「将軍側近」から徳川政治を読み解く
正徳三年(一七一三)のある日。七代将軍家継の側近、間部詮房は増上寺に参詣した。
間部詮房が江戸城に帰る頃になり、家継は「越前を迎えに出る〈越前が迎に可出〉」との御意向で、玄関まで行き、間部が帰城すると「越前、帰ったか〈越前帰りたるか〉」と喜び、抱かれて中に入った。その睦まじい様子を「いかなる不思議な巡り合わせだろう。御親子様(六代家宣・七代家継)共にこのように御意に叶うとは、珍しいことだ」と江戸城で働く者たちは噂したという(「兼山秘策」正徳三年八月二十三日)。
幕府に仕えた儒学者、室鳩巣の伝えた、幼少の将軍とその側近の姿である。家継は、この時数え年五歳。間部詮房(越前守)にすっかり懐いているようでほほえましい。詮房は一日中家継にかかりきりで、出仕の際には色々と事前に指導をし、儀式や祝儀の際には袴をはかせる等、身の回りの世話に至るまで仕えていたという。
先代の六代家宣のころは、新井白石とともにその政策立案に関わった間部詮房は、幼い家継には一転して守役のように寄り添っているのだ。側近は、仕える将軍のタイプにより、その在り方を変えるのである。
本書は、この将軍の「側近」の在り方から徳川政治を解き明かそうというものである。
「将軍側近」がキーパーソンになるわけだが、辞書で「側近」を引くと「貴人、権力者などのそば近く仕えること。また、その人」とある(『日本国語大辞典』)。この意味で「将軍側近」を捉えると、「将軍のそば近くに仕える者」となり、小姓、小納戸といった将軍の身の回りの世話をする者までも含まれる。
しかし、本書で用いるのは、この広義の捉え方ではなく、狭義の「将軍側近」である。つまり、将軍のそば近くに仕える者の中で、その存在が将軍に政治的に影響力を持った者であり、「出頭人」「側用人」「御側御用取次」などを指すこととする。
それでは、なぜ、将軍側近から徳川政治を読み解くことができるのだろうか。それは、政治体制がいかに変化しようとも、将軍権力を背景にしなければ実際の政治は動かないからである。
しかし、冒頭の七代将軍家継は政治を動かしていたとは言えない、と思われるかもしれない。幼少将軍は、どのような存在なのだろうか。
室鳩巣が水戸家の家臣から聞いたという、次のようなエピソードが伝えられている(「兼山秘策」正徳三年七月二十三日)。
ある日家継は、食事の際に、鱚の開きを焼いた物に少し手を付けてから、側の者に次のように仰せになったという。
家継「掃部ぢいは、もう食事はしたか〈掃部ぢいは、食事はや仕候哉〉」
側の者「井伊殿は帰宅されました〈井伊殿帰宅以後にて候〉」
家継「未だ、食事をしていないのであれば、この焼き物を食べさせるように〈いまだ食事不仕候はゞ此焼物たべさせ候へ〉」
そこで急遽、側衆が井伊家に使者に立つことになった。井伊は殊の外喜び、家来たちにまで祝儀の品があり、上使に料理をふるまい、金五枚などを贈った。
「掃部ぢい」とは、大老井伊掃部頭直該のことである。この出来事の内実は、五歳の男の子の気まぐれに家臣が振り回された、ということかもしれない。しかし、井伊の行動には、「将軍」から思いがけない下賜品が遣わされたという喜びにあふれている。将軍が何歳であろうとも関係ないのだ。そこには、確かな「将軍権威」が存在していることがわかる。
もちろん、五歳の家継は自らの手腕で政治に直接関わることはできない。それでもこの時代、幕政運営という点においては、将軍が幼少であることによる影響は少なかった。政務がそれなりに滞りなく行われるのは、老中を中心とした幕閣の指示が通るからである。彼ら幕閣に将軍の信任があり、将軍の命を具現化する存在として見なされているからこそ、諸大名でさえ彼らの命に従うのだ。つまり、幕閣の背景に「将軍権威」があるからなのである。
将軍とは、実際に政治を運営する人々が権力を行使する「正当性」の根拠であり、権力の源、すなわち「権威」として存在していることが、その役割の根幹といえよう。
このような、将軍が自ら政治的手腕を発揮しなくても政務が滞らないシステムは、四代将軍家綱の時代に成立したと考えられている。将軍が、整備された政治機構の中で上申されて来ることを承認さえすれば、政治が動いて行く体制が形成されたのである。
しかし、だからといって、将軍の権力は縮小してしまったわけではない。それ以降も、五代将軍綱吉政権期の柳沢吉保や、冒頭の間部詮房のように、将軍がこれまで要職に就いた家の者ではなく、新しく抜擢することも少なくなかったのである。つまり、将軍はすべてを超越した政治権力を所持しているといえる(山本博文「総論 将軍権威の強化と身分制秩序」)。
よって家継のように、権威を発揮するのみの存在であったのか、はたまた五代綱吉や八代吉宗のように、自ら政治的手腕を示したのか、といった将軍のあり様とともに、その意志の伝達者である「将軍側近」が政治世界にどのように関わったか検討することで、徳川政治を読み解くことができるのである。
「将軍側近」から見る江戸時代の三つの時期
本書は、
第一章 徳川幕府創成期の将軍とその側近─初代家康から四代家綱まで
第二章 外から来た将軍とその側近─五代綱吉から八代吉宗まで
第三章 「将軍側近」と老中を兼ねる人々─九代家重から十一代家斉まで
の三章立てで構成されている。将軍側近の変遷からみると、江戸時代は、幕末の混乱期は別にしたこの三つの時期に、分けて考えることができる。
本論に入る前に、まずはその三つの時期を概観しておきたい(福留真紀『徳川将軍側近の研究』『将軍と側近─室鳩巣の手紙を読む』)。
【第一期】初代家康から四代家綱まで
徳川幕府創成期であるこの時期は、「将軍側近」自体が政治の中枢の担い手である。初代家康においては、当然ながら、家康に戦国期から仕えた家臣たちが最初の幕府の諸職を構成した。
また、生まれながらの将軍であった三代家光・四代家綱の場合は、幼少時から仕えていた側近が、将軍就任時から政治中枢に関わる役職に就いている。代表的人物には、家光政権期で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱や、家光と衆道の関係にあったとも言われる堀田正盛などが挙げられるだろう。「将軍側近」が、将軍の成長とともに、幕府官僚に移行していくのである。
【第二期】五代綱吉から八代吉宗まで
綱吉・家宣・吉宗には、共通点があった。つまり、前将軍の弟、前将軍の甥という傍流、および御三家の一つである紀伊家といったように、生まれながらの将軍ではなく、外からの将軍就任だったのである。
先にも述べたように、徳川幕府の政治機構は家綱政権期に確立したといわれている。よって、特に将軍自身が積極的に政務に関わらず、あるいは関われず、「権威」としてのみ存在しても幕政運営には影響がなかった。
しかし、将軍自身が政治的手腕を発揮しようとした場合には、すでに出来上がっている政治構造のシステム内では思うようにはやりにくい。綱吉・家宣・吉宗は、まさに自ら政治の舵取りをするタイプの将軍であった。彼らは、その助けとなる自らの側近を必要とした。それが、綱吉~家継の「側用人」(柳沢吉保、間部詮房ら)、吉宗の「御側御用取次」(有馬氏倫、加納久通ら)である。
また、この時期、幕府の公式記録に「側用人」「御側御用取次」という役職名がないことから、彼らは「役職」に任命されたのではなく、将軍との人間的繋がりから成り立っている存在であったといえよう。
彼らの権限を説明するにあたり、江戸城の空間構造から考えると分かりやすい。つまり、江戸城の空間は「大奥」「奥」「表」に分かれている。「大奥」は、女性たちの生活空間、「奥」は将軍の執務・生活空間、「表」は政治・儀式空間である(深井雅海『江戸城』)。
そして、彼らの権限は、奥向のこと(将軍の私事に関する職務)と「裏」の世界(根回しの政治構造)に限られていた。老中を筆頭とする官僚組織とは「裏」において共存したが、表向の政務(江戸城の政治・儀式空間である「表」に所属している役職の者が中心となって行う政務)の部分にその権限を発揮することはできなかった。
つまり老中が、側近ではなく幕府官僚として存在し、「将軍側近」と役割を棲み分けつつ、両者が関わりあい、政治を運営していたのである。
【第三期】九代家重から十一代家斉まで
この時期に「御側御用取次」「側用人」が幕府の公式記録の中でも役職名として記されるようになっている。「将軍側近」が「役職」となったのである。
家重の側近である大岡忠光は、宝暦四年(一七五四)三月一日に御側御用取次より奥兼帯若年寄、同六年五月二十一日に側用人に就任している。これ以降、御側御用取次と側用人が共存する、二種類の「将軍側近」がいる時代となった。
また、側用人の多くが若年寄や奏者番兼寺社奉行から就任し、側用人退任後に、老中に就任しているケースが多数を占める。五代綱吉政権期以降は、奏者番をスタートに、寺社奉行となり、大坂城代・京都所司代あるいは、そのどちらかを務めてから老中となるのが主流であった。つまり、この頃側用人は、幕府官僚のトップである老中への昇進コースに組み入れられたのである。
また、側用人は、非常置の役職となっている。つまり、将軍の側近くに必ずいた、これ以前の時期の「側用人」の「将軍側近」としての特徴は、主に御側御用取次に受け継がれ、側用人自体は官僚組織に組み込まれていったと解釈できよう。第二期の「将軍側近」とはその在り方が全く違うのである。
この頃の側用人として最も著名な人物が十代将軍家治政権期の田沼意次であろう。田沼は絶大な権力を持っていたといわれるが、その背景には、側用人から老中に就任した後も、奥向の御用を務めることを命じられたことがある。このような者に、同じく家治政権期の水野忠友、十一代家斉政権期の水野忠成などがいる。彼らは、その権力の及ぶ範囲が老中としての「表」「裏」に、側用人としての「奥」が加わり、すべてを網羅することになった。よって、絶大な権力を握ることになったのである。
将軍のあり方が変わった
本書では、この十一代将軍までを、三つの時期に分類して、読み解いていく。十一代将軍家斉の時代を区切りとしたのは、なぜか。それは、これ以降に将軍のあり方が変わってしまったからである。
明治時代、旧幕臣は、家斉の大御所時代を幕府の「隆盛」の時代とし、その後衰退したと見ていた。旧幕臣が主宰した雑誌『旧幕府』第一巻第九号には、来春一月に発行する号の内容の予告として、幕末だけでなく、さらにさかのぼって「十一代文恭公の御代に昇り、衰運の幕府のみならず、隆盛の幕府をも」書こうと思っている、と記している。幕末の幕府は「衰運の幕府」であることに対して、「文恭公」つまり徳川家斉の時代は、「隆盛の幕府」だったというわけだ。
また、三田村鳶魚は『大名生活の内秘』の中で、明治の中頃まで、高齢者が語る「世の中のよかった話」は、「大御所様の時分」であり、「江戸の春は文化・文政、幕府の花は家斉将軍、とみだりに憧憬された」と記している。
この見方をより深めるため、「文恭院殿御実紀」の家斉の死去についての記事を見てみたい。
文恭院殿はもとより世子にもあらず。養はれて大統をつがせたまひしなれど。世を治めさせたまへる事当家の随一と申すべきにや。御子もまた多くしてこれにつぐものなし。遊覧としては乗輿しばしば城内を出させたまへど。事故ありては仮にも。一歩を廓外に踏せ給ふ事なし。治世多きがゆへに。書に満るといへどもよく和順し。四海富有なるがゆへに。万民苦む事なし。また遊王となりて数年を楽しみたまふ。嗚呼 福徳王と申たてまつるべきかな。いま臣命をうけて。はじめにこの記を録したてまつる事。実に忝しと申すべし。
まず、家斉が嫡子ではなく養子でありながら、世を治めたのは「当家の随一」と述べていることに対し、十四代家茂・十五代慶喜もいずれも養子であるが、幕府の衰えていく運命を止めることが出来なかった。家斉は子沢山であり、弊害もあったが、世継ぎの確保は政権の安定には必須の事である。しかし、十三代家定の時には、跡継ぎをめぐり、大規模な政争が起こり、その後の幕府政治にも影響を与えた。家斉が江戸から出ることがなかったことは安定の象徴であり、十四代家茂は、体制の危機に直面し、京都に長期滞在することになった。
このように見て行くと、旧幕臣らが、大御所時代を、「隆盛の幕府」として語る所以が理解できる。彼らの中では、大御所時代以前と、十二代将軍以後に時代がわかれていたようだ。
この史料の稿本には、慶応三年(一八六七)から明治三年(一八七〇)まで、校閲や筆入れの跡があり、幕末に編纂されている可能性が高いことから、久住真也氏は、幕末の徳川将軍の衰運を視野に入れて書かれている、と指摘している。
そして、その境目は、将軍のあり方の違いでもある。
それまで、将軍は「権威」そのものであった。しかし、幕末におよび、将軍自身が対外関係などの「国事」に対応する「能力」を求められ、朝廷や諸藩とともに政治の舞台で役割を負う存在になったのである(久住真也『幕末の将軍』)。
混乱の時代、将軍のあり方がガラリと変わったことにより、「将軍側近」の姿も変わっていった。当然、幕府の姿が変わり、崩壊への道へと進んでいくことになる。
それでは、これから「将軍側近」の変遷を読み解きながら、約二百六十年にもわたった徳川政治の実態を明らかにしていく。
なお、本文中に、史料の原文を引用した箇所がある。江戸時代の人々の肉声が書かれている部分や、現代語では「言葉の力」が伝わりづらいと考えた史料については原文を記し、現代語訳を添えたり、本文中で意味を解説しながら紹介した。なお原文は、難解なものについては、書き下し文とした。ぜひ、当時の人々の「言葉」も、味わっていただきたい。
また、登場人物の年齢は、数え年である。
<はじめに ――「将軍側近」とは何か」より>
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