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英国ヒーローの正統、伝説の名シリーズ復活。

英国ヒーローの正統、伝説の名シリーズ復活。

文:加賀山 卓朗

『覚悟』(フェリックス・フランシス)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『覚悟』(フェリックス・フランシス)

今も変わらないシッドだな、そうだろう?
抜け目がない。恐れを知らない、なんとしても勝つ。
――ディック・フランシス『敵手』

 

 フェリックス・フランシスが父ディックの跡を継いで執筆している「新・競馬シリーズ」から、シッド・ハレーを主人公としたRefusalの邦訳をお届けでき、冥利に尽きるとはこのことかとありがたく思っている。

 ディック・フランシスの「競馬シリーズ」については、くどくど説明するまでもないだろう。念のため最初に申し上げておくと、シリーズとは呼ばれるものの、事件は一作ごとに完結するので、どの作品から読んでも問題なく愉しめる。それは息子フェリックスの作品についても同じだ。

 父フランシスの旧シリーズは一九六〇年代初めから二〇一〇年代にかけて、おもに競馬界を題材に書かれた四十四作(すべて早川書房刊)。どれもミステリーと冒険小説の要素を含んだエンターテインメントとしてきわめてレベルが高く(かつ駄作がほとんどない)、とりわけデビュー作の『本命』から十作目の『骨折』あたりまでの完成度の高さは驚異的である。『大穴』(第四作)、『飛越』(第五作)、『血統』(第六作)はアメリカ探偵作家クラブ(MWA)エドガー賞候補となり、『罰金』(第七作)、『敵手』(第三十四作)はそのエドガー賞を獲得、『利腕』(第十八作)ではエドガー賞と英国推理作家協会(CWA)ゴールド・ダガー賞をダブル受賞した。ミステリー作家としての功績を称えるCWAダイヤモンド・ダガー賞、MWA巨匠賞も贈られている。漢字二文字のタイトルの背表紙を書棚に並べている同好の士も大勢おられるはずだ。

 ディック・フランシスは、作家になるまえアマチュア障害騎手として活躍し、プロ転向後に全英チャンピオン・ジョッキイとなり、エリザベス皇太后の専属騎手まで務めた。よって小説内の騎乗場面に迫力があるのはもちろん、競馬場や厩舎の日常の様子、減量などの騎手生活、厩務員たちの自然な交流、ちょっとした馬の仕種などの描写にも味がある。かといって、筆が冴えるのは競馬に関連したことだけでなく、主人公が若い銀行員の『名門』(第二十一作)や、ワイン商の『証拠』(第二十三作)といった傑作もあるから油断できない。

 しかしなんと言ってもシリーズ最大の魅力は、困難に立ち向かって勝利する主人公たちだろう。一人称で一作ごとに異なるが(例外であるシッド・ハレーとキット・フィールディングについては後述)、みなフェアで、謙虚で、精神的にたくましい。悪を描くのがうまい作家はたくさんいるけれど、フェアネスを描いて人を感動させる作家はまれである。だからこそ、どの作品も読後感が格別に爽快なのだ。

 その父親のシリーズを継いだのが、次男のフェリックス・フランシスだった。フェリックスはロンドン大学で物理学と電子工学を専攻し、高等物理の教師として十七年働いたあと、一九九一年から父フランシスの執筆の管理業務にたずさわっていた(ペンギン・ランダムハウス社の著者紹介より)。ただ、そのまえから父作品の調査やプロット作りを手伝っていて、たとえば『配当』(第二十作)の主人公の物理教師や競馬予想システムという設定にそれが生かされている。

 やはりディックの執筆活動を支援していた妻のメアリが亡くなった二〇〇〇年以降、フェリックスが彼女の役割も引き受けたことは想像にかたくない。そのことは六年のブランクのあと発表された『再起』(第四十作)の謝辞からもうかがえるし、旧シリーズ最後の四作、『祝宴』、『審判』、『拮抗』、『矜持』はディックとフェリックスの共著になっていて、これらはフェリックスの作家としての助走期間と言えるかもしれない。料理人や軍人を主人公にしたり、法廷場面があったりと新たな趣向も取り入れ、やや印象の薄い三十番台の作品群より質が上がっていると思う。

 そしていよいよフェリックス・フランシスの単独デビュー、すなわち「新・競馬シリーズ」の幕開けとなったのが『強襲』(イースト・プレス刊)だった。原書の刊行が二〇一一年なので、このとき彼は五十八歳。遅めの本格デビューだったかもしれない。これもまた快作で、主人公は元騎手のファイナンシャル・アドバイザー。殺された同僚の裏の生活を巡る謎解きが興味をそそるし、やはり馬を走らせたかったのだろう、クライマックスのあの場面では胸が熱くなる。英語圏では最新作のSyndicateまですでに十三作が上梓されているが、残念ながら邦訳刊行のほうは途絶えていた。

 本書『覚悟』は、フェリックスによる新シリーズの三作目にあたり、シッド・ハレーものとしては父親の代も含めて五作目となる。

 

 さて、シッド・ハレーについて。旧シリーズで「一作一主人公」の原則に反する男がふたりいると書いた。まず、キット・フィールディングは『侵入』(第二十四作)と『連闘』(第二十五作)に連続出場しているが、どうやら当時はディックがある有名騎手の伝記を書いていてこちらにまわせる時間がなく、やむなく慣れたキャラクターを再利用したらしい(『ベストミステリー大全』[北上次郎著、晶文社]参照)。創作的必然性はあまりなかったようだ。

 シッド・ハレーはちがう。『大穴』で初登場した彼は前三作の主人公からかけ離れている。『本命』の主人公は裕福なアマチュア騎手、『度胸』(第二作)は上り調子のプロ騎手、『興奮』(第三作)はオーストラリアの牧場主。それに対してシッド・ハレーは、冒頭から左手に重傷を負って引退を余儀なくされた()騎手で、探偵社で働いている。妻ジェニイとの結婚生活もうまくいかず、事件の調査中に腹に銃弾を受けて入院。自暴自棄に生きていて、自己肯定感はゼロ。要するに、スタート地点がそれまでの主人公より明らかに低く、重すぎるハンデを背負っている。

 小説的には、気力体力でまき返さなければならない距離が長いほど苛烈なドラマが生まれ、すべてを克服したときの達成感も大きい。顔に傷のある女性との淡いロマンスも、この設定でなければ成り立たず、シッドの高潔さを際立たせている。前作『興奮』でハウダニットの金字塔を物したあとだから、『大穴』では心機一転、思いきった主人公を考案したのではないかと推察するが、ともあれそこから異色のヒーローが生まれた。

 他作品とのちがいをもうひとつ。シッドが働く探偵社の同僚チコ・バーンズの存在も大きい。いわゆるバディものは探偵小説の一類型だが、シッドとチコの愉しい会話は重要なコミックリリーフになっている。これもそれまでにない新たな試みだった。

 こうした特異性から、『大穴』はシリーズ初期における大きな飛躍であり、ブレークスルーだったと考える。十数年後の『利腕』でシッド(とチコ)が再登場するのには、それなりの理由があったのだ。『利腕』でシッドは、左手に加えて右手まで失うかという恐怖を味わう。この点の解釈については北上次郎氏の『利腕』文庫版解説に(とど)めを刺すので、そのまま引用したい。

 

 七〇年代の冒険小説が失っていたヒーローの肉体を、ディック・フランシスは恐怖という入口から入り込んで描いて見せたのである。大自然や凶悪な組織と闘う時代が過ぎ、敵を見失って形骸化されていた冒険小説に、己れの裡にひそむ弱さを克服する重要な闘いがあることを巧みなストーリー展開の中に示して見せたのである。

 ではなぜ、その記念すべき闘いの復活にシッド・ハレーが選ばれたのか。

 それはおそらく、ディック・フランシスの描いた主人公の中でシッド・ハレーが“恐怖心”にいちばん近い位置にいたからではなかったか。誇りを持ち、ストイックで意志強固な男は他にもいる。だが“恐怖心”ということであれば、彼こそが最短距離だ。

 

 旧シリーズで次にシッドが登場するのは『敵手』だ。フランシス作品では総じて「敵」が早めに現れる。フーダニットより、真相が見えてきてからのアクションに重点が置かれるからだが、『敵手』はその極端な例と言えるだろう。

 

 父フランシスによるシッド・ハレー四作目は『再起』。それまでほぼ一年一作のペースで書きつづけていたのが、メアリ夫人の逝去から六年間、新作発表がなく、断筆が心配されたなかでのまさに「再起」だった。そういう作品の主人公にシッドはいかにもふさわしい。

 前置きが長くなった。「新・競馬シリーズ」のフェリックス・フランシスは、本書でまたシッド・ハレーを登場させた。父フランシスの作家人生の節目で大事な役目を果たしてきた主人公である。いつか書きたいと思っていたのかもしれない。

 今回、シッドは四十七歳になるところで(現実世界の時間経過とは一致しない)、『再起』で初登場したマリーナ・ファン・デル・メールとの結婚後、サスキア(サシイ)という愛娘が生まれている。シッドを攻撃すると、あきらめるどころかさらに強く立ち向かってくることを知った悪人たちは、脅迫のためにシッド本人ではなくマリーナや、気心を許した義父チャールズを狙うようになり、それを避けたい彼は探偵業から引退して、金融取引で生活の糧を稼いでいた。そこに英国競馬統括機構(BHA)会長のサー・リチャード・スチュアートが訪ねてくる。

 サー・リチャードは、いくつかのレースで不正がおこなわれていると確信していた。が、自分の組織の保安部で相手にされなかったので、個人的に調査を依頼しに来たのだった。シッドは、もう調査はやめたときっぱり断るが、続く出来事で家族ともども否応なしに事件に巻きこまれていく。ほどなくマンチェスター方面に凶悪な存在が見えてきて……と王道の展開だが、手慣れたもので、物語がストレートに胸に迫ってくる。父親に勝るフェリックスの美点として、バランス感覚があげられよう。どの作品でもキャラクターやプロットがバランスよく配置され、流れが滞ることがない。必要なところには的確な説明も入り、初めての読者にも親切な設計になっている(もっとも、父フランシスの場合には多少バランスを欠いたところが独特の魅力になったりもするので、一概に良し悪しは言えない面もあるが)。加えて本書では、シッドの左手の義肢(武器としても使ってきた)に関する新たな展開もある。巻末の医師のひと言には誰もが驚くはずだ。

 本作の原書を初めて読むまえに、じつはふたつのことを祈っていた。ひとつはシッドがまた馬に乗ること(『大穴』でのあの騎乗!)、もうひとつはおなじみのあの人物が出てくることだ。そのうちひとつは叶ったと報告しておく。クライマックスをグランドナショナルに持ってきたのも心憎い演出だ。父フランシスは騎手時代に三百五十勝以上をあげたが、グランドナショナルだけには勝てなかった。息子がそのカタルシスをここでシッドに託したようにも思える。

 フェリックス・フランシスの「新・競馬シリーズ」はこのあとも、Crisis(第八作。主人公は危機管理コンサルタント)とHands Down(第十一作。シッド・ハレーものの続き)の邦訳刊行が予定されている。作者はこのシリーズをどう進化させているだろうか。これまでの愛読者にも、父子の作品に初めて触れるかたにも愉しんでいただけるように、大のフランシス・ファンである文藝春秋の永嶋俊一郎氏と全力を尽くす所存なので、ぜひご期待いただきたい。

 最後に、旧シリーズを概観するガイドブックとして、「ミステリマガジン 二〇一〇年六月号 特集ディック・フランシスの弔祭」(早川書房刊)がよくまとまっているので、ご興味のあるかたには一読をお勧めする。

 

 二〇二五年三月

文春文庫
覚悟
フェリックス・フランシス 加賀山卓朗

定価:1,265円(税込)発売日:2025年05月08日

電子書籍
覚悟
フェリックス・フランシス 加賀山卓朗

発売日:2025年05月08日

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