──啓太郎は、黙って正蔵に頭を下げた。
川越に、別れを告げたのである。
彼は、大名の家臣であり、主家の柳沢家が、甲府へ移ることになったからだ。その後柳沢家は、吉保の嫡男吉里の代に大和郡山(現在の奈良県大和郡山市)に移され、そのまま、大和郡山藩主として幕末を迎える。
そのようなことから、多くの柳沢家の史料が、大和郡山市にある公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会や、市の教育委員会に伝わっているが、そのなかに「戸田能登守忠真事」(大和郡山市教育委員会所蔵豊田家史料)という小冊子がある。柳沢家の家臣である豊田家が所蔵していたものである。
「戸田能登守忠真」とは、作中にも登場していた寺社奉行の戸田忠真のこと。史料の中に、年月日は書かれていないものの、その内容から、元禄十年(一六九七)十一月十四日に、江戸の柳沢邸でおこなわれた、将軍の前での三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)らによる十五番の裁許のうち、最初の「野論」について書かれたもののようである。これが、作中の秣場騒動のいきさつに似たところがあるので、紹介してみたい(なお、「保明」から「吉保」と名乗りを改めるのは、元禄十四年十一月二十六日以降であるが、混乱を避けるため、小稿の中では「吉保」に統一する)。
この時の訴訟の内容は、吉保の領地、つまり川越の百姓と、小身の旗本の領地の百姓が境論争を起こしたことだった。吉保の権勢を笠に着て他領の山を奪おうとしていたのであり、川越側が悪いのは明らかであったが、本来の訴訟担当である勘定奉行が判断に迷い、評定所扱いとなったため、寺社奉行で月番だった戸田忠真が判決を下すこととなる。
しかし、忠真も頭を抱えた。この時、父親の戸田忠昌は、老中を務めていた。自分は覚悟の上だが、吉保側を敗訴とすると、父の職務に差しさわりが出るのではないか。
私のために老いた親に苦労を掛けるのは、これ以上不孝なことはない。不孝を思って、正義を曲げるのは忠義ではない。どうしたものだろうか。
親への孝行か。主君への忠義か。忠真が悩んでいるさなか、吉保からの使者が訪れる。
私の領地の百姓の裁判が、近日行われると承りました。用捨無く宜しくお頼みいたします(「御用捨無く宜しく頼み入る」)。
「道理次第で判断するまで」と答えたものの、迷いの残る忠真は、父忠昌に相談する。忠昌は、次のように述べたという。
御奉公で、有るべき道を守り、事を行った結果、そのことで咎められて、父子ともにどのように仰せ付けられても、そなたの不孝ではない。父をかばい、自らの立場をおもんぱかって、未熟な働きをすれば、それこそ不孝である。正直に事を執り行った上は、全くもっていささかも不孝であることはない。
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