なぜ、過労死がなくならないのか?
2014年、遺族らが求めてきた過労死等防止対策推進法(過労死防止法)が国会で成立した。同法は度重なる深刻な過労死事件を受けて、政府がはじめて過労死防止対策を国の政策として体系的に進めることを明言したものである。しかし、その後も連日のように過労死の報道が続いている。
しかも、電通や三菱電機、東芝から果てはNHKまで、有名大企業やその関連会社で過労死事件が繰り返されている。中には、まったく同じ組織のまったく同じ部署で過労死が二度発生しているケースまで存在する。なぜ、社会的な非難がこれほど高まっているにもかかわらず、過労死を繰り返す大手企業が後を絶たないのだろうか。
実は、過労死が発生しても、企業は巧みに法律の穴を突くことでまったく何のペナルティも受けないで済ますことができる。過労死紛争の過程をつぶさに観察すると、企業側が過労死をそもそも存在しなかったものとして扱うことで、「対策費用をゼロにできる」という実態が見えてくる。こうした「過労死が起こったときの企業側の行動」という側面は、過労死被害の実態に比べてほとんど社会に知られてこなかった。
本書で紹介していくような法律の盲点を突いて、過労死防止対策を取らず過労死を繰り返しながら、賠償額は最小限に抑えようと行動する企業は少なくないのが現実なのだ。こうした行動を放置したままでは、過労死対策は進まない。それどころか、一人一人が安心して働くこともできないだろう。
私はこれまで毎年およそ5000件の労働相談に関わってきた。中には過労死遺族から直接寄せられる相談もある。また、過労死を含む労働問題に関する多くの社会調査を実施してきた。本書では、そうした労働相談と社会調査から見える過労死問題の現実を提示していきたい。
「過労死」が起きても誰も調べに来ない
そもそも「過労死」はどう定義されるのか。労災保険制度との関連で定められている法的な認定基準の説明は第3章冒頭で行うが、一般語としては仕事による過労・ストレスが原因で、脳・心臓疾患、呼吸器疾患、精神疾患等で死亡に至ることを指し、より広義には、同じ原因によりうつ病などを発症して自殺してしまう過労自殺を含む。
そして、あなたがもし「過労死」したらその法的処理はどうなるか、想像したことはあるだろうか?
これまで会社に貢献したあなたに、同僚や上司は心を痛め、家族には手厚い補償をしてくれるに違いない。国の労災保険(労働者災害補償保険)が下りるように、きっと同僚たちは協力を惜しまないはずだ──おそらく多くの人は、このように考えるだろう。
しかし、現実は異なっている。過労死が引き起こされた多くの会社では、箝口令が敷かれ、過労死の事実そのものが隠ぺいされる。その一方で、家族は職場で何が起きていたのか知る由もない。会社の人に「職場では何も問題はありませんでした」と説明されてしまえば、それを信じるしかないだろう。残された家族はあなたの過労死に「気づく」ことができるかどうかさえ、定かではないのだ。
生前に職場への不満──長時間労働やハラスメント──を家族に打ち明けていた場合にはどうだろうか。残念ながら、職場にいなかった家族には、それらを証明することは困難だ。逆に、会社側はすべての証拠を握っているうえに、同僚たちの証言をコントロールすることもできる。それどころか、「会社で怠けてばかりいた」とか、「好意を寄せていた同僚にふられてしまったことが自殺の原因だ」などと、あなたの家族は虚偽の説明をされてしまうこともある。
ならば、【遺書】を残していたとしたらどうか。遺書の中で会社の非道さを克明に告発しておけば、何らかの公的機関がしかるべき措置をとってくれるはずだ。そう思うかもしれない。しかし、残念ながら、詳細な事情を綴った【遺書】が残されていた場合でさえ、何らかの公的な責任追及が始まることはない。もし自殺の現場に遺書があったとしても、警察は粛々と「自殺」としての処理を進めるだけであるし、労働基準監督官が現場にやってくることもない。
「死人に口なし」の現実
突然死や自殺が法的な意味で「過労死」とされるためには、残された遺族があなたの死を「過労死」であると確信し、法的権利を行使しなければならない。「過労死」は、遺族が会社や国に対して行う法律行為を通じてはじめて「過労死」となるのだ。
多くの場合、その過程は想像を絶する凄惨なものである。遺族は肉親の突然の死を受け入れる間もないままに、会社と対峙しなければならない。会社側は自らに責任がないことを証明するために、ありとあらゆる資料・証言を動員し、時には捏造さえする。社員の業績は葬り去られ、尊厳は切り刻まれる。多くの遺族がその中で心を病んでいく……。
私はこれまでに数十人の過労死・自死遺族にインタビュー調査を行ってきたが、その中で「家族が生きていた証、尊厳をもって働いていたことを会社に認めてほしいだけなのだ、決して金が欲しいわけではない」と、何人の方から聞いたことだろう。
同時に、「“死人に口なし”状態で、あることないこと、言いたい放題だった」、こうした言葉を聞くことも、一度や二度ではなかった。
なぜ企業はそのように自社の社員を侮辱するような行為を行ってしまうのだろうか。それは、過労死による賠償金などの「コスト」を少なくしたいからだ。そのために、彼らの裁判戦略は過労死の責任を、亡くなった本人や家族に転嫁していく作業になってしまう。残念ながら、それが、少なからぬ企業にとっての「過労死対策」になっている。
いわば、会社は遺族との争いの中で、社員を二度殺すのである。
過労死が法律的な意味で過労死になるまでには驚くほど多くのハードルがある。だから、過労死等の労災申請件数は実態に比べて非常に少ない。明らかになっている過労死は「氷山の一角」なのだ。また、たとえ遺族らが申請を行ったとしても、認定される割合も極めて低い。企業側の法的責任を追及する民事訴訟に至っては、さらに少ない。
つまり、過労死等を引き起こした企業の大半が、法的に何の責任も取っていないことになる。
本書では、こうした「過労死後」の法的処理のプロセスを客観的に明らかにし、本当に必要な過労死対策の在り方について問題提起をしていきたいと考えている。
過労死問題は、「命の値段」を問う
同時に、本書では以上のように繰り返される過労死の深刻さが、今日の資本主義社会の構造との関係で加速している点を見ていく。
その一つが、この社会における「命の値段」についての考察である。これまでは「中高年男性」に多かった過労死が、今ではあらゆる属性・階層に拡散している。その結果、社員の命はその能力や国籍、障害の有無といった属性によって「値踏み」されるようになっている。
民事訴訟の中で、紛争の争点は「損害の額(価格)」という市場原理に適合的な形に収められてしまう。すると、本来は社会正義を争うはずの裁判が、実際には「命の値段」に大きな格差を生じさせることになる。若者/老人、健常者/障害者、日本人/外国人、正規雇用/非正規雇用……。亡くなったのは「稼げる人間だった」のか否かによる価格付け。それは労働者(の持つ労働力)も市場の一部で「商品」として扱われる資本主義社会の宿命であるともいえる。資本主義社会の深化による「過労死の多様化」は、結果的に命の価格の多様化をも生み出しているのである。
また、日本の資本主義経済は世界的に見ても特殊である。その特殊性ゆえに過労死を深刻な問題にし、今では過労死は「Karoshi」として世界語になっている。本書ではなぜ、日本ではとりわけ過労死が深刻化したのかを解き明かし、そして過労死が蔓延するようなやり方は、結局は日本経済の長期的な停滞を引き起こす原因ともなってきた点を指摘する。
さらに、今日の資本主義社会は、AI・テクノロジーの進歩によって大きく変容しており、「雇用の終焉」が叫ばれることもある。テクノロジーの進歩は私たちを「労働から解放する」とも言われる。ところが、テクノロジーの進歩はこれまでほとんど常に過重労働の拡大といったディストピアをもたらしてきた。「テクノロジーと資本主義社会」という古典的な問題が現代にも現われているのだ。
一方で近年では、若い労働者たちからは、日本型の「就社」への反発が強まっている。彼らは日本型の資本主義下で会社に滅私奉公するよりも、スキルを磨き、自由に転職するキャリアを思い描いている。日本企業の世界的な凋落もこうした若者の「就社離れ」に拍車をかけている。経団連は若年労働者の組織へのエンゲージメントを高めるべく、「ジョブ型雇用改革」を推進しようとしている。
政府は雇用改革にとどまらず、「雇用によらない働き方」をも推奨しており、岸田政権時にはより自律化した人的資本を活用する「新しい資本主義」が標榜された。これからの資本主義社会ではそもそも「雇用」はなくなっていき、皆が自立した「自由な」フリーランサーとなっていくというものだ。
ジョブ型に雇用改革が進み、そもそも企業に雇われる「雇用」さえなくなっていく。そうであれば、ハラスメントや長時間労働はなくなり、労働者は過労死から解放されるのだろうか。これからの資本主義的労働の変容の中で、雇用システムや過労死問題はどう変わっていくだろうか。本書の後半ではこうした点を考察し、対策も提示していく。
なお、本書では資本主義経済や企業の一般的な行動原理について言及するが、もちろん、過労死防止対策に真剣に取り組んでいる企業も存在することはいうまでもない。本書の分析は、あくまでも社会科学に基づく構造的な分析を念頭に置いた記述であることに留意していただきたい。
そして本書では、過労死事例を紹介するにあたって企業や組織名、加害者名、被災者名で実名と仮名が混在しているが、表記の基準は原則、企業・加害者名については労災(公務災害含む)認定されたもの、民事および行政訴訟で会社や行政機関側の責任が認定されたか、被災者側の勝利的和解で決着した場合は実名とし、被災者側については実名報道の有無で判断した。あるいは報道によりすでに広く知られる事例については例外的に企業名を実名にしたものもある。
また、文脈上過労死と過労自死(自殺)をあえて区別せず、「過労死」と表現する箇所がある。企業の過重労働やハラスメントが原因で命が奪われた現象という意味で、両者は本質的に同質であると考えられるからだ。「過労自殺」ではなく「過労自死」の語を用いるのも、それが自ら望んだ死(自殺)ではない点を強調する意図からである。
さらに、本書では人間の命の代償について「コスト」と表現することがある。この表現には私自身も抵抗があるが、本書では企業の行動選択において労働者の命がどのような位置に置かれているのかを客観的に表現するためにあえてこの言葉を用いることにした。
「序章 なぜ、過労死がなくならないのか?」より
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