第31回松本清張賞で惜しくも受賞を逃すも、選考委員である辻村深月さん、森絵都さんはじめ多くの方からエールが寄せられた『高宮麻綾の引継書』。新人作家・城戸川りょうさんのデビュー作として、2025年3月6日に発売となります。
精魂込めて作り上げた新規事業が、親会社に潰された。理由はリスク回避。
「なんであんたたちの意味わかんない論理で、あたしのアイデアが潰されなきゃなんないのよ!」
怒りを爆発させた三年目の社員・高宮麻綾は、社内外を駆けずり回り、“リスク”の調査に乗り出す。
今日の味方は明日の敵――めくるめく令和のサラリーマン小説をどうぞお楽しみください。
トレーディング三課からの異動に関する引継書
2023年9月
本日を以てトレーディング三課を離れる事となった為、簡単ながら以下の通り引継書を作成します。顧客概要や業務フローといった本題に入る前に、入社三年目というペーペーの身分で恐縮ですが、私がTSフードサービス株式会社の皆様にお伝えしたい事を先ずはじめに四点記載いたします。
一、経営陣の皆様へ。ビジネスパーソンとしての基礎を叩き込んでいただいた事は私の一生の財産であり、もう一度社会人生活をやり直すとしてもTSフードサービスのトレーディング三課を希望すると思います。ただそれも、二年前のトレ三であれば、です。最近はどいつもこいつも鶴丸食品の意向ばかりを気にして、口を開けば「親会社はどう考えているか」ばっかり。あなたたちは親会社の鶴丸に死ねって言われたら死ぬんですか?
皆様が私にした仕打ちは人殺しと同様の行為だと思っており、未来永劫決してこの事を許すつもりはありません。どうかくれぐれも暗い夜道にはお気をつけください。
二、トレ三の同志諸君へ。もっとしゃきっとしなさいよマジで! ほんとムカつく。ムカつくムカつくムカつく! うちは親会社のオモチャじゃないでしょ? 何をやるにも顔色窺いすぎ。別法人なのに鶴丸のことを「本店」って呼ぶのも気色悪いからマジでやめて。皆様お忘れかもしれませんが、うちの本店はこの茅場町のおんぼろビルです。
「気にかける人がいなくなった時、その事業は死ぬ」と、私は恩賀さんから教わりました。このままでいいと本当に思ってるわけ?
三、急にこの引継書が社内一斉送信のメールで送付されてきた皆様へ。本件の顚末は既に皆様ご存知かと思います。このような形で当部を去ることは誠に遺憾ですし、己の力不足に対して怒りが収まりません。せめてもの抵抗として、この引継書改めダイイングメッセージを皆様にも送ります。犯人たちを明日から白い目で見てあげてください。
四、被引継者に対して言いたいことは一つ。地獄に落ちろクソ野郎! ばーーーか‼
引継者: 高宮麻綾
被引継者:
1 あたしが勝たなきゃいけない理由
髪をかき上げた左の手のひらがベタつく。鏡を見なくても、頭皮の毛穴が開いているのが分かる。もう、そういう時間帯だ。ディスプレイの右下に小さく出ているデジタル時計は二十一時半を示している。プリンターエリアを挟んで向こう側の島は、既に電気が消えていた。この時間はオフィス内のクーラーも切られており、今夜は特にじっとりと暑い。
今日はまだあと二時間半もある。ギアを上げようと、高宮麻綾は飲み掛けのモンスターエナジーを勢いよく飲み干した。ハーフアップに上げた髪をギュッと束ね直して、バレッタで留め直す。この後に予定がなく、今夜はとことんやると決めた時の高宮のルーティンだ。
明日、七月七日は決戦の日。鶴丸グループのビジネスコンテストで優勝して、今度こそあたしのアイデアを事業化する。TSフードサービスとあたしの名を轟かせるのよ。
「じゃ、今日はもう帰るから。二人とも残業はほどほどにね。ほら、僕が平井部長に怒られちゃうからさ」
卓上パーテーションの向こう側から、茂地係長の少しおどけた声が降ってきた。この人の、いつも何かに許しを請うようなオドオドした態度が気に食わない。気合いに水を差されたと感じて、高宮は心の中で舌打ちをした。
「はーい、気をつけまーす」
この一連のやり取りまで含めて、残業時のルーティンだ。顔を上げずに空返事をしたが、茂地係長はその場から動く気配がない。高宮が画面から視線だけ上げると、おどけた声のトーンとは裏腹にこちらを恐る恐る覗き込む、自分の半分以下サイズの小さな瞳と目が合った。怯えたような目つきに、高宮は思わず本当に舌打ちしそうになった。
「高宮さん、このペースで行くと今月も残業六十時間超えそうでしょ。まだ三年目で若いからって無理しないで、もっと早く帰って家でゆっくりしないと」
「別に大丈夫です。それに今日は残業つけませんよ。明日のビジコンの準備なので」
「そういう問題じゃなくてね。休むことも仕事のうち、プライベートも大事だよ。ほら、彼氏さんとの時間とかさ」
「すみません、もしかして今あたし、セクハラ受けてます?」
キーボードを打つ手を止めずにわざと冷たい声を出す。茂地は「いや、そういうわけじゃなくて……」と慌てて呟くと、喉の奥でごにょごにょ言いながら出入り口に向かっていった。
自動ドアが閉まるのを背中で感じると、高宮は今度こそ盛大に舌打ちをした。
あんな腑抜けばっかりだから、うちは親会社から舐められてんのよ。出向者に媚び売るのが上手いだけで、モジモジがあたしの倍近い給料だなんてあり得ない。
苛立ちが込み上げてくるが、それも明日で終わりにする。去年の苦い記憶ともおさらばだ。
両肩を軽く回して「よし」と小さく呟くと、高宮は再び画面に向き合った。何度も見直したおかげで、プレゼン資料の骨子は完璧になったと思う。関連が少しでもありそうな取引先、カンファレンスで見つけた目ぼしい大学の研究所、インターネットで探し当てた怪しげな海外の研究者。名刺を一箱空にして、とにかく多くの人に事業アイデアをぶつけ、そして磨き上げてきた。あとは、まだ情報量の多いスライドを初見でも分かりやすいようどれだけ軽くできるかのみ。資料作りは足し算より引き算が肝心だ。これで優勝しなかったら、その時は審査員を絞めあげてやる。
他の部からもどんどん人がいなくなっていく。同じ階で残っているのは、高宮を含めてトレーディング三課の二名だけだ。やや面長な顔の頰を軽く叩き、高宮は気持ちを入れ直した。
二人分のキーボードを叩く音がオフィスに鳴り響く。右手の人差し指のマニキュアが少し剝がれていることに気づいたのとほぼ同時に、フロアの電気が一斉に消えた。
「あ、僕行きます」
仕切りを挟んで向かいの席から人影が立ち、数秒後には自分達の真上だけ電気がついた。
「十時になると電気消えるの、ほんとムカつくわよね。とっとと帰れって言われてるみたいで」
「言われてるみたい、じゃなくてそう言ってるんですよ」
天恵玲一はそう言うと、シャツの第二ボタンを開けて手でパタパタさせた。パーマでもかけているのか日中はルーズに決まった髪型も、この時間になるとクラゲの足のように張りがなくなっている。まだ二年目の分際でオシャレする余裕があるなら契約の一件でも取ってきなさいよ、と以前同僚に愚痴った時には「麻綾、三年目でその発想は老害だぞ」と返されてしまった。
天恵が三ヶ月前に親会社の鶴丸食品からうちの会社に出向してきて以来、高宮が天恵の教育係を務めていた。後輩のくせにと生意気に思うこともあるが、なんだかんだいって割と気が合う同僚の一人だ。
「いよいよ明日ですかぁ。高宮さん、気合い入ってますね」
「当たり前でしょ。去年の屈辱をはらすんだから」
「それ初耳です。昨年も出られたんでしたっけ、うちのビジコン。前回は鶴丸社員と子会社の方のペアが優勝したらしいですけど」
「出てないわ。あたしみたいなグループ会社の社員が一人で参加できるのは今年からよ」
もうすぐ完成だ。最後にもう一度頭から確認して、社内ビジネスコンテストの事務局宛にファイルを送信する。大きく伸びながら椅子にもたれかかる高宮を見て、天恵は続けた。
「そもそも新規の事業企画って、僕らの仕事じゃないですよね。ゴリゴリ営業畑の高宮さんが事業案のコンテストにやる気を出した理由、気になります。終わってからでもいいから教えてくださいよ」
興味津々な顔の天恵と一瞬目が合ったが、高宮はそれを無視した。
TSフードサービスは食品原料の専門商社で、物の売り買いがメインのビジネスだ。高宮が所属しているトレーディング三課の仕事は、国内外から原料を買い付けてグループ企業や他の食品メーカーへ安定的に納めること。原料納入が途切れてしまうと工場がストップしてしまい、消費者まで含めるととんでもない数の人に影響が出る。これに加えて、畑違いな新規の事業企画も手掛けるのは大分ハードだ。
やる気を出した理由、か。高宮の頭に二人の顔が思い浮かぶ。昨年末に職場を去った恩賀さんの色白で整った横顔。もう一人は、あたしのアイデアをろくに見ないでボツにしたクソ上司。うん、どっちを思い出してもムカついてきた。このムカつきが、あたしの原動力だ。
「鶴丸の連中、全員あたしのすんばらしい事業案で蹴散らしてやるわ」
「できれば他の参加者じゃなくて、審査員の方をぶっ潰してくださいよ」
「実際、あんたの元上司たちはどう考えてるの? このビジコンって意味ある?」
天恵があくびを嚙み殺しながらうーんと唸る。
「意味ないことはないと思いますよ。尖った若手のガス抜きになるし、上からしても下の意見聞いてますアピールになるし。実際のところ、新規事業のタネも枯渇気味なので、良いアイデアはちゃんと形になるんじゃないですか」
ふーん、と返しながら、過去の鶴丸出向者たちへのがっかりエピソードが頭の中で倍速再生されていく。自分の中のガソリンタンクが急速に溜まっていくのが分かる。
「明日のプレゼン、モノにするわよ」
高宮が怖い顔で呟くのを横目で見た後、天恵は腕時計に目を遣った。
「今日はどうします? 最後くらい、通しでやっときますか?」
「ん……そうね。お願いするわ」
もうフロアには誰もいない。他の部の人も全員帰ってしまった。いちいち会議室に移動する必要はなさそうだ。天恵は高宮から少し離れた空席に腰掛けた。
「じゃ、五分計りますね。それでは、エントリーナンバー一番の高宮麻綾さん、どうぞ」
細く息を吸い込むと、高宮の口は勝手に動き出した。天恵に付き合ってもらう形で、この二週間でもう何十回も繰り返した内容だ。今この場で天変地異が起きても、このプレゼンだけは動じずに話し通せる自信がある。ビジネスコンテストが全部終わったら天恵に何か奢らなきゃ、と頭の空きキャパで考える余裕すらある。普段よりもやや高めのトーンで話す自分の声が、夜の茅場町のオフィスに響くのを感じた。
「皆さん、ゴミとなる運命だった食品が世界にどれだけ存在するかご存知ですか?」
「この二十を超えるヒアリング結果により、衛生面でまだ十分食べられる食品が軽微な外観や質感の問題で仕方なく捨てられている現状が浮き彫りになりました。先ほどご説明した通り、弊社の少額出資先であるデメテル株式会社が開発中の新製品『LENZ』を製造時に添加することで、特定の食品の風味や美味しさを飛躍的に長く維持することができます。酵素由来の食品改良剤であるLENZはクリーン且つサステナブルで、まさに時代に合った製品です。これだけでも十分に意義がありますが、こちらのスライドの通り、鶴丸グループ内の物流会社や系列スーパーなどの実店舗と繫ぎ合わせて考えることでより大きな意味を持ちます。川上から川下まで、いわば食材から食卓までを一繫がりのものとして捉えてフードロスを解消しようとするこの取り組み全体が、私が今回提案する『メーグル』という事業です」
会場にいる全員の視線が自分のプレゼン発表に集まっているのを感じる。よそ見やスマホいじりするヒマなんて与えない。今、日本橋に聳え立つ鶴丸食品ビル三階の大会議室を支配しているのは誰でもない、このあたしだ。
「私が実現したいのは、食べ物が一切無駄にならない循環型社会です。この事業により新たに命を吹き込まれた食品が、巡り巡って誰かの食卓を彩ります。フードロス問題を解決する『メーグル』を、どうかよろしくお願いいたします」
高宮は深々と頭を下げた。ちらりと腕時計を見る。プレゼン時間をめいっぱい使ったぴったり五分。拍手のボリュームがひとつ前の鶴丸社員とは段違いだ。これはもらった、と思いながらゆっくりと顔を上げた。
司会がマイクを受け取りに来る。五分ぶりに開いた自分の手のひらは汗でびっしょり濡れていた。
高宮は審査員席の方に目を向けた。審査員長を務める予定であった鶴丸の食料品ビジネス本部長は急遽来られなくなったらしい。高宮のボスであるTSフードサービスの温水柔助社長も審査員の一人であり、ご機嫌な様子で隣の人に話しかけている。鶴丸から転籍して来た温水社長の口癖は「親会社なんて気にするな」。気にするな、と叫ぶ本人が一番気にしているのは明らかで、高宮のプレゼンが終わった時も得意げに他の審査員たちを横目で見ながら最後まで拍手していた。
鶴丸グループは鶴丸食品をトップに掲げる、国内でも大手の「食」にまつわるビジネス企業群だ。グループ社員が「鶴丸」と呼ぶ時、大抵は親会社である鶴丸食品を指す。祖業は戦後に始めた缶詰などの加工食品やその原料の卸売であり、今では国内でも有数の規模を誇るグループに成長した。グループ傘下には三十を超える子会社があり、オリジナルの加工食品を製造するメーカー、鮮度を保ったままコンビニや小売店に食品を納入するための物流会社、ファミレス等の外食産業を手掛ける会社など、食に関わることなら何でもやっている。
高宮の所属するTSフードサービスは、鶴丸食品の調達部がスピンアウトしてできた子会社だ。今では原料だけではなく、鶴丸グループが作った加工食品の販売なども一部手掛けている。
このビジコンでは、各社からの参加者が主に自分の仕事を中心に据えたアイデアを発表していく。高宮は他の参加者が「わが社の強みを活かして!」と声高に叫ぶ度に、にんまりとほくそ笑んだ。鶴丸グループ全体を巻き込み、自社の強みもぴりりと利かせた自分の事業案には自信があった。それぞれ親会社の鶴丸食品と一対一の関係でしかなかったグループ子会社たちを、あたしのビジネスアイデアで網の目状に結びつける。このコンセプトが鶴丸にウケないわけがない。
TSフードサービスからもう一人出場していた同期の桑守昇も、高宮のプレゼンを聞いて苦々しい顔をしていた。桑守も、彼なりの理由で今回のビジコンに賭けていたはずだ。その桑守が眉間に皺を寄せて渋い顔をしていることに、高宮は自分の出来を再確認した。
「はい、それでは結果発表をします」
全ての参加者のプレゼンが終わり、審査員長代理の諫早人事部長が壇上に立った。事務局が横から渡してきた集計表に目のピントが合わないのか、手に持った紙を近づけたり遠ざけたりしている。
「私は毎年このコンペを見させてもらっていますが、今回は過去一番のレベルだったなと思っています。あれ、これ去年も言ったかな。いやでもほんとお世辞抜きにそうなのよ」
鶴丸グループの社員たちが声を出して愛想笑いをする中、高宮は一人苛立っていた。面白くもない冗談に、周りと一緒になって従順な笑みを浮かべる桑守にも腹が立つ。
そういうつまらない前振りはいいから早く結果を言ってよ。癖で出そうになる舌打ちをぐっと堪えて、高宮は両の拳を握りしめた。
「でも、一つ選ばなきゃいけないわけでね。二つじゃなくて一つ。本当は全員の案をもっとよく聞きたいんだけど。はい、もう言っちゃいます。TSFさんの『ベーグル』」
高宮は一瞬反応が遅れた。ウケるとでも思ったのか、わざと事業の名前を間違えられたことはどうでも良い。自分の名前でなく、会社名で呼ばれたことに憤りを覚えた。瞬間、自分の顔がカッと熱くなるのを感じる。
「大変失礼しました、ベーグルは諫早人事部長の飼われているワンちゃんのお名前です。今年の優勝は高宮麻綾さんの『メーグル』。高宮さんはTSフードサービス様からのご参加です。優勝者には事業化に向けた資金と手厚い援助が与えられます。高宮さん、どうぞ前に」
司会を務めていた事務局の男がすかさずにこやかにフォローを入れ、会場は笑いに包まれた。高宮と目が合った司会は一瞬だけ申し訳なさそうな顔をして目礼した。
何があってもまずは「短気は損気」と心の中で素早く三回唱えろ。高宮が上京する時に、「頑張ってね」でも「身体に気をつけるんだよ」でもなくそうアドバイスしてきたのは母だった。母のおかげで、壇上に辿り着くまでの間にはなんとか笑顔を作ることができた。
壇上に上がった高宮は、改めて観覧者の多さに驚いた。さっきプレゼンをした時より倍近く増えたんじゃないか。実際そんなことはなく、先ほどまではかなり緊張して視界が狭まっていただけだ。こちらを見つめる親会社の人たちの目は高宮が思っていたほど刺々しいものではなく、むしろ温かさすら感じた。能天気に手を叩く諫早人事部長も、今となってはかわいく思えてくる。
観覧席には天恵の姿も見えた。髪がまだしなしなしていないので、頭のボリュームで一発で分かる。目が合った。天恵が顔の横で小さく親指を立てるのを見て、高宮はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
親会社主催のビジネスコンテストで優勝した翌日から高宮の人生は一変した、なんてことはなかった。
特にこれといって音沙汰がないまま、ビジコンからたっぷり二週間以上が経った。なかなか事務局から連絡が来ないので「もう鶴丸は置いておいて、うち主導で事業化しちゃいませんか?」とチーム会で話していた矢先、高宮宛の辞令がようやく出た。
八月一日から、今の仕事との兼務という形での出向となる。兼務先は、鶴丸食品 食料品ビジネス本部 事業推進部。仕事時間の五十パーセントを、そちらでの業務推進に充てることになった。
少し早く出社して席に着くと、まずは夜遅くに届いていた海外からのメールを捌いていく。現地の原料トレーダーが提示してきた価格を見て、適正だと感じれば即座にGOを出す。その日はインドの現地トレーダーから複数の提案が来ていた。
メールの返信を終えたら、まだ届いていないサンプル品手配の進捗を尋ね、念のため相手にチャットアプリでも「plz see my e-mail」と送っておく。この相手に対してはくどいくらいの催促が丁度良い。これも後任に伝える必要があるなと思いつき、書きかけの引継書に「Daveには要鬼プッシュ。メール→チャット→電話の順で追い込め」と加筆する。
高宮が所属するトレーディング三課、通称「トレ三」は、昨年から立て続けに人がいなくなって慢性的な人員不足だ。チームの要であった恩賀や去年の新人が次々に転職していく中で、海外・国内の仕事を両方こなす高宮は自他共に認める中心戦力であった。貴重な戦力が〇・五人分いなくなることは、トレ三にとって死活問題だ。
「高宮、引継書はできそうか?」
出社してきた平井部長が声をかけてくる。一担当者の引き継ぎにまで部長が口を出してくるとは思えず、これは三課の課長としての声かけだな、と高宮は考えた。前任の課長が玉突き人事で電撃異動させられたのが三ヶ月前で、適切な後任が見つからないまま平井部長がずるずると課長も兼任しているのだ。
引継書は殆ど出来上がっていた。ちゃんとあたしの書いた通りに後任が動けば、まぁ五年は安泰だろう。「十一時までには仕上げます」と高宮は一瞬手を止めて答えた。
「それは良かった。昼前にでも天恵の時間を押さえて、あいつの分の引き継ぎを開始してくれ。温水社長がここ最近毎日、高宮に早く新規事業をやらせろって俺をプッシュしてくるんだ」
平井は困ったように腕を組み、白い歯を見せて苦笑した。大学時代にラグビーで鍛えたという身体は今でも健在で、シャツをまくった逞しい腕が黒光る。
「お前のプレゼン、すごかったらしいな。初の満場一致だろう。温水社長が他の審査員に言った第一声は『見込み通りだ、あの子は自分が採用した』だったらしいぞ」
「あたし、内定式の時に『きみを採るのは博打だ』って言われたんですけど」
平井は大口を開けて笑った。不自然なほど真っ白な歯が眩しい。
「もちろん、トレ三の仕事もしっかり頼む。昨夜、ヒカリ食品の園部購買部長と会食だったんだが、お前に会いたがってたよ。『高宮さんが暴れてくれたおかげでラインを止めずに済んだ』って笑ってたぞ」
以前、急に原料が手に入らなくなって困っていたところに、高宮が力業で海外から原料を手当した客先だ。必要な原料が必要な時に無いと工場の製造ラインを止めなければならず、下手すると数千万円単位の損失が出る。原料メーカーの横柄な対応にムカついた高宮が飛び回り、最悪の事態をギリギリ回避したのだった。
「新規の事業開発は、これまでの営業とはまた全然違った世界だ。必ず新しい仕事でも結果を出すこと。恩賀が去った後、お前はうちの不動のエースなんだから、声出していけよ」
平井部長はいつも「頑張れ」の代わりに「声出していけよ」と言う。お手本のような元気な声でそう言い残すと、部長席に戻って行った。
恩賀さんを引き合いに出さなくてもいいでしょ、というトゲトゲした感情が頭を掠めたが、一方で新しい仕事という響きが耳にくすぐったかった。承認欲求と劣等感がないまぜになった気持ちで考え始めた新規事業案だったが、今では自分のアイデアに自分自身が一番ワクワクしている。泉の如く湧き出るアドレナリンに突き動かされてどこまでも走って行ける気分だ。取引先である親会社にぺこぺこ平謝りの電話をしている茂地の声が斜め前から聞こえてくるが、今日はそれも気にならない。軽く腕まくりをして、高宮は座席に深く座り直した。
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