本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる

「オール讀物新人賞」史上最年少受賞&現役大学生の米原信さん単行本デビュー作『かぶきもん』を1話丸ごと無料公開!

ジャンル : #歴史・時代小説

かぶきもん

米原信

かぶきもん

米原信

くわしく
見る

 歌舞伎をこよなく愛する現役大学生作家・米原信(まいばらしん)さんのデビュー作は、江戸歌舞伎を題材にした連作短編集『かぶきもん』。文学部国文科でさらなる芸道に邁進する米原さん曰く、本作は「お江戸版『()しの子』」!? 発売を記念し、本書収録の「オール讀物新人賞」受賞作「(かみかけて)(しん)大切(たいせつ)」をまるっと一挙大公開!

〈傑作でなければならないが、決してヒットさせてはいけない〉

 江戸の天才狂言作者・鶴屋南北(つるやなんぼく)は、あまりの難題にごま塩頭を抱えていた。

「そうか!」思いついた唯一の秘策、それは――。


(かみかけて)(しん)大切(たいせつ)

「あんだって?」

 流石さすが耄碌もうろくしたかと聞き返す。

「ですからその……太宰府だざいふに参りやす。そのお暇乞いとまごいを」

 菊五郎きくごろうが畳に頭をすりつける、その向こうには脂顔。耳は遠くなりもせよ、目はよどまないこの南北なんぼくにはよく見える。

「菊や、おめえの話は後だ。俺ぁそこの旦那に用がある」

「まあまあ先生、ここは音羽おとわ屋さんの話から」

「ぬぁーにが『まあまあ』だ、馬鹿野郎」

 でっぷりとした座元ざもとの腹を一瞥いちべつして、南北は煙管きせるを灰吹に打ちつけた。ひりつく気配はすさまじく、ひぐらしの音もぴたりと止む。古い台帳を整理していた芳三郎よしざぶろうなど、作者部屋から脱兎のごとく逃げ出した。

「やってくれやがったな、てめえ……おいわさま打ち止めにする気かえ」

「夏芝居は夏で終わり、当たり前じゃございませんか先生?」

 文政八年夏芝居、中村なかむら座の『東海道四谷怪談とうかいどうよつやかいだん』は大入り続き――しかし、三日目の夜を境に座元は姿をくらました。小屋に掲げた「尾上おのえ菊五郎」の名題看板に「太宰府参詣の為江戸の地を離れまする御名残の興行」云々うんぬんとしたためたのは、所詮いたちの最後っ屁……南北も菊五郎も誰も彼も、そう思って疑わなかった。

「あの音羽屋さんが太宰府に参詣したいとおつしゃる。人さまの信心を妨げるわけにもいきませんでしょうに」

 大入り続きとはいえ、初日から一月半を経て九月の半ばにもなれば熱狂も客足も少しは落ち着いてくる。その機に乗じて座元が菊五郎を連れて作者部屋に押しかけ、菊五郎を土下座させたと思えば太宰府参詣――これでめられたと分からないなら、もう楽隠居した方がいい。

「やかましい、このでぶ鮟鱇あんこう

「私が鮟鱇なら、先生は切り干しか何かで?」

「なんでも構やしねえや、とりあえず外せ‼」

 南北が手元の茶碗を投げつけると、座元の足元で砕ける。座元はさも面白げに、茶碗のちりを払ってがらりと障子を開けた。

「お好きになさいませ。音羽屋さんの旅駕籠かごはとっくに支度しておりますよ、唐丸籠とうまるかごをね」

 座元はだみ声でげらげらと笑い、部屋を後にする。南北は塩持ってこいと叫んだが、芳三郎もいなければ弟子のひとりもいない。ここにいるのは、南北と菊五郎ばかりだ。

「おい菊よ……おめえの男っぷりを肴に煙草呑ませろ、つら上げろい!」

 茶めいた科白に菊五郎は座布団にかけ直し、南北を見た。その顔は、かつら要らずでお岩さまができそうだ。

「……なんでこうなるのかねえ、おやっさん……」

 座元の策略恐ろしく、東風こち吹かばと詠む間もあらばこそ――中村座の正面にはでかでかと「四谷怪談昨日打ち止め候」と墨書した看板が立ち、さながら城の明け渡し。座頭ざがしらという城主だった菊五郎は西へ向かって死出の駕籠、もはや死んだも同然だ。知らずに芝居町を訪れた客という客が失望するやら、怒るやら。菊さま贔屓ひいきのおなみなど小屋の前でしやくをおこして卒倒し、おあんが必死に水を飲ませて介抱したという。

「それで、責めは老いぼれに負わせたのですか」

「ええ、ご安堵くださいましよ。読売におあしを握らせて、音羽屋が南北と喧嘩して出立を早めたていで書かせたんですから」

 まあまずは一献、と座元が差し出した銚子は無言で断られた。ここ料亭「ひちりき」には無用の長物ちょうぶつはじく音が、鈴虫を押しのけて二階の座敷に響く。

「その賄賂を差し引いても――見事、利鞘はこちらの大勝、と」

 五玉をぱちりと弾きおさめて、上座に座る男は算盤そろばん絵面えづらをしげしげと眺めた。月光のさす窓から、ほのかに秋風が入って部屋を涼やかにしている。

「これほどの名月の夜なら、滑川なめりかわ松明たいまつもいるまいに。落とした銭十文を探すのに満月を待たず、五十文で松明を買おうとは馬鹿の振る舞い――そうでしょう、中村座さん」

「何もかもおおせの通りでございますねえ、大久保おおくぼ先生」

 大久保何某なにがしという男は、芝居町には幾人もいる。しかし先生と呼ばれた男の声、口調、何もかもまさしく――

(なんで、今助いますけがここにいんだ)

 かの大久保今助が座元と不思議の密談をしている隣座敷では、ゴマのまげ浅葱あさぎの手拭いで隠して南北が聞き耳を立てている。中村座の楽屋口をどすどす出て行った座元を追って、「ひちりき」まで忍んで来たのだ。目の前の膳にはぬるかんのひやおろしとむかごが並んでいるが、そんなものはただの小道具。愛用の煙管ひとつを相方に、わずかたりとも聞き逃すまいと鬼の形相だ。

 しかし南北がいるとは夢にも思わないから、今助は盃を拾って今度こそつぐようにと促す。座元が素早く酌をすれば、一杯くっと呑んで算盤を払った。

「ご覧あれ、中村座さん」

 今助は万の位にいくつか玉を入れて、座元に見せる。

「これがひと芝居分の実入りのすべて。ここから材木などを買い付ける費用を引いてこの通り」

 酒の癖にも色々あるが、算術上戸というものは珍しい。座元も初めてお目にかかったとみえて、閉口しそうなのをどうにかこらえている。今助は気づかず構わず、さらに玉を引いた。

「今引いたのは裏方衆の給金、残るは役者と作者……その給金は、おいくらと読みますか」

 差しつけられた盤面を見ると、千の位に一玉が三つ。

「三千両ですな」

「おや、ずいぶんと気前がよろしいようで」

 今助はいつもの銀延べ煙管を手に取り、吸口で算盤を割れんばかりに叩く。

「確かに残りは三千両。しかしながらこのうちせめて二千五百両は私とあなたの手元に入るべき、そうは思いませんかね」

(べらぼうめ、五百両ぽっちで大勢の作者役者が養えるものけえ!!)

 南北は膳をひっくり返しそうになるが、目立ってはならないと息を整える。その額には青筋がありありと浮かんできた。

「なるほど、それでこの度の菊五郎退治と――いやあ、流石は先生!」

「左様。あれが消えれば無駄金が減る、おまけにあの老いぼれにも責めを負わせて給金を差し引く――将を射んとなさば、まず馬から」

 今助は再び算盤を払い、気がゆるんだのかおくびをついた。座元はそのわずかに赤い顔を見て、にやりと笑う。

「まさかそれだけじゃございますまい?」

「何と」

「先生は南北がお嫌い……音羽屋を殺して、南北も殺す腹づもりでしょうに。まあさしずめ先生は師直もろなお公、判官はんがん由良之助ゆらのすけも返り討ちでめでためでたの若松さまよときたもんだ」

「そのたとえ話はよくわからぬが……中村座さんの言うことは、合っているからタチが悪い。あの連中を飼っておくだけ無駄というもの、金のなる木が筆頭の金食い虫ゆえに」

 これには座元も気をよくして、今助の前で下劣にも呵呵大笑かかたいしよう――濁った笑いを切り裂いて、隣の部屋からがちんと物音がした。

「誰だ!?」

 座元が立ち上がった拍子にすっ転べば、頭は敷居を越えて隣座敷へ。がらりと障子を開けた南北は、片手に煙管を握りしめている。

「悪いなあ、変な話聞いちまったもんでな。ついつい灰吹にぶっつけちまった、痛んじまうぜ」

 煙管の雁首をぜて、可哀想になあと聞こえよがしに言う。秋の風は雨の足に追いかけられ、階下に雨戸を立てる音がした。

「で、旦那、今助どん。この俺っちを殺すってのかい、面白え切りやがれ。どっから切るんだ、腹か、腕か、頭かえ」

「ま、まあ、先生。これはなんでもございませんで、はい」

「あんなにげらげら笑っといて、まぁだぬかすけえ!!」

 座元が慌ててはぐらかそうと膝立ちになる、その向こうずねを蹴飛ばして南北は尻をまくって座り込んだ。それでも今助は眉ひとつ動かさず、ただ白扇を開いてあおぐ。

ほこりが立ちます、お引き取りを」

 扇をひとこま残して畳み、嫌味たらしく口を隠す。南北は顔のしわをぐっとしかめた。

「てめえが糸引いてやがるたぁな……忠臣蔵ちゆうしんぐらの公方さまじゃあるめえし、こんな馬鹿げたはかりごとけしかけやがって。もうほとほと愛想が尽きたわ」

「愛想が尽きて、どうなさいます」

「知れたこった、鎮西ちんぜいまで追っかけて菊を連れ戻すのよ」

 煙管を帯に突っ込んで膝を押さえて立ち上がる、その足は算盤を扇で叩く音に止められた。

「こちらに迷惑をかけたまま逃げると」

「んだと!?」

「そうでしょう。夏芝居の打ち止めは貴方と音羽屋の責めだと世上の噂、このまま次の芝居をかけねばこちらは商売上がったりです」

「……その噂流したのも、てめえらだろが……」

「火のないところに煙は立ちますまい、老いぼれどの」

 もはや完全に今助の流れで、座元はでっぷりの腹を帯にのせてぬる燗を味わっている。そして南北の耳に近づいて、汚くおくびをした。

「大久保先生の仰る通り。南北さん、あんたは信用を破ったんだ。こっちはあんたがどんなに横柄でも、芝居を書くからヘイコラする――それがこの仕打ちかね、おまけにとんずらかね」

 勘弁してくれよ、と肩を突き飛ばす。南北は尻居しりいに崩れ込んで、ふたりの姿を見上げた。

「……しゃらくせえ、てめえらに信用だのなんだの言われたかねえや。役者も作者もただの木偶でくだと思うなよ、芝居は金儲けの道具じゃねえ!」

「世の中金だって芝居に書いてますな、あんたが」

「書いたからってそうじゃねえんだ!!」

「無茶苦茶な……大久保先生、追い返しましょうか?」

 座元が向き直ると、今助は扇を否と振る。そしてゆっくりと口を開いた。

「老いぼれどの」

「なんだ、人でなし」

「芝居は儲けのたねでございます――違うと言うなら、証立あかしだてを」

「証立てだ?」

 南北の怪訝けげん顔に、今助はにっこりと笑う。

「芝居小屋は芝居がなければただの箱、ただの箱では金が集まらぬ。……どうぞ、もう一本お書きください」

「……そりゃあ、いい話だな」

 口では受けても、皺の手には爪が食い込まんばかり。にわかに雨も強くなった。焦る座元をよそに、今助は算盤をもてあそぶ。

「どうぞ茶菓子をお願いいたします、山吹色の饅頭なりと」

「……くれてやらあ、山吹の毒饅頭。その代わりな、書いたら菊を」

 呼び戻せ、と言いかけた額を算盤がびっしゃり。

「てめえ!!」

 座元に羽交締めに押し止められ、額からは血がにじみ――今助は乱雑に、南北の袖で算盤をぬぐう。

「立場がお分かりでないか? 次の芝居が大入りなら、音羽屋なしでも良いという証。もし不入りなら所詮は筆耕、音羽屋もろとも追い出してさらし者にするまでのこと」

 今助は算盤を弾いて、憐れみの目で南北を冷ややかに睨んだ。南北はぎりりと歯軋はぎしりをして、肘鉄を喰らわせて座元を振り払う。

「馬鹿も大概にしろい‼ そんなしっちゃかめっちゃかの賭け、受ける間抜けがいるものけえ!!」

「黙れ、俎上そじようの鯉」

 ざらり、と算盤を撫でる音が雨を裂いて響く。

「傑作を書いて軍門に下るか、駄作をひねって筆を折るか……こちらに従う方が賢いと思いますがね」

あめえ科白ぬかしゃあがって。どうせてめえについたらついたで小間使えだろ」

「何を仰いますやら」

 今助はあくびを噛み殺した。

「まあどちらでも構いません、貴方を殺せば残るはそれこそ木偶ばかり。揉め事のたねの音羽屋は西方浄土、残りは耄碌した高麗こうらい屋に知恵なしの成田なりた屋……中村座さん、あとは」

「役者なら、ひよわな大和やまと屋粂三郎くめさぶろう。裏方連は老いぼれとウドの大木ばかりですな」

 座元が手揉みをする、その手を南北は殴りつけた。

「おお、怖! 南北さん、新作の初日は十日後でお願いしますよ」

「十日でできるか!!」

「やるんですよ、四の五のぬかさぬように!」

 座元の太い腕で隣座敷に突き返され、障子もがらり、その向こうではふたりの哄笑こうしよう――雨足は弱まるどころか、今宵はやみそうにない。

(……そんな賭けがあるかってんだ。あいつらに義理も糸瓜へちまもありゃしねえが、何を書いてもこっちの名折れ……)

 菊五郎を見殺しにするか、菊五郎と心中するか――いずれにしても南北は狂言作者人生一巻の終わり、といって書かずに逃げたら思う壺。腹いせにぬる燗を手に取れば、とっくに冷めている。

「こりゃ、めえったなあ……ほんっとうに人でなしだわさ」

 そう言い捨てて雪駄を履けば、大雨である。家まで帰る気力は失せ、中村座の作者部屋にすごすご戻って倒れ込んだ。

 翌朝、粂三郎は「四谷怪談」の打ち止めで使わなくなった道具を片付けようと早々と中村座に出勤した。楽屋口の下足番もまだいないのに、女形おやまだてらの一番乗り――と思いきや、作者部屋から声がする。

「南北先生、新吉しんきちでやす」

「じいちゃん、起きろ!」

 新吉と芳三郎の声に引かされて、つい足が向く。菊さんが追い出されてから、いつ何が起こるとも限らない――警戒心から隣の納戸に忍び込み、ほんの少し戸を開けると大の字の南北がちらと見えた。文机に筆とすずりがあるからは、考え事にふけったまま倒れて眠りこけたのか。

「……なんだえ、どうしたえ……」

「どうしたもこうしたもありやせんや!!」

 成田屋の新吉は、ほおずきのように今にもぜそうだ。隣では作者見習いの芳三郎がぎっと下唇を噛み締め、血が滲んでいる。南北はひとつ大あくび、その拍子に目が合った気がして粂三郎は顔をそむけた。

「とっくに噂でござんすよ、先生が今助に白旗あげたって」

「じいちゃん、嘘だよな……?」

 粂三郎には初耳だ。しかしふたりの神妙な様子からすると、あながち嘘とも思えない。息を殺して様子をうかがっていると、南北はあぐらでびんをぼりぼり掻いた。

「どこで聞いてくんのかね、おめえたちゃ……」

「先生、嘘だと仰ってくだせえ。今助やら座元さんやらに負ける道理はありゃしねえよ」

「馬鹿野郎。あの連中と喧嘩すりゃ、よくて切腹悪くて打首だぜ? そんなしちめんどくせえこと誰がするもんかえ」

 南北がため息をつけば、新吉はたまらず硯をつかんで投げ捨てた。

「こいつ、商売道具を投げやがったな⁉︎」

「何ぬかすんでえ、てめえは物書きでもなんでもねえや!」

「そうだぞじいちゃん、おいらでもあいつらは許せねえのに、なんだよそれ‼」

 芳三郎が少しごつくなった手で南北の胸ぐらを取れば、新吉もそこらの帳面の山を崩してはぁはぁ言っている。思わず粂三郎が割って入ろうとした、その時だ。

「待て待て、朝から血ぃ上らせんな」

 新吉を左手で止め、芳三郎を右手一本で南北から引き離す――團十郎はずいぶん急いだとみえて、髷がわずかに曲がっている。

「お、成田屋……芝居は打ち止めだろ、何の用だえ」

「どうせ、こんなこったろうと、思って、よ」

 言いながら團十郎は新吉と芳三郎を部屋の外へつまみ出し、台帳やら硯やらを乱雑に隅にまとめた。

「……菊はすげえな」

「ん?」

「こういうわけえもんの喧嘩沙汰も、あいつが収めてたんだろ」

 團十郎はその場に座り込み、ふうと天井を仰いだ。菊五郎ありし日は、この手の喧嘩の仲裁は彼の役……それを思い出したのと、ひとまずこの場が収まったのとで、粂三郎は静かに深く息をつく。

「それで、何の用だえ」

 南北が重ねて問えば、團十郎は衿を正す。

「……あの噂、本当か」

「……聞くまでもねえっちゃねえが、どの噂だ」

「先生が今助のために、大入り芝居を書くっつう」

 南北は耳にタコのようで煙管に手を伸ばしたが、粂三郎にはこれまた初耳。狭い納戸の中だからか、ちっともわけがわからない。南北は今まで役者の味方だった、それがどうして。菊五郎がいなくなったから、長い物に巻かれたとでもいうのか……?

「そうさな、俺ぁ芝居書くっきゃ能がねえんでな」

「……だからって、敵に塩はねえだろ」

「そんでこの老いぼれを矢面やおもてに立たせるつもりけえ?」

 これには團十郎も痛いところを突かれたか、大きな目玉をしゅんとしおらせた。

「……確かに先生が先陣だ」

「だろうが。俺っちがそれで狂言作者ぁ首になったら、どうしてくれる? こちとら五十年来、物書いて飯食ってんだぞ」

「首にされたら俺も辞めるさ」

「ほう?」

 南北の肩が少しいかったのが、粂三郎からは見えた。團十郎は気づかないようで、ついと立ち上がる。

「あいつらと喧嘩して首になったらだぜ」

 この体たらく、わけがあってくれよ――言い捨てて團十郎は去っていく。

「なんだなぁ……今日に限って千客万来か」

 南北がつぶやくと、納戸の中の粂三郎の心の臓も跳ねる。招かれざる客、しかも空き巣のような客だから……もう冷静ではいられずに逃げようかどうしようかとやっていると、今度は廊下の向こうからふたつの足音が響いてきた。かたや、どすどす。もう一方は、よろよろ。

「先生、よろしいですかな」

 老爺ろうやの方の声がして、南北が「入りな」と答えれば野太い腕で障子がぐわらり。たっつけ袴のふたり組は、大道具方の勘兵衛かんべえ勘蔵かんぞうだ。

「お、こりゃ棟梁に勘蔵どん。お岩さまじゃ世話んなったな、どうしたえ」

 南北が座布団をすすめると、勘兵衛はどっかと座り勘蔵は小さくなった。

「あのくそ連中に媚び売ったって、ほんとかよ」

「棟梁、ここはわしに任せて……」

 勘兵衛の単刀直入のどら声に、粂三郎もびっくり。勘蔵はあとを引き受け、ゴマの鬢の毛を撫でて南北の前に進み出た。

「先生、わしらは先生の小間使いみてえなもんですからな。口答えもしねえし、座元さんに同心しようが構わねえでついていきやすが」

「へえ、俺っちが首になってもかえ」

「縁起でもねえ……ですがね、今度ばかりはちっと頼みがございやすよ」

 遠くで烏の声がした。勘蔵のこわばった体とは打って変わって、南北は煙管を指先で弄んでいる。

「次の芝居の初日、十日後だそうで。どんな芝居か知りやせんが、十日で一から道具こさえるのは無理な話……座元さんが本性いてこのかた、若え衆がどんどん辞めちまうんでなおさらでさあ」

「そうよ、この勘兵衛をもってしてもできねえ。だから今あるもんでまかなえるように書いてくれっつう談判に――もとい、お願いに来たのさ」

 勘兵衛は坊主頭を撫でて、この通りと片手で拝んだ。粂三郎も納戸の内で、流石にもっともだとついうなずく。南北は仕方がないとばかりに手を打った。

「ああいいぜ、書いてやらあ。芝居の中身は一切向こうから言われちゃいねえからな、なんにも思いつかねえでどうしようかと思ってたんでえ」

「そりゃ、渡りに船でさあね」

 勘蔵が笑うと、南北は煙管を置いて「で、今いってえ何が残ってんだ?」と水を向ける。

「ええ、『四谷』、『忠臣蔵』、『五大力ごだいりき』……」

「『五大力』の道具なんざ残ってたっけか?」

「それが棟梁、ありましたんで。五人切ごにんぎりくるわの屋体やらなんやかや」

 ちょうどこの間の芝居が「四谷怪談」と「忠臣蔵」の二本立て。さらにその前、六月に出したのが初代並木五瓶なみきごへいの「五大力恋緘ごだいりきこいのふうじめ」――かつて大坂で武士が芸者ら五人を切り殺した事件があった。後世に五人切と呼ばれ、五瓶は犯人を恋人に捨てられた男に仕立てて書いた――五瓶は南北の師匠筋、その縁で南北の監修のもと久々に上演した珍しい芝居である。

「『忠臣蔵』、『四谷』、それに五人切なあ……なんだって人死にが出る芝居ばっかし取ってあるんだえ」

「そりゃ、たたりが怖えからに決まってんだろ」

「でやすねえ……その証拠にゃどの道具も、壁の裏がおふだでびっしりだ」

 勘兵衛と勘蔵がいちどきに鶴亀鶴亀と魔除けを唱える、その様子に粂三郎はうっかり口元が緩んだ。

「先生……いかがで……?」

 勘蔵が見上げれば、南北は腰をさすりつつ部屋中をうろうろ、うろうろ――

「……あ」

「できるか? 流石は先生だな」

「できるともできねえとも言ってねえだろ。……だが、なあ……松の廊下を長屋に変えて『四谷怪談』、それじゃあ討ち入りを長屋に変えて五人切、ってのはどうだ」

 南北の言葉は、いつものごとく勘兵衛には全くわからないようだ。しかし勘蔵もピンと来ていないのか眉根に皺を寄せている。おまけに、粂三郎にもわからない。

 南北は道具方のふたりに向かって渋い顔をし、必要な道具の書きつけをおっつけ渡すからと部屋の外へ追い出した。ブツクサこぼす勘兵衛と、たしなめる勘蔵の声は次第に遠くなっていき――そっと納戸の戸を閉めようとしたら、見つかった。

「おい、粂」

「あはは……先生、いつから気づいてた……?」

「いつからだろうな」

 南北はひょいと煙管を拾い、帯に突っ込んだ。

「……お芝居、書く?」

「ああ、書くこたあ書く」

「読みに来ていい? あたし先生のお芝居が好き、だからあいつらに負けるな‼」

「……どいつもこいつも……喧嘩するたぁ限らねえっての。読みにくるなら勝手にすりゃいいさ」

 飯でも食ってくるかと出ていく姿も、粂三郎にはいつになく冷たく思える。とっくに日は中天高く登っていたようで、どこかの寺から物寂しい九つの鐘が聞こえた。

「先生、お見事ですな」

 幸四郎こうしろうは草稿を読み終わり、悔しげに唾を呑んだ。

 南北の新作は、「忠臣蔵」と五人切をない混ぜにした陰惨芝居――赤穂義士のひとり不破数右衛門ふわかずえもんを、五人切の犯人に見立てる。おまけに数右衛門は恋人に捨てられたのではなく、女にだまされて恥辱から復讐の鬼になるという筋立てにした。不破数右衛門は薩摩源五兵衛さつまげんごべえと名乗って討ち入りの金策に走り、同時に芸者の小万こまんに入れ上げ、小万と三五郎さんごろうの夫婦にカモにされる。伯父が融通した討ち入り用の百両も美人局つつもたせで三五郎に奪われ、満座で恥をかかされて、その怒りは静かにたぎる――

「五瓶先生の書き替えで、ここまで変わりますか」

「よっぽど無茶苦茶したからな。彼岸むこう行ったら怒鳴られらあ」

 南北は指先で煙管をくるくる回して、歯を出して笑った。普段はヤニがこびりついている歯も、少し色がさめている。南北は今助に嵌められた「ひちりき」の夜以来この草稿を書き上げるまで、三日も煙草を口にしていないのだ。

 しかし作者部屋が冷ややかなのは、静かな火皿のためばかりではない。

 ――幸四郎のきちんと折りたたんだ脚が、膝からわなわな震えている。

「どうした、寒いかえ」

「寒くはございませんがね」

 ――幸四郎は出された茶をひと啜りすると、腕を組んだ。

「六十路を過ぎて腹立てるのもいかが、とはいえ……ここまで大入り間違いなしの芝居を書く方だとは思わなかった、ほとほと見下げ果てましたよ」

「ん!?」

「そうでしょう。この後、源五兵衛が小万を切り捨てて五人切で幕、見物はやんやの大喝采、『よくぞ恥をすすいだな!! あっぱれ天下の義士殿だ!!』となるのは必定ひつじようだ」

 頭の半分しかなくとも分かります――幸四郎は草稿を文机に返し、南北に詰め寄る。

「あの連中に頼まれたからとて、みすみす大入り芝居を書きますか。我が身がそんなに可愛いか、大南北とて金が欲しいか……私に獅子身中の虫と呼ばせてくれるな」

「ま、待て待て、どっかでこんがらがってるんじゃねえか⁉︎」

 必死で幸四郎を押し止めて、南北は文机に手を伸ばした。草稿を拾い上げて紙を数えてみれば、書き上げたつもりの枚数より明らかに少ない。さては今助の手が回ったか、座元が小僧を使ったか、はたまたただの泥棒か……だが常から草稿は神棚に置く南北、その癖は役者衆裏方衆しか知らぬはず。

「……粂か?」

 勝手に読めと言ったのが運の尽き、なぜか後ろ半分だけ持って行かれてしまったようだ。たぶん昨日のうちに、書き上がっていた前半は読んだのだろう。

「確かに粂なら、團となにやら読んでおりましたが……半分だろうと全てだろうと、大入り芝居は大入り芝居だ。どういうご所存ですか、我らよりもあの連中を――金を好むと仰せか」

「違えんだわさ……まあとりあえず、この続き喋ってやるからよく聞けよ。第一俺っちの小万は、五人切でられるほどヤワじゃねえや」

 凄惨な五人切からすんでのことで三五郎と小万は逃れ、四谷の長屋に引っ越した。そこはかつて民谷伊右衛門たみやいえもんが住んでいた、とても縁起の悪い家――とんだご利益、すぐさま源五兵衛が訪れて恨み節たっぷりに小万を惨殺する。その三五郎は父の旧主に渡すために金を集めていたが、父の寺で主と対面して驚く。なぜならその主こそ、

「なんと不破数右衛門、薩摩源五兵衛その人さ。三五郎は主の顔を知らず恥をかかせた申し訳に切腹、源五兵衛もその金で見事討ち入り、そこで幕だ」

 どうでえ、と水を向ければ、幸四郎はらしからぬほどきょとんとしている。

「……先生、もう一度お聞かせ願えますか」

「あいよ」

 南北がもう一度、今度は噛んで含めるように語る。幸四郎はそれを聞いて、「もう一度!」。三度目を聞き終えて、思わず湧きくる動悸を抑えた。

「……なるほど、こいつは私の早とちりというやつだ」

「なんでえ、不入りになるとでも言いてえのか」

「そうですとも、こんな暗くて重たくて救いようのない芝居は初めてだ。筋立ても一度聞いただけでは分からないし、大詰などはいまだに何が何やら」

 と言いつつも、幸四郎の震えは止まらない。

「高麗屋、こいつは駄作かえ?」

「いえ、先生! こいつは傑作だ、とんでもない傑作ですよ!!」

 後世に残るなら、こいつか「四谷怪談」か――と幸四郎はしきりに頷いている。南北はじっとその目を見た。これこそ信用に足る、高麗屋の目である。

「……その傑作が、どうして不入りになるってんだ」

「……上手の手から水が漏る、川流れというやつか。先生は幾度もこの筋立てを考えてお書きになった、それがあだです。江戸っ子の芝居見物は、年に一度のハレの行事……あいにくこいつは向きませんね」

 芝居は気分爽快になるために観るもの、そして一度だけ観るもの――ご贔屓筋ならいざ知らず、平土間の安席はそういう客で埋まっている。そこにこの新作は、流石にそぐわない。小屋の外でじっくり考察して、二度見て三度見てようやく傑作だと分かるような芝居は、いくら良くてもよろしくない。

「となれば平土間は空き放題、ご贔屓筋も来るかどうか……なんといってもこの暗い殺し、綺麗な役者は見られないでしょうから。先生も、ちっと勇み足をなさったようで」

 幸四郎は再び腕を組み、もったいないことだとつぶやいた。部屋はどこまでも静かになる。

 ――読めたぁっ!!

 天井裏からかすかに響いた。段梯子を飛び降りてくる音がして、だんだん足音が近づいてくる。

「先生、死ぬ気だな⁉︎」

 障子をがらりと駆け込んできたのは、團十郎だ。

「どうした物騒な!」

 幸四郎が勢いよく振り向けば、團十郎の手には数十枚の紙が握られている。追って降りてきた粂三郎は、どうにか辞儀をしてその場にへたり込んだ。

「後ろ半分借りて、ふたりで読んでたら、急に……」

「先生!」

 粂三郎を押しのけて、團十郎は南北の前に仁王立ちだ。

「てめえ、菊の野郎と心中かよ!!」

 全身の血管が脈打って浮き立ち、顔は紅を塗ったほどに赤い。成田不動のありさまと、その科白の奇天烈さに、幸四郎も粂三郎も固まった。

 ただ南北ばかりは、口元をゆるめて首をひねっている。

「成田屋、おめえどうしてたまさかに冴えるのかねえ……」

「てやんでえ、白状しねえか!!」

 團十郎が拳を握るので、南北も流石にこれぎりだなと額を撫でた。

「……そうよ、次の芝居わざと不入りにして、追ん出されてやろうと思ってんのさ」

 作者部屋は水を打ち、外の紅葉のざわめく音が入ってきた。南北はゆっくりと立ち上がり、障子の向こうに誰もいないと確かめてから座り直す。

「誰があんな野郎どもにくみするものけえ。菊が戻るかどうかじゃねえ、今助がいるうちはまともな芝居ができねえ。この南北にも真っ当な芝居を作りてえっつう意地があらあ」

 團十郎の拳がほどけた。南北はさらに続ける。

「ここにいても芝居にならねえ、が菊を追っかけても金も小屋も人もありゃしねえ。七十過ぎでもこいつは迷ったけどな……もう決めた」

 長年使い込んだ、手に馴染んだ煙管を拾い上げた。

「天下無双の傑作で、古今無類の不入りを出す。その挙句にゃ菊と心中だ。たとえ筆を折ろうが、人交わりを絶とうが、ここらが意地の見せどころさね」

 歯を見せてにししっと笑うが、その顔の皺は伸びていない――粂三郎は思わず南北の膝下へい寄った。

「それなら、言ってよ……どうしてあんなに冷たいんだよ!」

「べらぼうめ、言ったらおめえたち止めるだろ。だから独りで片付けるつもりで、一切合切騙したわけだ」

「なにぬかしゃあがる!!」

 南北の右手は手刀を喰らい、煙管はてんてんと畳に落ちた。團十郎は謝るそぶりもなく、南北の前にどんと膝をつく。

「そんなに俺たちゃあ信用がねえか、まだまだガキだと思ってんのか!? てめえが今助と喧嘩するってんなら、俺だっていくらでも助太刀すけだちすらあ‼ それで首んなりゃ本望だって言ったじゃねえか、忘れたか耄碌ジジイ!!」

 息を荒げてまくし立てるそのさまは、まるで――

「……菊みてえなことを言いやがるな、團」

 幸四郎は團十郎の頭を撫ぜると、隣に並んで座を占める。

「先生、こいつは完璧に私の勇み足だ。そのお心とはつゆ知らず、川流れのなんのかのと……だったら一味させておくんなさいよ。私らが揃ってついていけば、人だけはいる。金がなくとも小屋がなくとも、人さえいりゃあ芝居はできまさあ」

 なあ、粂? と振られて、粂三郎もしきりに頷いた。

「あたし、先生となら旅回りでも行く。勘蔵じいさんも棟梁も友九郎ともくろうのおじさんも、芳坊だってついてくるよ」

 にっこり笑えば、幸四郎もつられる。

「幸いにしてこの傑作だ、芝居の神様でも不入りになる。私らも役者の意地立てだ、見事務めてお別れといこう――先生、塩冶浪士の討ち入りも大星由良之助おおぼしゆらのすけ以下に四十七人いましたよ」

 とりわけこいつなんかは頼りになる、と背中を叩かれて團十郎は軽くうめいた。その様子を見て、その先を見て、南北は煙管を拾って煙草入れにしまう。

「……おめえら、よっぽどでかくなったな」

「みんなおやっさんのお仕込みさあ」

 團十郎の口から、ぷいと「おやっさん」……懐かしい菊五郎の呼び名に、南北もぷっと吹き出した。もはや、何を恐れることもない。

「ありがとな、おめえたち」

 南北が額をぽりぽりやると、作者部屋は笑いで満ちる。「わざと負け」の策でいこう、そうと決まれば書くだけだ。粂三郎が墨をり、南北は文机の前の座布団にあぐらをかいた。

「稽古場で待ってるぜ、由良之助先生」

 團十郎がおちゃらけて言えば、南北は筆を落としそうになる。

「この皺くちゃジジイが由良之助だあ? 冗談きついぜ」

「由良之助がお嫌なら、数右衛門でも……そういえば、今助が三五郎で座元が小万、先生が源五兵衛にも見えますな」

 珍しく幸四郎が冗談を残して、それではと三人は作者部屋を出て行った。

 あとに残った南北に、最前の言葉が響き渡る。

「そうか、おりゃあ源五兵衛か」

 珍しく、独りごちる。もう一言思い出した。「ひちりき」に乗り込んだ帰りにこぼした科白だ。

『ほんっとうに人でなしだわさ』

「そういや源五兵衛も言ってたっけな、『誠に人ではないわえ』ってなあ」

 棚に詰め込まれた台帳の中に、五瓶の書いた「五大力恋緘」はあるだろう。しかし探す暇が惜しい。三十年前の「五大力」初演で南北は助作者だったから、科白は頭に入っている。それを片っ端から思い出して、一気呵成に書いていく。

 ふたたび、筆をとる。後半の筆の進みは速い。源五兵衛をその身におろし、するすると「五人切の場」を書き上げて大詰に入る。「五大力」にはない「四谷鬼横町よつやおによこちよう小万殺しの場」、源五兵衛が三五郎夫婦を訪ね寿ことほぎ帰るところ。五瓶先生そのままに「誠に人ではないわえ」と書きかけて、やめる。

「犬を切ってもつまんねえやな」

「ないわえ」を塗りつぶして、「あるかもしれぬ」と書きかえた。鬱憤は人が苦しめばこそ晴れる。

 そのまま書き進め、源五兵衛が小万をなぶり切りにする場面。泣き叫ぶ小万を描けば、それが座元と重なる。

「成田屋から高麗屋までみんな連れて出ていきゃあ、これ以上にわめくだろうなぁ」

「こなたは鬼じゃ、鬼じゃぞや」と小万の科白、その次に源五兵衛の科白を書きながら声に出していた。五十年余りの作者人生でも、こんなことは一度もやった覚えがない。

「『いかにも鬼じゃ、身共を鬼には、おのれらふたりが致したぞよ、人外にんがいめが』」

 そう記してから、源五兵衛にうたいをやらせて引っ込ませ、鬼横町の場を締めた。ほうと息をつき、幸四郎の飲みさしの冷めた茶をひと啜りして、「愛染院あいぜんいん門前の場」に取りかかる。三五郎が恩ある主の源五兵衛に死んで詫びるところで、あの今助がついに這いつくばって謝る様子が目に浮かんだ。そして何にも思わずに、「こりゃこうのうては叶うまい」と源五兵衛の科白に書きしるす。

「こうでなくっちゃ、ならねえよなあ……」

 薄笑いを浮かべれば終わりが見える。討ち入りに加わる源五兵衛こと不破数右衛門が、ますます己に重なった。義士の仲間が数右衛門を迎えにくる。役者連が南北と共に出ていくように。〆の一言をサラリと書いて、大きく「まず今日こんにちはこれぎり」と記す。筆を置いて伸び上がった。

「さあ行こうや、ってなもんよ」

 題は「盟三五大切かみかけてさんごたいせつ」、最後の科白は「お立ち」の一言だった。

 十日の猶予は瞬く間に過ぎた。南北が一日で書き上げたその日には、既に二日が経っている。役者たちがこれまた一日で頭に叩き込み、本読みで一日、立ち稽古に四日――これで八日。九日目の総ざらいには見事に道具も揃った。棟梁の勘兵衛が自ら金槌かなづちをふるい、勘蔵が老いの知恵をふんだんに仕込んだ大道具――くるわの道具は美人局の場面に使い、肝心の五人切は「四谷怪談」の伊藤家の屋敷を転用し、四谷鬼横町小万殺しの貧乏長屋は民谷伊右衛門の浪宅を模様替え。この当意即妙っぷりに思わず南北も「できたっ!!」と膝を打って小判で一両ずつ、でかい手と皺々の手に握らせた。さらには小道具方に衣裳方、床山とこやまもせかせかと仕事をこなして、見事十日目には舞台稽古にこぎつけたのである。

 驚いたのは座元ただひとり。舞台稽古を見もせずに、「ひちりき」で煙管をくわえて三服目――隣で今助が呑気に算盤を弾いているものだから、焦って吸口を噛んでしまった。

「大久保先生、これで大入りになったらどうなさいます……?」

「ありえません。私の算盤が狂ったことがありましたか」

「……そいつは、滅多に……」

「滅多にではない、決してない。毛虫とて客にならぬ、不入りの責めでお払い箱は目前。大船に乗った気でおいでなさい」

 まこと今助は千里眼の持ち主か――否、南北と役者連が描いた計略が見事にはまったというべきか。評論家や知識人には芝居の筋の受けは良く、「近年になきおもしろき作」とは評されたが、それでも客の入りは悪い。菊五郎贔屓が来ないのは当然ながら、小万を演じる粂三郎の贔屓は美人局の場に憤慨、あでやかな赤姫が見たいと言いつつ帰ってしまう。三五郎役の團十郎と源五兵衛役の幸四郎の贔屓連中も、小万殺しから大詰にかけてもやもやが残り二度とは通わない。先ほどの文人でさえも、筋は良いが舞台で見る理由がない、華がないと言ってそれっきりだ。これに南北がニヤッニヤしているものだから、事情を知らない下っ端からは「南北先生は喧嘩する気もねえんだろ」「いいやあれは敵をあざむ放埒ほうらつさ」などと厄介な憶測が飛び交う始末。

 そうこうするうち、九月二十五日の初日から二十日もしない十月十三日の夜。南北に「ひちりき」まで来るようお達しが出た。なるほど打ち止めだな、と幸四郎に声をかけたが、殺人鬼源五兵衛の役でくたびれ果てている――

「おめえら、討ち入りだぞ。支度整えて待ってろ」

 役者衆に声をかけ、團十郎ひとりを供廻りに「ひちりき」の月見座敷まで赴けば、会いたくもない顔がふたつ並んでいる。

「南北さん、ま、おかけなさいよ」

 座元が座布団を指差す。南北はあぐらをかくと、嫌味たっぷりに顎を突き出した。

「てっきり座布団なんざねえと思ったがな」

「そういえば、非人はむしろに座って百叩きか。お望みならばやりましょうかね」

 座元は耳をほじりながら、鼻で笑う。南北は呆れて、座元のてかてかな額を睨みつけた。

「で、話はなんだえ」

 南北に突っかけられて、座元は今助をちらちらと横目で見た。今助が返事代わりに手元の算盤を払ったので、煙を吹いて煙管を置く。

「――明日で打ち止め、おあいにくさま!」

 たるんだ頬がぐいぐいと上がり、座元は勝利の快を隠しきれないようだ。かたや南北と團十郎は、身動みじろぎひとつせぬままに胸の内で手を〆る。

「それで、どうすりゃいい?」

「どうもこうもありゃしません、明日中にどうぞ荷造りを」

「おう合点だ、みぃんな荷を綺麗にしちまうからそう思え」

 強気に構える南北にいささかじたのか、座元は今助に耳打ちをする。今助は銀延べの煙管を出して、煙草盆を目の前に置いた。

「老いぼれどの」

「なんでえ、金助かねすけ

 金助とおちょくられても、眉ひとつ動かさない。

「あなたは駄作を書いたのですよ。世間様に顔向けできず、夜逃げ同然が関の山というところでしょう。もう少し神妙になさったらどうです」

 座元がぷっと吹き出すのをこらえた――その髷をひっ掴んだのは、團十郎の右の手だ。

「あれが駄作たぁ、てめえら目なし鳥か」

「成田屋さん、儲けがなければ駄作に違いないとお分かりないか」

「うるせえ馬鹿助!」

 髷をぱっと放せば、でぶの体は崩れて今助の膝の上に。思わず今助は顔をしかめ、煙管で座元の額を殴りつけた。

「儲からねえ傑作がこの世にはあるんでえ、知らねえか!」

「おい、騒ぐのはおめえの役じゃねえだろ。菊に取っといてやれ」

 激昂する團十郎を、南北は押し留めて座らせた。

「おやおや、音羽屋さんと再会する気ですかね。あんな御仁、野垂れ死にがせいぜいなのに」

 座元がニヤニヤ笑えば、今助は嘆息して算盤を南北に見せつける。

「老いぼれどの、よしんば傑作だとしても不入りは不入り。早々にお引き取り願います、筆を折るのがよろしいかと」

 今助は軽く一服して、煙をふうと吐いた。しかし南北は時節到来とばかり、すっとぼけてみせる。

「折らねえよ?」

「……何ですと」

「俺ぁ狂言作者だ、それっきゃできねえ。ここを離れても書き続けるし、芝居をやり続けるさ」

 にいっと得意げに頬を上げる。これに吹き出したのは座元だ。

「ぼけたかい、南北さん! 小屋がなけりゃあ芝居はできないよ、ましてあぁた金も人もいないんだろう?」

「並びがごちゃごちゃでえ。小屋がなけりゃお稲荷さんの境内ででもやりゃあいい、銭がねえなら知恵絞るまでだ。結句入り用なのは人さね」

 なあ成田屋、と言われて團十郎は深くうなずく。

「先生の言う通り。こいつについていきてえ、そう思うから俺たちゃ動くんだ。互いに信用されねえと、どんな一味もありゃしねえ……四十七士もそう、芝居の衆もそうだ」

 菊ならそんなふうに言うわな――照れ隠しのように、菊五郎に思いを馳せる。小屋の衆のことも思い浮かべて、團十郎はしっかりと息を吸い込む。

「てなわけで、俺らも出てくわ」

 座元は言葉の意味が分からないのか、口を丸く開けたまま固まる。

「……俺ら、とは?」

「役者裏方まとめて」

「……出ていく、とは?」

「この小屋から」

 ようやっと顔面蒼白、座元の脂ぎった手がわなわなと震え、ついには畳を殴りつけた。

「そりゃないでしょう、そりゃないでしょう成田屋さん‼ あんたがたまでいなくなりゃ、こっちは商売上がったりだ‼」

 どうしてくれる、と叫ぶ声は南北の哄笑にかき消えた。

「南北さん、あんたもあんただよ‼」

 胸ぐらをとって揺さぶってくる、その二の腕を掴み返して捻じ上げた。その振る舞いの勢いや、若い者にも劣らない。

「てめえら、言ってることがしっちゃかめっちゃかじゃねえか。そっちの邪魔になる時ぁ追い出して、入り用になったら木偶扱い……そんな連中にかける情けがあるもんけえ。源五兵衛を見てみろ。惚れた女に良いように操られて、結局カッとなって皆殺しさ。芝居でさえそうなっちまう、いわんや浮世をやっつうもんだ。銭金で人を動かしゃ遅かれ早かれしっぺ返しよ、真っ当な人間なら金じゃあ動かねえ――人と人との信用は、銭金で買えるもんじゃねえや」

 咳き込んだ南北に、團十郎がスッと手拭いを差し出す。痰を払うと南北は、座元をどうと突き飛ばした。

「菊を飛ばされてこのかた、てめえらに信用なんざ皆目ありゃしねえよ。この金食い虫の唐変木の腹出しどもが」

 南北が低く並べ立てると、團十郎も目くばせで同意を示す。座元はふたりに向かって鯉のように口をぱくぱくやり、ようやく声を絞り出した。

「わかりました、金でしょう。給金は千両万両望み次第」

 大慌てで金を取りに行こうと駆け出す、その脛を今助が算盤でピシッと叩いた。南北は大笑いが高じて涙ぐむ。

「そうよ、そこの金の亡者の言いてえ通りだ。俺らに金は無役さね」

 座元はにっちもさっちもいかず、ううとうめいてその場に這いつくばった。

「這っても泣いても出ていくぜ?」

 團十郎が自慢の目で睨みつけると、座元はもはや蛇に遭った蛙。

「それじゃあ今助どん、これでおさらばだ。達者でな……言っとくが、おめえさんらの悪評はすぐにこの江戸中に広まるだろうよ」

 今助は一向に顔を上げない。

「御見物をめちゃいけねえ。今度の芝居がどうも変だってんで、楽屋まで乗り込んできたご贔屓がいくらもいらあ……上は八十路の奥様から、下は花も恥じらう娘っ子までな。読売のネタになるのも遠かねえ。てめえは芝居に負けたんだ」

 月見座敷が静まりかえって、ただ南北と團十郎の衣擦れの音だけが響いている。

「……何が、どうして、こうなった」

 地獄からとどろくような声を出したのは、今助だ。南北はけらけらと笑ってその曲がった髷を見る。

「てめえは昔、小屋をつぶしかけただろ。その天罰さね」

 これには團十郎も、障子に手をかけてプッと吹き出した。

おのれの因果が己に報い、ってか」

 その言葉に南北も、にやり。

「人を呪わば穴二つ、こうでなくっちゃならねえよ」

 そうして團十郎を先に出し、障子を閉めようとする。

「老いぼれ、貴様は鬼か。獄卒か」

 今助が顔を上げる。こぼれ落ちんばかりに剥いた目玉は、どぶ色か山吹色か。

 南北は平然とその目を見据えた。

「おう、鬼さ。しかし鬼には誰がしたんでえ、この金っ小僧め」

 言い捨てて舌を出し、「あっかんべえ」。

 ぴっしゃりと障子を閉め、口笛吹いて作者部屋に戻った。

 今助と座元に一矢いつし報いた翌日、十月十四日の興行で「盟三五大切」はめでたく千穐楽せんしゆうらく。その翌日には南北は荷物をまとめて、黒船稲荷の自宅に引っ込んだ。幸四郎に團十郎、粂三郎もてんでに楽屋を引き払い、弟子もろともに家で一息。もちろん役者だけではない。小道具方に衣裳方、床山までもあらかた抜けた。勘蔵もことの次第を聞いて、「老い先短みじけえこの体、南北先生にお預けしてえ」と勘兵衛もろともわずかな若い衆を連れてこれまた座抜け。それどころか、空いている小屋を見つけるから二、三日待ってくれと言ってコネ先を駆け回っている。そこで再会は二十日にしようと皆に言っておいた。

 それは十八日の夜だった。南北が寝ようとすると、表から「先生、先生」と呼ぶ声がする。なんだなんだと出てみれば、幸四郎、團十郎、粂三郎、それに勘蔵。

「どうしたい。まだ二日あるだろう? 勘蔵どん、もしかして見つかったかえ?」

「へえ、見つかりましたよ、小屋も」

 勘蔵が皺の顔をさらにくしゃくしゃにして答えた。

「その、『も』ってのは何だい。まだなんかあんのかい?」

「それは勘蔵じいからでも、我らからでもない、当人の口から言わせましょうか」

 幸四郎が満足げに言った。すると、四人の後ろから深編笠をかぶった男を引っ立てて六尺の大男が立っている。

「こりゃ棟梁。どこ消えたかと思ってたぜ」

「なあに先生、こいつを見ねえな‼」

 勘兵衛が男の深編笠をぶんどると、現れたのは三国一のいい男。思わず南北はため息をついた。

「なんとも、無沙汰をいたしやして……」

「菊よ、俺っちは湿っぽいのは苦手だぜ。からりといこうや、からりと」

 豪傑関羽かんうのようにからからと笑いとばす。そうでもしなければ、野暮な言葉がこぼれそうだった。菊五郎もつられて、ははは。泣き笑いの背中を、粂三郎がぱんと打つ。

「だから湿っぽいんだよ……ばか」

「おめえもな」

 團十郎に頭を叩かれて、一粒涙がこぼれる。

「めんどくさかったぜ、太宰府まで遠くってよお~。くたびれたのなんのって」

「棟梁が走って行くからでさあ……音羽屋さん、お岩さまの道具はみんな取っときやしたよ」

 勘蔵が優しく声をかければ、幸四郎も微笑む。

「本当におまえというやつは……無事に帰るとは信じていたがな」

 皆に迎えられた菊五郎はぐっと涙をこらえ、水もしたたるおもてを上げた。

「みんな、ありがとうな。……先生、この菊五郎を、使ってもらえやしやせんかね……」

「馬鹿野郎。おめえがいねえでどうすんだ、まだまだやらせてえ役がいくらもあらあ」

 南北が思わずのめってこけそうになるのを、菊五郎が支えてやる。

「やっぱり、菊さんは先生のお気に入りだ」

 粂三郎がそう言えば、皆うなずく。

「さあさあ、三国に轟く男前、尾上菊五郎のお帰りだよ!」

 勘兵衛がでかい声を張り上げた。團十郎がそれを聞いて、

「おのおの方、酒宴へいざお立ち」

 と肩肘張るから皆が笑う。そのまま家の中になだれ込み菊五郎を肴に呑む横で、南北は久方ぶりに煙管で一服した。

「あれ、ずいぶんやってなかったのに」

 粂三郎が尋ねると、南北は刻み煙草を丸める手を止める。

「なあに、作者部屋の神棚に断ち物にしててな。菊の顔見るまでは一服も呑まねえって誓っちまったのよ」

 晴れやかな顔の菊五郎に團十郎が大酒呑みの勝負を仕掛ければ、勘蔵が必死で酌をする。勘兵衛がでかい体躯でカンカンノウを踊り出せば、幸四郎が笑いながら口三味線を合わせる。

 その様子を見ながらひと口、ふた口。

 なんとも美味い一服だった。

 ようやっとまともに戻った芝居町で、のちに南北は菊五郎に十役早替わりを当て書きするというとんでもない情を示すことになる――が、今は束の間の平穏、それはまた別の話。

単行本
かぶきもん
米原信

定価:1,870円(税込)発売日:2025年01月24日

電子書籍
かぶきもん
米原信

発売日:2025年01月24日

ページの先頭へ戻る