佐々木譲さんの最新刊『秋葉断層』(2024年11月25日発売)は、未解決事件を専門に捜査する〈特命捜査対策室〉シリーズ11年ぶりの新作です。舞台は東京・秋葉原。電気街に根を下ろす一族経営の電器店の常務が亡くなった27年前の轢き逃げ事案に〈殺し〉の可能性が急浮上。〈特命捜査対策室〉の刑事、水戸部は地元・万世橋署の刑事捜査に不慣れなバディとともに調査に挑む。
1
室長はこう伝えてきたのだった。
「万世橋署の事案だ。二十七年前に起こった轢き逃げで、被害者は死亡。当時三十八歳の男性だった。未解決だ」
水戸部は一瞬思った。轢き逃げであれば、刑事事件を扱う特命捜査対策室ではなく、交通捜査課の担当ではないのか?
室長は続けた。
「きょう、いましがた、その轢き逃げは単純な交通事故ではなくて、強盗事件だったのではないかと、被害者の姉の女性が相談してきた。何か根拠になるものを持っているらしい。なんで、万世橋署の刑事課長からうちのほうに連絡があったんだ」
少し前に、水戸部の携帯電話に着信があったのだった。
ちょうど運転免許証の交付窓口の前にいたときだ。水戸部は窓口で新しい免許証を受け取ってから、その部屋の外の廊下に出てスマートフォンを取り出した。
所属する警視庁捜査一課特命捜査対策室の室長、吉田啓三からの電話だった。すぐにコールバックした。
「どこだ?」と吉田が訊いた。
「神田です。内神田一丁目の」水戸部はビル名を答えた。警視庁の職員なら、だいたい意味は通じる。
吉田は思いがけないことを訊いてきた。
「捜査二課で何か?」
「あ、いえ」たしかにこのビルには、警視庁のいくつかの部署の分室がある。捜査二課も分室を持っていた。「交通課です。免許更新」
この免許更新手続きの件は、職場のホワイトボードに書き込んで出てきた。吉田は席に不在だったので、口頭での報告はしていなかった。
「そっちか。ちょうどいい」そうして、刑事事件の可能性の出てきた万世橋署の事案について、伝えてきたのだった。
「いま、その相談ごとに来た女性がいるんだが、万世橋署の捜査員と一緒に話を聞いてやってくれ。うちの事案のようであれば、やることになる」
うちの、つまり特命捜査対策室の事案、とは、再捜査が適当と判断される未解決事件ということだ。いわゆるコールドケースとも言える事案だった。
「まだ判断がつかないようだが」と吉田が言う。「万世橋署からは、その可能性もあると言ってきた。何度も相手に足を運ばせるよりは、万世橋署の交通捜査係の捜査員と一緒に聞いて判断してほしいってことだった」
「室長の判断は?」
「水戸部の報告を待つ」
二十七年前の事案。特命で担当する最も古い事案ということになる。
二十七年前の轢き逃げ事案となると、それが刑事事件だったとしても、再捜査をしてみたところで、被疑者が存命かどうかは難しいところだろう。よくて被疑者死亡のまま送検、という処理だ。捜査員にとっては、モチベーションも上がりにくい事案ということになる。だからといって、平の捜査員に、それはやりたくありませんと拒むことができるわけではないが。
時計を見た。午前十一時三十分だ。
水戸部は言った。
「いまから向かいます」
通話を切ると、エレベーターで一階に降り、ビルが面している通りを東方向に向かって歩きだした。
万世橋警察署まで早足で十分だろうか。JRの神田駅まで歩いて最寄り駅の秋葉原はひと駅だ。電車を使っても、同じような時間はかかるだろう。
十一月もなかばである。気持ちのよい晴天の日が続いている。水戸部はいくらかカジュアルなジャケット姿だった。
警視庁万世橋警察署は、JR秋葉原駅に近く、ラジオ会館という有名なビルの南側、道路一本はさんだ位置にある。裏手が神田川だ。千代田区のうち、おおまかに言って神田地区の一部が管轄地域になる。外神田にあたる秋葉原地区も管轄エリアである。
建物は、表からは七階部分までのガラス窓が目に入る。オフィスビルふうの建物で、ビルの最上階部分には、三重に帯が巻かれたようなふくらみの意匠がある。
刑事課のフロアに上がると、四十歳ぐらいかと見える長身の男が、水戸部を迎えてくれた。
「水戸部さん?」
「はい。特命捜査対策室です」
身分証明書を見せるよりも、名前を覚えてもらうためには名刺だ。水戸部は聞き込み用の名刺を渡した。
相手も同じように聞き込み用の名刺を渡してきた。
柿本邦雄
万世橋署の交通課交通捜査係の巡査部長だった。短く刈った髪はごましお混じりだった。格闘技ではないスポーツをやっているような雰囲気がある。テニスとか、スキーとか。警視庁の警察官には、愛好者の少ない種目だが。
水戸部は言った。
「相談者、お待たせしてしまいましたね」
「いいえ。本庁の専門部署から刑事が来ますと言ったら、ちょっと用を足してくるといって出て、二、三分前に戻ってきたところです」
「地元のひと?」
「ええ。江間電気商会の常務さん」
そう言われてもわからなかった。有名な会社なのだろうか。秋葉原にある電器店では、いくつか水戸部にも思い出せる名はあるが。
案内されて会議室に入った。壁の一面が大きなガラス窓になっていて、刑事部屋全体が見渡せる。刑事部屋からも中の様子がわかる造りの部屋だ。
会議用テーブルの奥で、初老の女性が椅子に腰掛けている。姿勢のいい、細身の女性だった。紺のジャケットに白いシャツ、グレーのパンツ。この女性が江間電気の常務? いま聞き違えたか?
女性の前には、白い紙があって、その上に紳士物の腕時計が置かれている。
「江間さん」と柿本が女性に呼びかけた。「本庁の水戸部さん。こういう事案の専門家です」
江間と呼ばれた女性が立ち上がり、ていねいに頭を下げてきた。
「お世話になります。もしかすると、考え過ぎなのかもしれないんですが」
落ち着いた、大人の声だ。
彼女も名刺を水戸部に渡してきた。
江間美知子
肩書はこうだ。
(株)エイマックス 常務取締役
エイマックスという店の名なら知っている。秋葉原にいくつかスマートフォンとかパソコン関係の店舗を持っているはずだ。中央通りにビルを持つような規模ではないが、たぶん秋葉原の中堅どころだ。昨日やきょう創業の店でもないのではないか。でも地元では、いま柿本が口にしたように、江間電気の名で通っているのだろう。
水戸部も名刺を渡した。
美知子は柿本の勧めで腰を下ろし直すと、水戸部をまっすぐに見つめてきた。
「昨日、秋葉原の知り合いの質屋さんから連絡がありまして、この時計を買い取ったのだけど、心当たりがあるかって」
美知子が時計をテーブルの上に滑らせてくる。白手袋の持参がない、と思ったが、必要ないと思い直して、じかにその時計を持ち上げた。柿本も止めなかった。彼ももうきっと一度手に取っているのだ。
ロンジンのダイバーズ・ウォッチだった。黒い文字盤で三針。時計のブランドについて詳しくはないが、高級だがロレックスほどではないはずだ。逆に言えば、換金性は薄い商品だ。
柿本が横から言った。
「文字盤の裏に、ネームが彫り込んであるんです」
裏を見た。漢字で名前が彫ってあった。
江間和則
その下に日付らしき英語とアラビア数字。
1997 Apr.1
水戸部は時計から目を上げて美知子を見た。
「ご家族のものですか?」
美知子はうなずいた。
「弟です。わたしが、弟の常務就任を祝って贈ったものです。日付は、辞令の出た日です」
「盗まれたのでしょうか?」
「どういうひとが質屋に持ち込んだのかわかりませんが、弟はこの年の十月に轢き逃げで死んでいます。轢き逃げ犯はまだ見つかっていません」
水戸部はその時期が近いことに一瞬だけ驚いたが、表情には出さずに柿本を見た。
柿本が水戸部に言った。
「質屋には連絡ずみです。持ち込んだ人間の身分証明書もコピーしてある。盗品とは思えなかったので通報はしなかった、とのことです。ただ、地元の知り合いの名前が彫られていたんで、こちらの江間常務さんに連絡した。大事なものではないのかと」
美知子があとを引き取った。
「お店で見せてもらうと、たしかにわたしが贈ったものでした。お店が買い取った額で売ってもらって、もしや弟の轢き逃げ事件と何か関係があるのではないかと、きょうこうして相談に来たんです」
柿本が付け加えた。
「こちらの江間さんが、遺失物としてこの時計について届けていました。二十七年前の届けなので、とうに盗品、遺失物の回復の時効は成立しています」
二年で時効だ。質屋が美知子に売ったことは、違法ではない。
さらに柿本が、情報をつけ加えてくれた。
「轢き逃げは、一九九七年の十月十三日。通行人からの通報が二十三時十三分。うちの署の管轄です。外神田二丁目。神田明神下の通りになります」
「未解決とのことですが」
「ええ。いま確認しました。うちの交通捜査係の単独捜査だったようです。報告書もうちにある。いまは、情報待ちです」
つまり担当者が名目上置かれているというだけだ。何かの偶然で重大情報が入るとか、関係者の出頭でもない限り、万世橋署交通捜査係が動くことはない。
「事件性については?」
「捜査は、事故事件両面でやったようです。まったく手がかりも出なかったのでしょう。九七年だと、いまと比べると交通捜査も科学的にはまだまだだったでしょうし」
水戸部はまた美知子に顔を向けた。
「この時計が轢き逃げと関係があると、江間さんが考える理由について、お話しいただけますか?」
美知子は小さく、はい、とうなずいてから言った。
「弟が轢かれて、病院に駆けつけたとき、所持品を見せられました。弟は腕時計をつけていませんでした。弟のバッグも見つかっていません。名刺入れとかMDプレーヤーが入っていたはずです。腕時計がこうして出てきたのだし、弟は強盗に襲われたのではないでしょうか?」
「というと?」
「強盗に車で撥ねられてから、倒れているところで持ち物を取られたんじゃないかと思うんです」
「強盗と、轢き逃げ犯は、同一人物とお考えなんですか?」
「素人の想像ですけど。もし別だとしたら、弟は先に強盗に遭って、そのあと轢き逃げされた。その場合は轢き逃げの被害者ってだけじゃなく、強盗事件の被害者でもあるということになりません? ふたつの犯罪の被害者です」
時系列が美知子が最初に言ったとおりだったとすれば、法律上それは強盗ではなく窃盗犯ということになる。警察用語では、仮睡狙いとか介抱盗だ。より重大なのは介抱盗よりも轢き逃げであるから、万世橋署の交通捜査係が捜査し、行き詰まって未解決事件のままとしているのだろうか。
美知子が二番目に言ったように、時系列が反対の可能性もある。まず強盗に襲われて倒れ、所持品を奪われた後に轢かれたかだ。
検案書の判断はどうだったのだろう。轢かれたのか、当てられたのか。強盗被害を示唆する外傷はなかったのだろうか。どっちかの可能性はないとしての捜査だったはずではあるが。
水戸部は言った。
「ここの警察署の交通捜査係という担当部署は、弟さんが轢き逃げで亡くなったことを重視して、そちらの捜査に力を振り向けたのでしょうね。倒れている弟さんから、所持品を奪った者がいることは確かでしょう。腕時計までなくなっていたんですから。でも重要なのは、轢き逃げ犯を捕まえることです」
「あのときは」美知子の口ぶりが少しだけ不満そうなものになった。「目撃者もいなくて、捜査が難航していると説明されました。でも逆に、轢き逃げの前に強盗事件が起こっていたんではありませんか? その可能性は考えられませんか?」
柿本が言った。
「医師の検視では、弟さんの外傷は、車に撥ねられ、地面に倒れてできたものとわかっています」
「というと?」
「強盗に殴られたりしたような傷はなかったんです」
やはり当時の交通捜査係も、そこまでは確認していたのだ。
美知子が言った。
「強盗は必ず暴力をふるうものでしょうか。ナイフを持って脅せば、たいがいのひとは怯えて財布だって腕時計だって差し出すでしょう? そういうのは強盗と言いません?」
「間違いなく強盗です。ひとを傷つけていなくても」
「だとすれば、その強盗たちは、そのあとの轢き逃げを目撃していないでしょうか。轢き逃げされた弟から奪ったのだとしても、時間の差はほんの少しですよね。どちらにしてもこの時計って、轢き逃げ犯を見つける手がかりになるんじゃありません? 持ち込んだひとが強盗だと言っているわけじゃありませんけど」
柿本が訊いた。
「弟さんに贈られたこの時計、間違いなくその日、弟さんが身につけられていたものでしょうか?」
美知子が首を傾げた。質問の意味がわからなかったようだ。
柿本が補足した。
「この時計はその日盗まれたものではなく、べつの日に誰かの手に渡っていたのかもしれません」
「あの日、連休明けの月曜日で、わたしは一号店で、当時は本店と言ってましたけど、本店で弟と立ち話をしています。そのとき、弟はシャツを腕まくりしていて、この時計をつけていたのをわたしは間違いなく見ています」
水戸部も訊いた。
「江間さんも、そのころはお店で働いていたのですか?」
「はい、子育ても一段落したところだったので、よく応援に駆り出されました。江間電気商会は、あのころは、家族経営の小さな電器ショップでした。いまだって、子供たちはみな店に出ます」
水戸部は、名刺に目を落とした。結婚している? 苗字は江間。弟も江間だ。美知子は婿養子を取ったということだろうか。
美知子が察して言った。
「いいえ。お婿さんをもらったわけじゃありません。離婚して、旧姓に戻ったんです」
水戸部は訊いた。
「弟さんが亡くなったので、江間さんが常務になられたんですか?」
「いえ。弟が亡くなったのは二十……二十七年も前です。わたしは十五年くらい前から」
水戸部は弁解しつつ訊いた。
「わたしはいまここに着いたばかりで、当時の捜査報告書も目を通していないのですが、エイマックスさんは家族経営なのですね?」
「はい、一応は株式会社ですが、同族経営です」
「ご家族構成は、弟さんが亡くなった当時は、どのようなものだったのですか?」
美知子には、少し飽いてきている、という表情が現れた。当時から何度も訊かれたことなのかもしれない。
「うちは五人家族で、わたしがいちばん上の姉、弟がふたりいて、和則、つまり轢き逃げされた弟が上。その下に敏弘。いまの社長です。父が清一郎。当時は代表取締役社長でした。母はつね子。当時は専務です」
「いまはお父さまは、リタイア?」
「いえ。父はとうに、弟が死んで五年ぐらいで亡くなりました。和則が死んで、いちばん下の敏弘が常務になっていたのですが、父が死んだときに、敏弘が社長になって、母はそのまま、十五年くらい前に亡くなるまで専務でした」
「いまの専務さんは?」
「あの」美知子は言いにくそうに言った。「こういう質問って、捜査に役立つものなのですか?」
柿本が横から言った。
「水戸部刑事は、本庁の未解決事件の専門部署から応援に駆けつけてくれたんです。周辺情報をできるだけ頭に入れておきたいんです」
水戸部は美知子に微笑を向けた。
「このあと捜査報告書を読み込みますが、まずは基本情報だけでも。いまの専務さんはどなたなんですか?」
「父の弟、わたしの叔父の子供ですね。やはり秋葉原で不動産の会社を持っているので、役員会に出席するだけですが」
「亡くなった弟さんのご家族は、江間電気とは無関係なのですね。いまも経営にもタッチしていない?」
「ええ」美知子は一瞬、目をテーブルの上に落とした。「弟、和則には家族はありませんでした」
「亡くなられたとき、三十八歳とのことでしたね?」
「はい」
家族経営の小企業で、常務の長男が三十八歳で独身? さぞかし父親はやきもきしていたことだろう。
姉は、弟の常務就任祝いにロンジンを贈っていた。同族経営の企業家の姉弟のあいだでは、ふつうにあることなのだろうか。水戸部の感覚では、少し驚きであるが。
やはり捜査報告書を先に読むべきだったかもしれない。
そして、当時の捜査員、その報告書を書いた捜査員が存命であれば、話を聴かせてもらう必要があるようにも思う。もちろん、きょうのうちにその質屋に行って、質入れした男、いや女かもしれないが、に会う必要もある。
とりあえず、この江間美知子から詳しいことを訊く前に、時間が欲しい。
美知子が言った。
「つまらない情報でしたか?」
落胆した声だ。
水戸部は柿本に目を向けた。
柿本が美知子に言った。
「江間さん、こちらの水戸部というのはまだ事件について何も知らないので、いったんうちの署の記録などを読ませてから、あらためてお話を伺うというのはいかがでしょう。後日時間をとってもらえますか?」
美知子は少し安堵したように言った。
「いつでも。わたしはずっと一号店の事務所にいます。訪ねてきていただければ。この時計はいかがしましょう」
「写真だけ撮らせてください」
柿本が、そのダイバーズ・ウォッチの表面と裏面をスマートフォンで撮影した。
「では後日、あらためて」
柿本が江間美知子をエレベーターまで送って、会議室に戻ってきた。
「どうです?」と柿本は、立ち上がっていた水戸部に訊いた。「特命の事案ですか?」
水戸部はうなずいた。
「時計の出所をたどるだけは、してみたほうがいいでしょうね。まさか強盗が、ネームが彫られた時計を質屋に持ち込むはずはないでしょうが」
「応援はありがたいです」
水戸部はスマートフォンを取り出して、室長の吉田に報告した。
「うちの事案の匂いはします」
吉田が訊いた。
「相談者は、どういう情報を持ってきたんだ?」
水戸部は江間美知子の話をざっと報告した。
聞き終えると室長は言った。
「遺失物が管内で出てくるとは珍しいな。秋葉原で完結してる事案ってことかな。だとしたら、かなりレアケースだ」
「入質した誰かは、秋葉原の轢き逃げとの関連なんて、夢にも考えていなかったんでしょうが」
「とにかく、うちの事案かどうか、確認できるところまでそっちを応援しろ。ひと区切りついたところで、そっちの課長と相談する」
通話を切ると、時計を見てから、柿本に言った。
「ちょうど昼です。三十分、わたしに捜査報告書を読ませてください。それから交替で食事。柿本さんにも報告書を読んでもらうのはどうでしょう?」
「そうですね。わたしも、江間さんがこの事案のことで突然相談に来たんで、あわてて捜査報告書の最初の部分だけ目を通したんです。これからきちんと読みます」
「失礼ですが、柿本さんがこちらの交通捜査課に異動されてきたのは、いつです?」
「もう一年ほど前になりますかね。その前は下谷署だったんです。やはり交通課。免許更新の窓口で」
ここに捜査係として赴任してきて一年、未解決の事案の捜査報告書を読んでいなかったというのが意外だった。どんな引き継ぎが行われたのだろう。万世橋署には、ほかにも重大な交通捜査の事案があったのだろうか。
少し長い時間、柿本を見つめてしまったかもしれない。
柿本は視線をそらして言った。
「でも二十七年前の轢き逃げでしょう。車両はもうとっくに廃車になってる。轢き逃げ犯をパクったところで、肝心の証拠はない。アリバイだって、崩すのは無理に近い。否認されたら終わりです。締め上げて自供させますか?」
水戸部は首を振って言った。
「冗談でも、言いたくない言葉ですね」
自分の声が少し低くなった。
柿本があわてて弁解した。
「本気じゃないですよ」
「とにかく報告書を丹念に読んで、報告書作成の捜査員の消息を調べて、情報の補足があれば聞く。それから質屋、轢き逃げ現場といきましょう」
「そうしましょう。報告書、こっちに持ってきます」
柿本は会議室を出ていった。
捜査報告書は、その轢き逃げ事案について、当時の万世橋署交通捜査係の板倉秀人巡査部長の名でまとめられていた。
最初に事件の概要、捜査の経緯が記され、地図、現場検証の報告書、付属の写真、検視官の報告書と写真などが添付されている。
また情報提供者の証言、参考人の供述書などのオリジナルも綴じられていた。
報告の最後は、綾瀬にあるタクシー会社のドライバーの証言だった。轢き逃げがあった直後に、現場近くを通行している。何も目撃してはいないという証言だった。日付は、事件からほぼ二年後である。万世橋署での組織的な捜査はそこで終わったのだ。以降は情報も入ってはいない。
柿本から聞いた情報も含めて、事案を整理すればこういうことだ。
一九九七年の十月十三日。二十三時十三分に、通行人から、ひとが倒れている、という一一九番通報があった。場所は外神田二丁目。神田明神下の、新妻恋坂から南に入った路地である。路地とはいえ、一方通行でもない区道で、新妻恋坂への出口から八メートルの場所にひとが倒れていた。
救急車の到着時刻は、二十三時十六分。通報者が現場にいて待っていた。消防の通信指令室から連絡を受けた万世橋署の地域課パトカーは、二十三時十八分に現場到着。
地域課警察官は、轢き逃げらしいと判断して、万世橋署に報告、交通課パトカーが相次いで到着した。
地域課警察官は、被害者の身元確認をしようとした。背広の上着左側内ポケットには、ルイ・ヴィトンの財布が入っていた。運転免許証、クレジットカードが二枚、銀行キャッシュカードが一枚、現金が五万二千円。内ポケットの蓋のボタンは留めてあった。右の内ポケットには携帯電話があった。
健康保険証に書かれていた勤め先が地元秋葉原であることから、交通課は直接勤め先の江間電気商会本店に向かい、周辺で江間電気関係者の連絡先を調べた。
被害者を収容した救急車は、十九分に現場から湯島の東京医科歯科大学医学部附属病院に向かった。
交通捜査係も到着して、周辺で聞き込みを開始。近所の住人で、どんという衝突音を聞いた者がいた。時刻は二十三時十分から十三分くらいのあいだだ。
被害者の姉の岩橋美知子の電話番号がわかり、連絡。岩橋美知子は文京区西片住まいで、二十三時四十五分に東京医科歯科大学病院に到着、被害者が弟の江間電気常務取締役、江間和則であることを確認した。
江間和則の死亡時刻は、日付が変わった十四日の零時十分である。
岩橋美知子は、被害者が腕時計をしていないこと、持ち歩いているバッグがないことを、交通捜査係に伝えている。
江間和則の住所は湯島三丁目の、新妻恋坂上にあるマンションだった。ひとり暮らしである。
轢き逃げされた現場の路地は、被害者の毎日の通勤路だった。被害者は秋葉原の勤務先まで徒歩で通勤していた。
被害者はこの夜、二十二時五十五分まで勤務先の事務所にいた。個室ではなく、事務室の自分のデスクで仕事をしていて、まだ社員がふたり残っているときに退社した。退社時刻については、社員ふたりの証言。
この日も新妻恋坂の集合住宅まで、徒歩で帰った。
事故に遭ったのが、二十三時十三分前後。つまり、被害者は退社した後、ほとんど寄り道もせずに自宅に向かい、自宅の近所で轢き逃げに遭ったのだった。
被害者は通勤時、ルイ・ヴィトンのメッセンジャーバッグを持ち歩くのが習慣だった。小銭入れ、名刺入れ、MDプレーヤー、小ぶりのヘッドフォンを入れていたという。このバッグは見つかっていないが、ヘッドフォンは現場で発見されている。轢き逃げされたとき、着用していたと思われる。衝撃で頭からはずれたのだろうと、報告者は解釈を記している。写真もあった。
そこまで読み進めて、水戸部は美知子の解釈について考えた。
まず強盗に遭い、時計とバッグを奪われた後に、轢き逃げされたという想像。
強盗がもしカネを出せと要求したのであれば、被害者はまず内ポケットに手を入れて、ボタンをはずそうとしただろう。でも、内ポケットのボタンは留められたままで、財布は残っていた。
バッグはない。腕時計もだ。しかし、現金の入った財布が残っていた以上、轢き逃げの前に強盗に遭ったという想像は成立しないのではないか。たぶん当時の交通捜査係もそう判断している。妥当だ。
では腕時計とバッグがなくなっている件はどう解釈するか。轢き逃げが起こったとき現場にいた何者かがバッグを盗み、腕時計もはずして奪ったか。一瞬のことだから、財布があるようだとわかっても、上着を広げ、内ポケットの留めボタンをはずして財布を引っ張り出す気持ちの余裕はなかった。ふだん着慣れていないジャケットの場合、本人でもボタンをはずすことに手間取ることがある。それよりは、倒れた男の手首の高級腕時計をはずしたほうが簡単だ。そう判断したのだろうか。
そうして、現場から一目散に逃げた。
轢き逃げに偶然遭遇して、短い時間でそれをやってのけるには、仮睡狙いとか介抱盗とかの経験がなければならないはずだ。ふつうの市民は、思いもつかないし、まず身体が動かない。
当時交通捜査係も、そこまでは当然判断したはず。管内の常習犯や逮捕歴のある者を、轢き逃げ目撃の可能性があるとして洗ったことだろう。報告書に記載がないということは、その線では浮かぶ者がなかったということだ。
死体検案書では、被害者の死因は外傷性ショック死である。右腸骨、右大腿骨を中心に、身体に複雑性の骨折があった。自動車に撥ねられてできた傷の特徴を備えていた。後ろからの自動車の接近に気づき、振り向きかけたところで撥ねられたのだろうか。左手のひら、左肘、左?骨、左頭部に打撲傷があった。これらは倒れたときに、地面に打ちつけてできた傷との所見である。
裂傷、刺傷等は見当たらなかった。
アルコール、薬物等は検出されていない。胃の内容物は、二十時四十分から事務所で食べた弁当の中味と一致した。
発生時刻が深夜であったため、当夜の聞き込みは現場に出てきた住人や足を止めた通行人中心に行われた。轢き逃げの瞬間の目撃者はなく、不審と見える車の情報も出てはこなかった。事案発生直後に現場から徒歩で立ち去った者の目撃情報もない。
翌朝から、現場検証を再開。車は問題の路地を南から北に向けて走り、新妻恋坂に出る十五メートルほど手前の地点で被害者・江間和則を撥ねたと見られる。白い塗料片が発見されている。
付近の住居、事業所に聞き込みを開始。事案発生時前後の目撃情報、不審者、不審車両を求めたが有力情報はなかった。
白い塗料片は、三菱のワゴン車のものと判明した。交通捜査係は、このワゴン車を轢き逃げ犯の乗った車とみて、まず現場周辺からこの所有者を探した。また周辺の監視カメラのデータを借り出して検証した。
該当する車が出てこないことから、警視庁は轢き逃げ発生からほぼ三週間後の十一月七日、神田警察署、上野警察署の交通課に対して万世橋署の応援を指示した。捜査本部は設置されていない。
万世橋署は、目撃情報の提供を呼びかけるポスターを現場周辺に貼り、また立て看板を設置した。
十二月十日になって、墨田区の自営業者が所有するワゴン車が浮上した。二十三時三十分前に、上野駅前交差点を通過していた。所有者は車の所在を明らかにできなかった。この所有者を重要参考人と見て、万世橋署で任意出頭を求めて調べたが、ここでワゴン車を暴力団員に貸し出していたと供述した。自動車には撥ねた形跡はなく、所有者また暴力団員にアリバイがあった。轢き逃げ犯と断定するには至らなかった。
翌九八年三月になって、足立区の自動車修理業者が白いワゴン車の修理をした、との匿名通報があった。ワゴン車はその後、オークションで秋田の中古自動車販売業者に売られた。捜査員を派遣して調べたが、このワゴン車も無関係だった。
さらに七月になったとき、秋葉原中央通りで、違法ドラッグの常習者が死者ふたりの出る交通事故を起こした。万世橋署の捜査体制は縮小され、その後、捜査は事実上、情報提供待ちの態勢となった。
そういう経緯で、この轢き逃げ事案は未解決のままだった。
報告書は、被害者・江間和則の属性、家族、交遊関係についても記述していた。
江間和則は、一九五九年生れ。死亡当時三十八歳。秋葉原の電気商、江間電気商会の社員。江間電気商会の経営者、江間清一郎の長男である。清一郎が妻つね子とのあいだにもうけた三人の子供のうちの二番目、長兄。
千代田区立芳林小学校、私立上野学園中、高校を経て、私立工学院大学工学部電気工学科を卒業。卒業と同時に、父親が経営する江間電気商会に入社。
江間電気商会では、営業主任、営業課長、営業部長を経て、九七年四月から常務取締役だった。
普通自動車運転免許ほか、無線関連の資格もいくつも有している。
上野学園在学中は、管弦楽部に所属、ヴァイオリンを弾いた。死亡の直前まで(九七年三月末まで)、アマチュア演奏団体である千代田フェニックス管弦楽団のメンバーだった。
自宅は、文京区湯島三丁目……。新妻恋坂に面した集合住宅である。
被害者を中心にしての家族構成は、いましがた美知子が言っていたとおりだ。父は江間清一郎。母親はつね子。姉が美知子(結婚して、岩橋姓)。弟が敏弘。被害者本人は結婚していない。
捜査報告書には書かれていないが、父親の清一郎は、轢き逃げ発生から四年後の二〇〇一年に死亡。母も二〇〇八年の死亡である。
読み終えて、最後に水戸部はもう一度、添付されている被害者の、生前の写真を見た。
身分証明書とか、紹介文書などに載せるためのような、スーツを着たバストショットだ。
三十代前半と見える写真なので、亡くなる数年前に撮られたものを、被害者の家族から借りたのかもしれない。被害者が恨みを買うようなことはなかったか、交遊関係を調べる際に使ったのだろう。
逆三角形の顔だち。額が広く、顎が細い。脂気のない、やや長めの髪で、額にも少しかかっている。二重まぶたの、黒目がちの目と見える。細い鼻梁と、薄い唇。姉の美知子の面影がある。
秋葉原の電気商会の常務という肩書が、少しだけ似合わない雰囲気がある。店に値切りにやってくる客を相手に、この江間和則という男は、うまくやりあえたのだろうか。無線関連の資格をいくつか持っていたが、技師として紹介されれば、ぴったりという印象だったろうが。
ただ、逆に言えば、この写真で見る被害者は、清潔そうだし、誠実そうだった。秋葉原に青年会議所があるのかどうかは知らないが、そういう男性たちのあいだでもちょっと浮いていたのではないかと感じさせるものがある。もっと言ってしまえば、ひとに恨みを買って撥ねられるような男ではないと思えた。
もちろん写真の印象以上に根拠のないことであるが、最初から万世橋署はこの轢き逃げを刑事事案とはみなさずに捜査した様子なのも、わからないではない。
もう一度メモを読み直しながら報告書を読んで、十二時三十七分になったところで、ホルダーを閉じた。
柿本が会議室に戻ってきた。
「何か面白い情報でも?」
「いえ、とくには」と水戸部は答えた。「これは捜査報告書のダイジェストでしょうしね。いろいろ仮説も出たでしょうけど、仮説が成立しないとわかった時点で、報告書には書かれなかった。多少仮説が濃厚だった部分については、結論まで書いてあるけれども」
「つまり本庁でやっても、解決はしないと」
柿本が、この事案を万世橋署から本庁の特命捜査対策室に持っていってほしいのか、その逆なのか、よくわからなかった。通常は、難事件、つまり重大事案であれば、自分たちの手柄にすることを望むものだが、手柄になる見込みがなければ、放棄したいと考えるだろう。
「そうは言っていません。時間は、おっしゃるとおり、解決を難しくしていますけどもね。じゃ」水戸部は立ち上がった。「昼飯を食べてきます。午後一から、まず質屋に行きましょう」
万世橋署から秋葉原駅の電気街口方向へと歩き、猛烈に混んだカレー店でランチとした。
店を出たところで、室長から電話があった。
「いまどこだ?」
「万世橋署の近くです。昼飯を食べていました」
「いま、万世橋署長から要請があった。この事案、万世橋署交通捜査係と、本庁特命捜査対策室との合同捜査にしてくれないか、とのことだ。ずっと捜査は継続してきたし、なんとか解決には万世橋署の力もあったと、記録に残したいとのことだ」
署を出ているあいだに、柿本と署長とのあいだで何やら打ち合わせが行われたのだろう。合同捜査となったところで、万世橋署はあの柿本のほかに捜査員を増やしてくるつもりはないだろうが。
万世橋署の会議室に戻ると、柿本と交通課の課長・広上がふたりで入ってきた。広上から、いま水戸部が室長から聞いたことを伝えられた。
「そういうわけで」と広上が水戸部に言った。「うちとしても、全力で特命の捜査を支えますよ。この会議室を、当面の合同捜査班の部屋として使ってください。電話も入れます」
水戸部は頭を下げてから言った。
「捜査報告書を書いた、板倉秀人巡査部長は、いまどこにいるかご存じですか?」
「二十七年前の?」
「ええ」
警視庁を退職している可能性は高いが、話を聞かねばならなかった。警視庁の人事課で、退職時までの連絡先はわかるはずだ。
「すぐに調べておきます」
柿本が水戸部に言った。
「まず質屋に当たってみましょう。質入れした人間から、二十七年前の目撃者がたどれるかもしれない」
水戸部はおおげさにうなずいた。
「ああ、なるほど」
交通課長が、よろしくと頭を下げて部屋を出ていった。
続きは『秋葉断層』でお読みください。
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