2019年本屋大賞受賞『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ 著)の冒頭を公開します。
「え?」
「プリン、食べちゃったんだ」
申し訳なさそうに頭を下げる森宮さんに、「大丈夫。二つ買っておいたから」
と私は言った。父親らしくなくても共に生活しているのだ。お菓子を買うときは、ちゃんと森宮さんの分も用意するようにしている。
「それがさ、一個食べてみたらおいしくてついつい二個とも食べちゃったんだ。朝、無性に甘いものが食べたくなったんだよね」
「二個とも? 朝から?」
「そう。俺、朝からなんでもいけるんだ。ほら、餃子でもグラタンでも食べてるだろ」
森宮さんの食欲など知ったことじゃない。プリンを食べようと意気込んでいた私は、がくりとした。
「食後に食べようと思って買っておいたのに」
「悪い、悪い。そうだ、こないだ会社でお土産に信玄餅もらったのが鞄に入ってたはずだから、代わりにあげるよ。ちょっと待ってて」
森宮さんはソファの上の鞄をあさって「ほら、あった」と小さな包みを奥から出してきた。
「これ、いつの?」
受け取った包みはぐしゃぐしゃによれている。
「もらったのは十日ほど前かな。大丈夫大丈夫。餅ってそうそう腐らないだろう」
「餅だなんて、全然食べたいものと違うのに」
「そう言わずに。おいしいからさ。さ、どうぞ」
森宮さんがにこりと笑うのに、「じゃあ、いただきます」と私は包みを開くと、小さな餅を口に突っ込んだ。そのとたん、たっぷりついたきな粉が喉の奥へ広がった。
「そんな慌てて食べなくたって」
むせかえる私を、森宮さんは笑った。
「慌てたんじゃないよ。滑らかなプリンが通るはずだったのにって、食道も気管も怒ってるんだよ」
「恐ろしい内臓だな」
「体中がプリンを楽しみに待ってたの!」
私は呼吸を整えながらそう訴えた。信玄餅はおいしいけれど、プリンとはあまりに違う。
「ごめんな。俺、本当の父親じゃないから、自分の食欲を抑えて娘に残しておくってことができないんだな。申し訳ない」
咳き込んで涙ぐむ私にお茶を淹れながら、森宮さんは言った。そんなので、父親にはまってるだなんてよく言えたものだ。それに、本当の家族じゃなくたって、人のものを食べたりしないだろう。買っておいたプリンを二つとも食べられてしまうなんて、不幸は身近な日常にこそ潜んでいるのだ。これは十分同情に値する。私は森宮さんをにらみつけながら、お茶を一気に飲み干した。
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