2019年本屋大賞受賞『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ 著)の冒頭を公開します。
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目覚まし時計を止めカーテンを開けると、柔らかい光が部屋に広がった。春特有のふわっとした暖かさ。入学式や始業式。新しいスタートが四月にあるのは正解だと思う。穏やかな日差しは、緊張や不安の半分くらいは包んでしまう。高校三年の始業式で構えるようなこともないのだけど、温かい光に心は落ち着いていく。
昨日まで春休みのせいで、少しぼやけた頭でダイニングへ向かうと、濃いだしと油のにおいがした。なんだっけ、このにおい。と大きく息を吸い込んで思い出した。
ああ、そうだった。去年、二年生がスタートした日も朝から食べさせられたっけ。胃が目覚めてないのに困ったなと、げんなりしながら食卓に着くと、森宮さんがにこにこしながら大きなどんぶりを私の前に置いた。
「おはよう。優子ちゃん、今日から三年生が始まるね」
「そうだね。でも……」
私はどんぶりをのぞきこんで小さなため息をついた。やっぱりかつ丼だ。朝食をしっかりとる私でも、朝から揚げ物はきつい。
「今年は受験もあるし、高校最後の体育祭に文化祭に、勝負の機会も多いだろう」
「そう……かな」
二年生が始まる日の朝も、森宮さんは「母親は子どものスタートにかつを揚げるって、よく聞くもんな」とはりきってかつ丼を用意してくれた。森宮さんの「親とはこういうものだ」という考えは時々ずれていて、私は戸惑ってしまう。
「さ、熱いうちに食べて。早起きして作ったんだから」
「うん。そうだね、ありがとう。いただきます」
森宮さんが実の親だったら、「朝からかつ丼はきつい」とか、「始業式ぐらいでげんを担ぐなんておかしい」と主張できただろうか。森宮さんはあくびをしながら、自分にコーヒーを淹れている。早くから用意してくれたんだ。相手が誰であっても、わざわざ作ってくれたものを拒否するのは難しい。
「森宮さんは食べないの?」
私は胃を驚かさないようにおそるおそるとんかつをかじりながら、前に座る森宮さんに聞いた。森宮さんの前にはどんぶりではなく、小さな紙袋が置かれている。
「俺、朝からカレーでも餃子でもいけるんだけど、さすがに揚げ物はなあ。昨日、メロンパン買ったからそれ食べるよ。ここの店の、おいしいって評判らしいんだ」
森宮さんが袋から取り出したメロンパンからは、バターの香ばしいにおいが漂っている。私だって朝から揚げ物なんていらないし、評判のメロンパンが食べたい。この人は、共に食卓を囲む人が同じものを食べるということを知らないのだろうか。
「あ、このパン、噂どおりなかなかおいしい」
「よかったね」
私はメロンパンをほおばる森宮さんをうらめしく見ながら、かつ丼を口に入れた。胃も少しずつ活動し始めて、何とか受け入れてくれている。
「朝だからさっぱりしてるほうがいいと思ってヒレ肉にしたんだ。柔らかくするために肉を叩きまくったんだけど、どう?」
森宮さんは自信ありげな口調で言った。
「そうだね。おいしいよ」
食べ慣れてくると、だしの染みたご飯は優しい味で、それなりにおいしく思えてくる。朝からかつ丼はこりごりだけど、森宮さんの努力は感じられる味だ。それに、森宮さんはどんな失敗作でも私が作った料理は必ず完食してくれる。私だってちゃんと食べきらないと。学校に行くまであと二十分。急がないと間に合わない。私は勢いをつけて、かつを口にほうり込んだ。
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2020.09.14書評 -
小説執筆のきっかけは「採用試験の自己PR」──瀬尾まいこ
2019.10.09作家の書き出し
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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