を預けたその姿を見ると、落合さんほど野球勘のない選手――つまりそこにいる全員が「お話にならない凡人」に見えているのではないかと思え、ビジター目線からでさえ薄寒さを感じていたものだ。あんな冷たい野球をしてまで勝ってもらわなくていい、と思うのは、万年Bクラスのチームのファンの負け惜しみかと捉えていたが、本書を読んで、まさかここまでとは、と幾度も唖然とした。
「嫌われた」という表現は誇張でも逆説的なものでもないようだった。ここで読める限りでは落合さんが選手の人格を尊重して言葉を尽くすようなことはほとんどなく、冷徹な決断や解雇、情報漏れの監視や無情な定点観測のさまが具体的に炙り出されていく。選手を、人間を、ただの駒と見ている、と言われても仕方がないだろう。
選手生命の瀬戸際に立たされた投手や、期待を寄せられつつもレギュラーを取れないままハングリー精神を見失っていた中堅野手、日本シリーズ初の完全試合達成目前で降板させられる投手、球界一といわれた鉄壁の二遊間をコンバートされる守備の名手たち。誰一人、指揮官の意図について説明されないまま、問答無用の采配に翻弄され、同時に中日ドラゴンズ球団史上もっとも負けないチームを形成していった。恐ろしく厳しく、また恐ろしく殺風景な勝利街道である。
絶対的なチームの功労者と言われていたサード・立浪選手の三遊間を抜けていく打球が年々増えている、という呟きを著者が捉えた時は、身ぶるいがした。指揮官とは、ここまで見えているものなのか、という驚きと、ここまで見えてしまう目を持って生まれた人の宿命に対して。本人の中にも、そんな目を持っているのは自分くらいだ、という確信もあったのだろう。だから、誰もが見過ごしている選手の潜在能力や練習量を見逃さず、人気や実績や人望のあるレギュラーを降ろしてでも、チャンスを与えた。落合さんこそが、誰よりもフェアだったとも言えるが、ファンと地域と選手との情の濃く絡みつく日本のプロ野球という村の中において、本当の意味でフェアになるのは極めて難しいことではないかとも思う。多くの人から愛されたり、華があったり、他者と濃い結束を作ることができるのもまた、望んでも叶わない天賦の才の一つだ。強い光を浴びる存在になっても、そこの輪から外れる人間に対してのフラットな眼差しがあったとも言える。愛されなくてもいいじゃないか。それがなくても生きていく術を研ぎ澄ませば、お前は存在できる――そんなものを人は、温情とか優しさとは呼ばないだろうが。結局「嫌われることを辞さない」というところに行きつかない限りは、自らの目に嘘をつくことに陥る。自らがもっとも大切にしてきた世界で、不誠実に生きるかどうかということだ。
「監督」という呼称を冠する仕事はすべて、人に嫌われるものだと思う。自らは手を下さず汗を流さず、座って注文や判断だけをして、誤れば敗北や凋落が待っている。指揮下の人々は、指令通りに動く。「代打」と言ったら代打であり、では誰がいいですかねと全員で話し合うことなどあり得ない。納得していようと理不尽に感じていようと、指揮官の描く絵をかたちにするために誰もが黙って駒になる。その代わり、俺たちの蓄積や信念や生活や誇りを差し出した分の責任は取るんだろうな。お前の描く絵に、それだけの価値はあるんだろうな。彼らの汗は常に鈍く光り、黙ってその問いを向けてくる。
鉄拳制裁と共に熱く抱きしめようが、データと分析と哲学で育成しようが、平身低頭で気を配りまくろうが、家族のように守り愛しぬこうが、監督と冠する人々の孤独は、絶対である。またその認識のない人間に、信は置けないだろう。
落合さんという人は、東北人の太い堪え性と強い美意識を持ってその孤独に耐え抜いた人だと思うが、決して情動のない人でもなかったのだろうとも読みながら端々に感じた。自らが授かった「神の目」が一体何を見ているか、その寒々とした残酷さも含めて、本当は誰かと分かち合いたい思いもあったのかもしれない。記者という存在は、アスリートにとってはしばしば仕事を妨害し、足元をすくう厄介な存在でもあるだろうが、ごくたまに、彼らがじっとそばで耳を傾けてくれることで、ゲームの中にも勝敗の中にも表すことのない、数字や評価とは無関係なため息のようなものが混じることはあると思う。ため息だったものがやがて問わず語りとなり、押し込めていた思いが哲学として語られることもあるし、あるいは、記事にする価値もない無様な愚痴や言い訳、誰からも言ってもらうことのない自画自賛が続くこともある。しかし記者という人種はそれに是もなく非もなく、ただ、黙って頷きつづけるだろう。そのことに、戦いに果てた者は救われている。必ずそういう瞬間がある。聞いてくれてありがとうとも言わず、むしろお前のために喋っているのだと言わんばかりに不遜に言葉を連ね、しかし密かに、なんとか自分が自分であって良いのだという思いに辿り着いている。記者は、多くの人を殺してもいるが、そうやって生かしてもいるのだろう。落合さんの八年間に、鈴木忠平さんが存在したことが、良かったと思った。
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