本書はジェフリー・ディーヴァーのThe Goodbye Man(2020)の全訳です。
ディーヴァーといえば、科学捜査の天才といわれながらも捜査中の事故で首より下のほとんどが麻痺してしまった名探偵リンカーン・ライムですが、二〇一九年に新たなヒーローとして生み出されたのが、本書の主人公であるコルター・ショウ、「懸賞金ハンター」を自称する快男児です。
コルターはリンカーン・ライムと対照的なキャラクターとして造形されています。自身はラボに陣取って微細証拠と推理で犯人を追いつめるライムに対し、コルター・ショウは行動派です。幼い頃に両親とともに峻険な山中になかば隠れるように暮らしたコルターは、父からみっちりとサバイバル術を叩きこまれています。アウトドアでの行動は得意中の得意。冷静にリスクを分析しながらも、アクティヴに謎を追い、敵を撃退します。
リンカーン・ライムはニューヨーク市警の顧問のような立場なので、事件の舞台もニューヨーク市に限られますが(例外は『エンプティー・チェア』『ゴースト・スナイパー』『ブラック・スクリーム』など)、コルター・ショウは懸賞金のかかった案件が出たと知れば、車を飛ばして現地に急行します。自分の手足の代わりに動くアメリア・サックスやロン・プラスキーをはじめとするチームで犯人を追うのがライムならば、コルター・ショウは折々にサポートしてくれる者はいたとしても、基本的には孤独。
これほどまでに対照的なのは、ディーヴァーの意図なのでしょう。リンカーン・ライムにはできないタイプの物語を書くために生み出されたのがコルター・ショウとみて間違いありません。思えばこれまでもディーヴァーは、『追撃の森』『限界点』といったアクション・スリラーをノンシリーズで発表してきましたし、ジェームズ・ボンドをフィーチャーした『007 白紙委任状』という作品もありました。そうした物語のためのヒーローとして、コルター・ショウが必要になったのでしょう。
前作『ネヴァー・ゲーム』では主な舞台がシリコンヴァレー界隈でしたが、本書『魔の山』の大部分は、都会から隔絶された険しい山中で展開します。そこにある自己啓発施設が、謎の焦点だからです。
ヘイトクライムを行なった疑いのある若者ふたりが逃亡しているという報を聞いて、彼らを追いはじめたコルターですが、あっさりとふたりを発見。ところが、うちのひとりが逃走し、断崖から身を投げて死亡してしまう。彼らにかかっていた容疑は冤罪で、それはすぐに晴れるようなものだった。なのになぜ彼は自殺してしまったのか? すこし前に、この若者が問題の自己啓発施設に行っていたことを知ったコルターが調べを開始すると、そこがカルトであるらしきこと、この施設について取材を進めていた記者が殺害されていたことが判明します。
かくして、コルターはカルト村への潜入捜査を開始します。そこは屈強な警備係が目を光らせ、携帯電話などの通信機器は没収され、外部から隔絶された場所でした。しかも入所早々、コルターは取材を試みたジャーナリストが暴行される場面を目撃します。ここには何かがある――だがしかし、何があるのか? この集団に隠された目的とは?
容易に人里に逃げることのできない隔絶された地で、通信手段もないまま単身で謎に挑むコルター。リンカーン・ライム・シリーズとは異なったスリルとサスペンスが横溢した作品となっています。しかも今回は、謎を解くだけでなく、ここから脱出しなければならないのです。大自然のなかでサバイバル術を身につけたコルターの面目躍如たるアクションが展開するクライマックスは本シリーズならでは。
もちろん、著者はディーヴァーですから、アクションもただのアクションではありません。過去にも『限界点』や『追撃の森』で見せたように、敵の動きや意図や武力を判定し、敵の先を読み、騙す――そんなふうに知力も尽くしたアクションが展開されます。このあたりは、『ストーンサークルの殺人』『ボタニストの殺人』などのミステリで日本でも人気のM・W・クレイヴンが書いたアクション・スリラー『恐怖を失った男』に通じるものがあります。
しかし、ディーヴァーの念頭にあったのは、リー・チャイルドのジャック・リーチャー・シリーズでしょう。トム・クルーズ製作・主演で映画化された『アウトロー』など、世界的な人気を誇るシリーズです。主人公ジャック・リーチャーは、ちょうど西部劇の流れ者のように、身一つでアメリカ中を放浪しながら、元兵士のスキルを駆使してトラブルを解決してゆきます。シリーズの魅力は、アクションとしての見事さに加えて、リーチャーによる快刀乱麻の推理と、それを丁寧に組み上げるチャイルドのミステリ作家としてのセンスにもあって、そんなところがディーヴァーのコルター・ショウ・シリーズと共通しています。
さてコルターの物語では、彼の「父」にまつわる謎というもう一つの物語が語られています。もともと大学教授だったコルターの父アシュトンは、あるとき、国家を揺るがしかねない「ある秘密」を知り、危険から逃れるためにコルターら三兄妹と妻を連れて、山中に身を隠したのでした。やがて父は不可解な経緯で死亡してしまいますが、それは問題の「秘密」にまつわる密殺であると睨むコルターは、その謎をずっと追っているのです。
周到な父アシュトンが残した手がかりを、本書でコルターは発見します。次作『ファイナル・ツイスト』は、コルターが父を殺した「敵」と「秘密」を追う謀略サスペンスとなっていて、『007 白紙委任状』でもみせたスパイ・スリラー作家としての腕前を堪能できます。
現在のところ、シリーズは第四作『ハンティング・タイム』までが邦訳されています。父の秘密に『ファイナル・ツイスト』でケリをつけ、いわばセカンド・シーズンのはじまりとなった『ハンティング・タイム』は、逃亡する母娘を追手より先に救出しようとするサスペンスのなかに、まるでドンデン返しの限界に挑戦するかのように大小さまざまな反転や驚愕が仕掛けられた野心作となっています。物語が後半にさしかかるや、息つく間もなく連続する逆転の数、実に二十個以上! ドンデン返しの魔術師と異名をとるディーヴァーの、まさに本領発揮というべき快作です。
なおディーヴァーは、コルター・ショウのファースト・シーズン三部作を書くことに集中し、リンカーン・ライム・シリーズを一時中断していましたが、『ファイナル・ツイスト』発表後に、『真夜中の密室』『ウォッチメイカーの罠』の二作をすでに刊行しています。前者は、厳重に施錠された部屋に忍びこむ謎の愉快犯〈解錠師〉の事件が思わぬ大事件に発展、後者は、題名からお察しのとおり、名作『ウォッチメイカー』以来、名探偵ライムの好敵手としてたびたび登場してきた天才犯罪プランナー〈ウォッチメイカー〉が登場、名探偵と犯罪王の最後の対決が展開します。
巨匠ディーヴァーが、“静”の名探偵ライムに飽き足らずに生み出した“動”の名探偵コルター・ショウ。今年(二〇二四年)には、ジャスティン・ハートリー主演でドラマ化されています(『トラッカー』)。日本でもApple TV+やDisney+で視聴できるようです。アクションと知のスリルを映像でもお楽しみください。
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