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全身真っ青の謎の男は一体何者なのか? 前代未聞の多重犯罪劇が幕を開ける! 井上先斗さん『バッドフレンド・ライク・ミー』冒頭ためし読み

ジャンル : #エンタメ・ミステリ

バッドフレンド・ライク・ミー

井上先斗

バッドフレンド・ライク・ミー

井上先斗

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イッツ・ダ・ボム』で第31回松本清張賞を受賞しデビューした井上先斗さんの第2長篇『バッドフレンド・ライク・ミー』が2025年6月20日に発売となります。

 主人公・森有馬(もり・ゆうま)は姫に飛ばれて300万円の借金を抱えた元ホスト。金もなけりゃ自信もない、そんな自分に嫌気が差しています。フードデリバリーで糊口を凌ぐ彼のもとに怪しげな「うまい話」が……。謎の男・ジンは何を企んでいるのか? 冒頭部分をお届けします。


森有馬と決断の時

 森有馬は、自宅から蒲田駅周りの繁華街まで自転車を走らせることを出勤と呼んでいた。誰に言い訳をしているのだろうと自分でも時おり考える。あるいは、そうするふりをする。

 薄く雲の広がる、ぼんやり青い空だった。今年の三月は冬と夏のちょうど中間の雰囲気で、今日も、立ち止まっていることが苦にならず動いても汗に嫌な粘りは出ないような温度と湿度だ。有馬はそれも、春らしいというより、どっちつかずだと感じている。

 走りやすくはあった。これでピークタイム前ともなれば地蔵が沢山いるだろうと予想していたのだが、いざ駅の近くまで来ても、なかなか見つからない。JR東口のバス乗り場の角に、ようやく一人、デリバリーバッグを背負った仲間を発見した。

「おはようございます。タカハシさんだけですか」

 ブレーキを緩く引きながら話しかける。

「うん、今はね。さっきまでは結構たまってたけどシゴト多くてすぐ、はけた。僕もマック一件やって戻ってきたところだし」

 言いながら、タカハシさんは手に持っていたスマートフォンをハンドル中央のホルダーにはめた。

 蒲田駅の周辺はウーバーイーツの配達員にとっておいしい場所だ。店の近くで配達リクエストの通知が来るのを待つ、所謂ウーバー地蔵の名所だった。

 ファーストフード店にレストラン、カフェが狭い地域に密集していて、多くが一階もしくは二階に店を構えている。バスロータリーや大通りは歩道となっているスペースが広く自転車に乗りながらの待機がしやすい。商店街の中にも、ベンチの置かれた、ちょっとした休憩場所が幾つかある。短時間の駐輪に使えるフェンスやポールだってすぐに見つけられる。それでいて道は全体的に太いので、ピックアップや配達でスピードを出さなければならなくなった時も問題ない。

 なるべくしてスポットになっているとしか言いようがないのだが、有馬は、自分が始めてみるまで、各所にいる配達員の姿を認識すらできていなかった。

「タカハシさんがとめてるから、シゴト少ない日なのかと思ったけど、逆なんすね」

 地蔵が多い時は街を流すようにしていると以前、語っていた。配達員が密集しているのを快く思わない人も多いから、とのことだったが、本当は自転車がぶつかりあうことを避けたいだけではないかと有馬は推測している。

 有馬は、タカハシさんが乗っているロードバイクが配達員での収入を一か月分ついやしてようやく買えるかどうかの代物だということに気がついている。ヘルメットもGIROで、シャツはきっちりアディダスだ。フリーランスエンジニアと聞いているが、体力づくりを兼ねた隙間時間の暇つぶしでやっているだけなのだろう。ガツガツしておらず、気楽そうに世間話をしてくれるあたりは、有馬は嫌いではない。

 ペダルを小さく逆回ししてチェーンの音を立てたところで、有馬の掌の中、スマートフォンが震えた。配達リクエストだ。見積もり金額七百円、ピックアップ場所は和食ダイニングさつき庵で、届け先はヴィレッジ大森。マンションらしい。住所にも大森と入っている。予想所要時間は二十五分で案内されているが、たぶん、十五分あれば終わる。有馬は画面の承諾ボタンをタップして、ポケットへスマートフォンを滑らせた。

「いってきます」

 タカハシさんの「どうぞ」を背中で聞きながら走り出す。地図は確認していない。ピックアップ場所の店がどこなのか、蒲田周辺なら有馬はもう迷うことはない。以前から利用していた店もあるが、駅周辺の飲食店の位置についても配達員を始めてから学んでいったことの一つだ。匂いだけ知っている店がやたらに増えた。

 信号を渡って商店街の中へ入る。並んでいるのはほとんどが飲食店で、半分以上が居酒屋だ。空瓶で埋まったビールケースや、生ゴミの袋のような、前夜の残骸が通りに置かれている谷間で定食屋とラーメン屋が昼の客を待っている。さつき庵は、そんな区域を貫く東口中央通りの奥、ビジネスホテルの一階にあった。

 シティサイクルから降りてスタンドを立てる。数分離れる程度ならロックをかける必要も感じない。ロードバイクとは、何もかもが違うのだ。

「すいません、ウーバーです」

 自動ドアを抜け、声を張り上げる。レジに立っていた店員が「はい」と応じて、キッチンの方を一瞥する。「番号お願いします」有馬はスマートフォンの画面を見せた。「確認します」奥へ引っ込む店員の腰に巻かれた黒いエプロンのひらめきを眺めながら、有馬は慣れちまったなと考える。

 客だと勘違いされないように、入ってすぐ発声すること。やり取りを最小限にするため階段を上っている最中にスマートフォンの画面の準備をしておくこと。店員が離れたタイミングでバッグを下ろし、ジッパーを開けておくこと。そもそも、ここのさつき庵はちゃんとピックアップできる段階になってからリクエストを出すからと、すぐに向かったこと。何もかもが身についている。何のためにもならないことを、と有馬は思ってしまう。思ってしまうと、思ってしまう。

 店員が戻ってきた。シールで封のされたビニール袋を笑顔で受け取り、バッグへ入れながら「ありがとうございます」を言う。ジッパーを閉めたら、すぐ店外へ出る。階段を下りつつピックできたことを報告した。ついでに地図のアプリケーションを開いて届け先の場所もチェックする。その頃には、さっき感じた料理の温度と匂いは有馬の身体から離れている。もとより、自分の所有物ではない。ヴィレッジ大森五〇一号室の住人のものだ。

 自転車を発進させる。商店街を抜けて都道11号へ出たところ、ブックオフの前で信号が変わるのを待っていると、タカハシさんが駅の方から走ってくるのが見えた。どこかの店のリクエストを受けることに成功したらしい。すれ違う瞬間に会釈する。タカハシさんは手を上げて返してくれた。緑に塗装された車体が滑るように道の果てへ消えていく。

 信号が青になった。

 すぐに都道11号が呑川という細い川を跨ぐ。雨が降った翌日にこの川から立ち昇る臭いを嗅ぐ瞬間、有馬はいつも何かの区切りを感じる。この線を越えたら、もう蒲田ではないという感覚があった。ここから、目に映る色彩に刺々しさがなくなって建物の高さも一段階低くなるのだ。橋を越えて最初の信号で折れ、大森へ向けて東邦医大通りを走り出してからは、その気持ちは更に強くなる。呑川の臭いと共に、蒲田の景色を置き去りにしていく。

 時間帯もあってか、車の通りはさほど多くない。広い車道の脇を誰に遠慮することなく飛ばしていく。

 届け先へ向かうまでの、この時間が有馬は好きだった。

 自分が何をする人間なのかというのが、はっきりしているのが良い。走ることだけに集中できる。配達員仲間からの同意を得られたことはない。遅れたり事故ったりしてはいけないと緊張するから嫌だとみんな言う。有馬は、そうした緊張よりも、ただ漠然とリクエスト通知を待つ時間の方がよほど耐えられない。

 内川という、やはり細い川を渡ったところで停車した。ここから先のルートをスマートフォンを取り出して確認し、またすぐにしまう。手遊びするようにハンドルを小さく左右に振りつつ、内川の水面へ目をやった。特別に澄んでいるわけでもなさそうだ。なのに、呑川のような臭いはなかった。

 有馬は、再び、走り出す。もうそろそろ、相手方のスマートフォンに配達員がすぐそこに近づいていると通知が入るはずだ。

 ヴィレッジ大森は、信号を曲がってすぐに発見することができた。周辺では頭ひとつ抜けた十階建てほどのマンションで、空にも雲にも紛れない、くっきりとした輪郭を持っていた。垢抜けている。ベージュの外壁はありふれたものだけれど、角が縦に線を引くように赤茶色の煉瓦風になっているのがアクセントとして効いている。築年数はそれなりに経っていそうだが、それもどちらかというと安心感のような、ポジティブなものに繫がっていた。有馬は、駐輪場の隅へ自転車をとめた。

 お届け先情報を再確認する。住所は間違いない。ユーザー名は〈M・I〉。メッセージ欄に〈オートロックなので、エントランスで部屋番号を呼びだしてください〉と書いてある。イニシャルでの登録の割に、律儀な依頼者だ。

 ガラス戸を押し開け、エントランスロビー奥の自動ドア前にあるオートロックの操作盤に向かう。ICカードでの解錠ができるタイプだった。マンションの外観から考えるに、どこかで設備を一新したのだろう。しっかりと管理されている証拠だ。監視カメラもきっと、飾りではない。

 五〇一号室からは、すぐに応答があった。ちょっと低めの声をした女だった。

『お疲れ様です。今、開けます』

 無言でも良いのに、と有馬は思う。そういえば置き配指定でもなかった。つくづく、律儀だ。

 自動ドアをくぐる前に壁の掲示板をチェックする。時々、〈フードデリバリーの配達員さんは階段でお願いします〉と書かれていることがあった。ここは、そんなことないらしいのでエレベーターのボタンを押させていただく。降りてくる者も、一緒に乗る者もいない。それでも有馬は開閉のボタンの間に指を置きながら五階へ上った。降りる前に、かご奥の鏡を一瞥し、バッグを背負い直す。

 エレベーターを出て左に曲がってすぐの部屋だった。表札は出ておらず、ドアにも飾りの類はない。所帯持ちではなさそうだ、と考えながら有馬はバッグを下ろし、袋を取り出す。カメラ付きのインターフォンを押した。名乗る間も与えてくれずに『はーい』と返事があり、足音がした後にドアが開く。

「あっ」

 有馬の口から音が漏れた。石原茉莉。言いかけた。M・I、そうか。

 長い髪が煌めきながらすらりと伸びている。中学生の頃から変わっていない。

 服装はちょっと、ちぐはぐだ。上半身は薄い水色のカーディガンに無地の薄手のシャツ、どちらもノーブランドのようだが生地はしっかりしている。対し、ボトムスは、灰色の緩いスウェット。テレワークか、と有馬は推測する。縁が太い眼鏡も少し野暮ったいが、きっと、普段はコンタクトレンズなのだろう。

 久しぶりと言おうとしたところで「すいません、ありがとうございます」と頭を下げられた。有馬の口が閉じる。「早かったですね」と愛想に満ちた声で追撃された。

「いえ」

 弱々しく差し出した袋を、力強く受け取られる。茉莉は「ありがとうございましたー」と語尾を伸ばし、もう一度、頭を下げた。文句のつけようがない笑顔を浮かべていた。有馬が礼をすると、ドアはゆっくりと閉まる。音をたてないように気をつけてくれたのだろう。

 一歩下がると、バッグが踵に当たった。我に返って背負いなおしてエレベーターの前まで戻る。さっき有馬が上げてから誰も使っていなかったらしい、ドアは即座に開いた。

 鏡と、向かい合う。

 ちゃんとセットしていない黒髪に、しばらくサロンに行っていない眉。カラーコンタクトは入れていないし、メイクもしていない。Tシャツにジーンズ、どちらも安物。中学生の頃の自分に、かなり近い姿だと感じた。数か月前までとは大違い、かなり素の状態だ。大体、スマートフォンにはウーバーイーツに登録している顔写真と、Yumaという名前だって表示されていたし、いるはずだ。

 それなのに。

 苦笑しながらエレベーターを降りる。何年も会っていない中学時代の同級生なんて、そんなものだろう。

 スマートフォンが振動するのを感じ、慌てて取り出す。ウーバーイーツのアプリケーションからだ。今回の依頼の評価はGOOD。チップも百円もらえました。理想的なくらいにちゃんとしている、お客様だ。

 首を振る。

 エントランスを出たところでスマートフォンがもう一度ふるえた。今度はLINEの通知だった。お馴染みのアイコンが画面に映っている。首に手を当てたポーズで、遠くへ目線を送っている綺麗な金髪の男。ケースケさんだ。

 ホスト用のアカウントである。ケースケさんが他に持っているのかどうかは知らない。有馬は、ホストとして使っていたものとは別、昔から持っていた方のスマートフォンとアカウントだが。

〈三百万の調子はどう?〉

 有馬は無表情のまま〈すいません、全然っす〉と返事を打つ。

〈そうか〉

 そのあと、何も来ない。有馬の方で耐えきれなくなった。

〈この間の話、ちょっと聞かせてもらってもいいですか?〉

 すぐに〈本気?〉と返ってくる。

 有馬はスマートフォンの画面の上で、数秒、指を泳がせた。

 唾を呑み込む。

 振り返って、マンションを見上げた。五階の辺りを睨んだつもりだったが、なんだか酷く高いようで、よく見えない。

 返答を入力し、送信ボタンを、タップした。

〈本気です〉

 

森有馬と七つの試練

 蒲田駅から新宿駅までは、品川経由で三十分かかる。大井町で乗り換えする場合だと三十四分だ。有馬はこの距離、というよりも直通ではなくどこかで一度、乗り換えを挟まなければいけない区間であることを、ちょっとした頼りにしていた。

 だから、会合場所としてサウスタワー新宿という名前をケースケさんから伝えられた時は多少の逡巡があった。検索してみると線路を挟んで髙島屋の向かいにあるホテルだったので少し安心した。歌舞伎町からは、離れている。

 当日、有馬は大井町ルートを選んだ。蒲田から大井町まで京浜東北線で六分、そこから埼京線直通のりんかい線に乗るため、JRの改札を出て長いエスカレーターをくだる。りんかい線の改札の先、ホームまで更にくだったが、もっと地下で良いくらいの気分だった。

 車内は空いていた。

 平日の昼過ぎに都心へ向かう人々は、一人一人、別の目的を持っていることが見て取れる。ビジネスバッグを膝の上に置いたスーツ姿の男にベビーカーのハンドルを握ってドア前に立つ若い女、固まって座っている、着飾った様子の髪の白い老婦人たち。皆、さして切迫している様子がないことだけが共通点だ。

 大井町と大崎の間で地上へ出て、窓から日が差し込むようになる。どこかでなにかのお手本として見たものが再演されているような眩しさを、有馬は目の前の光景に感じた。

 新宿へ到着する。ため息を吐いてから、立ち上がった。埼京線のホームから新南口改札のあるフロアまでのエスカレーターはやたら短かった。

 駅構内を抜け、サザンテラスへ出る。幅の広い遊歩道が傍らに線路を見下ろすようにして代々木方面へ続いていた。空の広さに解放感のようなものを一瞬だけ覚えたあと、高層ビル群が目に入り苦笑する。この遊歩道もまだ、見下ろされている側なのか。

 目的であるサウスタワー新宿を見つけるまでに少し時間がかかった。気づいて、これかよ、と唸った。白い壁が眩しい、左右のビルよりもひときわ立派な建物だ。といってもサザンテラスからでは高層ビル同士の実寸の差なんてろくに分からない。ただ高い広いではなく、迫力の問題だ。

 サウスタワー新宿は大手私鉄のグループ会社が経営しているシティホテルである。正式にオープンしてからは、まだ一年も経っていないはずだった。

 待ち合わせ場所は二十階、ティーラウンジと聞いている。中層階まではテナントとしてオフィスやレストランが入居していて、高層階がホテルという構造になっている、らしい。二十階はホテルの方だ。

 入館してみると、静かすぎない程度に落ち着いているといった雰囲気で、鼻を撫でるフレグランスも冷たい感触だ。別に高級店が並んでいるわけではないが、ウーバーイーツの受付はしていなさそうな店ばかりだった。有馬は、口角を捩じるように上げた。

 新宿という街は駅のどの出口から出るかによって姿を変え、各エリアの間は断絶されている。サザンテラスから代々木にかけては有馬はろくに歩いたことすらない。新宿に川は流れていないけれど、甲州街道がその代わりになっている。

 ホテルをご利用の方はこちら、という案内を見つけた。矢印に従い格子戸風の装飾がされた自動ドアの先へ入るとエレベーターホールになっていた。

 今、通ってきたテナントのエリアが寒色を多く使った無機質な内装だったのに対し、ここは洋館風と言えばいいのだろうか、有馬は言葉を捜すが見つけられない。天井にはシャンデリア、それに照らされる白い壁には漆喰の暖かな質感があり、下部には鈍く確かな艶を放つ腰板もあしらわれている。床は毛足の短い赤の絨毯で、靴底が擦れる音さえしない。ちょっとした細部の装飾も、上品に光っている。

 呼びだしボタンを押すと、エレベーターのドアが優雅に開いた。かごの中まで絨毯が敷かれている。壁がガラス張りになっていて外の景色が見えた。サザンテラスが遠くなっていくが、上昇の速度は決して速くはない。悠然という表現を有馬は見つけた。続いて、これが本物のホテルか、と思った。これまで有馬が入ったことがあるホテルが目指していたものは、きっと、こういう感じなのだろうと、調度のひとつひとつに感じる。窓の外、歌舞伎町の方角へ目を向けたが、あのラブホテルたちは見えなかった。

 高級感とは、ネオンの輝きにくるんで押しつけてくるものではなかったのか。少なくとも有馬の知る新宿はそうだった。ここは、こちらが見つけて、受け取ろうと手を伸ばしてくるのを静かに待っている。故に有馬は怖気づいてしまう。

 二十階に着いた。

 広い、とフロアを見渡してまず感じた。エレベーターホール、かごと狭い空間を経由してきたからかもしれない。壁らしい壁がない、フロント、ロビー、ラウンジといった全てのエリアがフラットに繫がっている空間設計のおかげでもあるだろう。どこからか甘い香りが漂っている。

 右手がティーラウンジらしい。ロビーから少しだけ距離が取られ、一段、床も低くされている。足の低いテーブルと座面の深いソファのセットが、適度な距離を保って並べられている。向かい合う相手の顔をよく見るためだ、と有馬は知っている。偽物の空間で学んだ知恵だ。

 席は七割方、埋まっていた。埼京線で見かけたのと同じ人たちが座っているような気がした。カジュアルに、気負わずに、この空間を利用している。有馬は自身の服装を見直した。二年前に買ってもらったディオールの春物ジャケット。ちょっと、恥ずかしくなる。

 ラウンジの入り口でスタッフに声をかけられた。有馬は「待ち合わせです」と答える。

「予約名はジンとなっていると思います」

 窓際、角の席へ案内された。既に一人、座っている。ケースケさんではないのは遠目で分かった。そもそも、同席しないと事前に伺っている。

 男は、上座を空けるようにしていたから、有馬が最初に見たのは後ろで結んだ髪だった。ヘアゴムで団子を作っている、有馬はチョンマゲと呼んでいるヘアスタイルだった。ファッション雑誌での呼ばれ方はマンバンヘア。お団子の先はまとめずにポニーテールのようにうなじを毛先が触る程度に長く伸ばしている。

 前に回って、今度は服装に驚く。真っ青なスーツを着ていた。ネイビーや紺ではなく、はっきりと青い。ネクタイまで同色だ。しかし、身についている。組まれた足の靴下の覗き方から、ちゃんとしたオーダー品だと見当がついた。

 有馬が「その」と小さく言うと、男は「どうぞ」と掌を向かいの席へひらめかせた。

「失礼します」

 一礼をして腰を下ろす。ソファは柔らかく、有馬の体を程よく沈ませてくれた。肘掛けを使う勇気は持てず、膝の上に手をのせる。

「愛李くん、今日はよろしく」

「よろしくお願いします。ジン、さん」

 愛李と呼ばれるのは久々だと思いながら、有馬はジンの表情へ視線を走らせる。照れのようなものが一切、見受けられなかった。アイリという男の名前らしくない響きに愛の字を重ねるセンスは源氏名特有のもので、普通の人は自然に発声できないはずだ。とはいえ、ジンと名乗り、その名前でホテルのラウンジの予約までしてしまう人なのだから、そうした慣れがあるのは当たり前か。

 年齢を推測する。有馬より年上なのは確かそうだが、それ以上は分からない。マンバンヘアに顎髭、すれた業界人の雰囲気はある。ふと見ると、目まで青かった。カラーコンタクトだろうか。

 ジンがテーブルを人差し指で叩いた。

「どうぞ」

 ドリンクメニューが開かれていた。値段は書かれていない。ページの上部に〈苺のアフタヌーンティー〉と記載がある。「アフタヌーンティー」と有馬が呟くように問うと「イエス」と返ってくる。有馬はラウンジを見渡した。ジンの後ろの席に座っている、恐らくはカップルの男女二人組のテーブルの上に、三段のケーキスタンドが置かれているのが見えた。

「来るんですか、あれ」

「春の苺づくし。きっと美味しいよ。監修してるパティシエの店へ行ったことがあるんだ」

「はあ」

 有馬は、ドリンクメニューへ視線を落とす。季節のフレーバーティーと紅茶について幾つもの種類が案内されているが、じっくり味わえる気分ではない。

「ブレンドコーヒーにしますが、ジンさんはどうされますか」

「ありがとう。もう決まっている」

 ジンが手を挙げると、間を置かずにスタッフが近づいてきた。「ブレンドコーヒーと、レモンミントのハーブティーを」「かしこまりました」淀みなく、やり取りが交わされ、やがてワゴンでケーキスタンドとコーヒーとハーブティーが運ばれてくる。

 アフタヌーンティーと言うくらいだから、コーヒーはこの空間では粗雑に扱われるものなのだろうと有馬は思っていたのだが、サイフォンから丁寧に注がれたので驚いた。香りも、良い。「いただきます」と、口へ運んだ。きっと、これが良い味なのだろう、と有馬は思った。

「よく来るんですか、アフタヌーンティー」

 ジンはすぐには答えなかった。ハーブティーをポットからカップへ注ぎ終えてから「まあね」と笑う。

「愛李くんの方はどうだい」

「あんまり」

「意外だな。女の子が来たがったりしそうだけれど」

「同伴とかに、喜ばれる気はしますね。俺は使ったことないですけど。アフターの時間に、アフタヌーンティーって名乗ってるとこあって、行ったことがあります。これにのってるのが肉寿司とかでしたけど」

 有馬はケーキスタンドを指さす。

「そんなんばっかだから、食べたことがあるのは偽物のやつだけ、ですね」

「偽物。じゃあ、これは本物なんだ」

「そうだと思います」

 ケーキスタンドの段一つ一つが、会話を楽しみながら目と舌で味わうためにコーディネートされていることが伝わってくる。特別に派手ではないし、もちろん量があるわけではない。花をそえることに尽力されている。ミルクプディング、苺とルバーブのタルト、苺のサンドイッチ、スコーン、適当に切り分けたわけではなく、元々このサイズを目指して作られたことが見て取れる一口サイズのスイーツやセイボリーたちだ。有馬が聞いたことのない料理も混ざっていた。苺と生ハムとオリーブが串刺しになっているが、果たして合うのだろうか。未知の世界だ。

「面白いね」

 何がですか、と言いそうになった。反発してるように聞こえてしまいそうだと気づいて止める。だが、表情に出ていたらしい。ジンは薄く笑いながら続けた。

「愛李くんとして、つまりはホストとしての君以外が、アフタヌーンティーに行くところが想像できないんだ、と思ってね」

 有馬の手が空中で止まる。それで固まってしまうのは間抜けに思えて、コーヒーカップの取っ手に指を当てた。

「単なるデートにも良いんじゃないかな」

 ジンは小さく首を振った。背後の席の男女を示したのだろう。

「そうですね。なんか、発想になかったな。モテないからでしょうね、俺」

 カップの取っ手から指を放して、ケーキスタンドへ手を伸ばす。「下段から食べるんでしたっけ」と聞いた。

「気になっているところから食べればいいよ。ただ、甘いものの後に塩気があるものは食べたくないし、温かいものは冷める前に食べたいだろう。だから、大抵はセイボリーから摘むんだろうね」

 そう言いつつジンが手に取ったのは、苺と生ハムとオリーブが重ねられた例の串だった。

「ホストは休止中なんだっけ」

「そういうことになっています」

 ジンがスコーンを割った。苺のジャムをつけて口へ運ぶ。有馬はコーヒーを一口飲んだ。ジンがスコーンを更に砕く。有馬は「飛んだようなもんなんですけどね、要は」と付け足した。ようなもん。要は。付け足しに更に足してしまった。

「だけど、お店の先輩とは、まだ繫がっている」

「本当、ずっとお世話になって、尊敬している人なので」

「その先輩のもとに戻りたい」

 有馬は小さく息を吸った。

「ケースケさんが、そう話したんですか」

「いいや、当て推量だ」

 ジンはスコーンの最後のひとかけらを食べた。

「ただ、情報は揃っている。飛んだはずなのに、そのホスクラの先輩とまだ連絡を取り合っている。一方的に相談しているだけ、というわけでもない。良い話があれば、紹介までしてくれる。もっと言えば、その先輩は、その良い話とやらを持ちかけてきた奴に話を通す際『ちょっと店を休んでいる奴が』という言い回しをしていた」

 話の大枠は読める、とジンはティーカップを持ち上げる。

「カケはいくらだい」

 言われて、有馬は自分の手元を見下ろした。飛んだ理由についてはまだ言ってなかったが、これも推測したのだろう。

「三百です。去年の年末締め日の直前に飛ばれました」

 正確には、売り掛けではなく、立て替えだ。

 売り掛けとは、所謂ツケ払いのことである。客が当日に支払いができなくても締め日にまとめてお金を貰えればいいというシステムだが、店やキャストが客にカケを強要することによって、とんでもない金額に膨れ上がってしまうことが多発していると最近、騒がれだした。

 悪質店舗摘発の波を受け、有馬が勤めていたホストクラブ・ドラゴンデイズでは、一律で売り掛け禁止とお触れが出された。その代わりに使われるようになったのが立て替えだ。その場でお金がない客の支払いをキャストが立て替え、後で客がキャストへ立て替え金を渡す。店と客ではなくキャストと客という個人間での借金だから問題がない。そういう理屈だ。

 売り掛けと何が違うかと言えば、正常に回っている状態では何も変わらない。客はその場で金がなくても遊べる。店とキャストは締め日までに金を貰えれば何も問題なしだ。立て替えと言っても、実際にキャストがその場で現金を払うわけではなく、締め日までに入金するという形を取っているので、キャストが大金を常に手元に置いておく必要もない。

 問題は、客が金を入れずに、逃げてしまった場合だ。立て替えはあくまで個人間の借金だから、店にとっては関係ない。キャストが払うべき金を払っていないものとして対応する。実のところ売り掛けの時代から、そういう運用がされることはあったのだが、立て替えという建て付けがはっきりできてからは、取り立てが厳しくなった。

 有馬はこの三か月、逃げ回っている。しかし、店から、という気はあまりしていなかった。

「三百万円ね」

 ジンは苺のサンドイッチに手を伸ばす。

「給料からは払えなかったんだ」

「それができるプレイヤーではなかったので」

 この言い方でも有馬は見栄を張っているような気分になる。ナンバーと呼ばれる売上ランキング上位には縁のないキャストだった。

「いつからホストやってたの」

「大学を中退してからなので、三年前から」

「面白いな」

「何がですか」

 今度は声に出してしまった。

「君という存在が」

 有馬は押し黙った。そんなことを面と向かって言われたのは初めてだった。

「続けようか。もう少し、話を聞かせてほしい」

「なんで、ですか」

 絞り出したような声がでた。

「俺のことなんてどうでもいいじゃないですか。仕事の話をしましょうよ」

 ケースケさんからは具体的に何をやらされるのか、何も聞いていない。ただ、色んな意味で今の有馬にすすめるだけの話ではあるのだろうとは理解している。こんな明るいところで話をしている時点で予想外で、どうにも落ち着かないのだ。

 ジンは、ゆったりとした手つきで苺とルバーブのタルトを皿へ運んだ。

「仕事のために愛李くんのことを理解したいんだ。地元は東京かな」

 有馬は「成田」と答えていた。怒って席を立つことができる立場ではなかったし、それ以上に、ジンの声には素直に答えたくなってしまうような不思議な調子があった。「今、住んでいるのは」「蒲田です」「歳はいくつ」「二十三」「お父さんお母さんは」「生きてはいると思います」「最近、会っていないんだ」「東京出てからは」「ホスクラ飛んでからはどうしてるの」「ウーバーしてます」一問一答は詰まることなく進んだ。その合間で、ジンは別のフレーバーティーを注文し、有馬は苺と生ハムとオリーブの串をようやく食べた。料理が意図しているところは摑めなかったが、快い味はした。

「ホストをやろうとした切っ掛けはなに」

「バイト先の先輩が、一緒に面接行こうぜって言ってきたんですよ」

 大学を辞めて、何をするわけでもなく時間を浪費していた頃だった。アルバイトは大学に行っていた頃から働いている大手チェーンの居酒屋だったが、シフトを可能な限り入れても生活を続けるには不安な程度しか稼げない時給だった。どうせなら試しに、と誘いに乗った。

「結局、その先輩はすぐにどっかに行っちゃったんですけど。向いてないとか言って」

「愛李くんは向いていたわけだ」

「向いていたって言うか、俺、上手くこなせちゃうんですよ。こういうの」

「どういうの」

「下っ端の仕事っていうか。どこに気をつけて、何をしなければならないとか。覚えが早いみたいで。ケースケさんとか、それで可愛がってくれて」

 ジンが、プディングのカップをケーキスタンドから皿に移した。

「人間関係で続けようと思ったわけか」

「大きかったとは思います。でも、もっと強かったのは、なんか、ケースケさんみたいになりたかったというか。あの人、もう三年、一千万プレイヤー継続しているんですよ。もっと言うと、ここ二年は月間三千万切ったことないはず」

 初めてケースケさんのことを生で見た時、眩しいと思った。歌舞伎町の中に設置されている大看板、あるいは店頭のディスプレイで顔が大写しになっていたから、ドラゴンデイズに近づいたときから意識していた顔ではあった。だが、実際に対面した際にあったのは有名人に会ったという感慨ではなく、もっと別なものだったように思う。

 いるべくしている。あるべくしてある。そんな力強い輝きがケースケさんにはあった。

「成る程ね。面白い。大体わかった」

 ジンはいつの間にかプディングを食べ進めていて、最後の一すくいになっていた。それもすぐ口の中へと消えていく。

「愛李くん、ホストに復帰したいわけではないんだろう」

 有馬の右目が見開かれた。

「さっき、ケースケさんのもとに戻りたいって推理したのジンさんじゃないですか」

「そこがポイントなんだ。愛李くんは店に復帰したいのではなく、ケースケくんのもとに戻れる、もっと言えば店に堂々と帰れる、そういう自分になりたいんだ。第一義は、あくまでそちら」

「何か違うんですか」

「大違いなのは愛李くん自身が一番わかっているだろう」

 有馬は自分のカップを見た。空になっている。それを持ち上げて、下ろした。

「ただ店に戻りたいならどうにでもなるだろ。たとえばケースケくんはいきなりこの話を紹介したのかい。話を聞く限り三百万程度なら貸しにしてくれそうに思うけど」

 図星だった。有馬は、立て替え金を代わりに出してやるというケースケさんの提案を断っている。

「実際の金銭事情がどうかは知らないが、ご両親が健在なら、そこから引っ張ってくるという手もあるだろう。なんならディオール着られるくらいなんだから、今も真に困窮してるわけではなさそうだ。ホストやっていた数年間での、ちょっとした貯金ならあるんじゃないか。それを差し出し、後は毎月の給料から天引きしてくれ程度の話はお店とできるだろう。なのに、どれもしていない。愛李くんみたいなタイプが本当に金欲しいなら、ウーバーなんてやらないよ」

 有馬は俯いた。

「とはいえ戻りたい思いが噓というわけでもない。だって、縁を切りたいなら、とっとと逃げてしまえばいいんだから。キャストが完全に行方をくらますなんて、珍しい話でもない」

「飛んだはずの奴が、カブキの別の店にいたなんてこともありました」

 頰をひくつかせながら言った。黙ったままでいることが、段々と耐えられなくなってきた。

「中途半端な位置にずっといる。何故か。愛李くんが真に欲しいものが、金でも、ホストという立場でもないからだ。君は」

 ジンが言葉を止めた。しばし、沈黙が挟まる。有馬が顔を上げたところで「自信が欲しいんだ」と続きがきた。

「よかろう、与えてやる。ただし、困難な道のりにはなる」

 ジンの顔は、まさに有馬が欲しいものに満ち溢れているように見えた。

「困難」

 有馬は思わずオウム返しをしてしまう。なんだか似つかわしくない単語が出てきた。こうした話は、「簡単なお仕事」と言うものではないのか。

「愛李くんの願いがもっと簡単なものなら良かったのに、とこちらも思うよ。たとえばこんな演出だって準備していた」

 ジンが右手を掲げた。目が吸い寄せられたところで、ぱちんと指が鳴らされる。

 瞬間、今まで聞こえていた音が全てなくなった。

単行本
バッドフレンド・ライク・ミー
井上先斗

定価:1,650円(税込)発売日:2025年06月20日

電子書籍
バッドフレンド・ライク・ミー
井上先斗

発売日:2025年06月20日

プレゼント
  • 『戦争犯罪と闘う』赤根智子・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2025/06/20~2025/06/27
    賞品 『戦争犯罪と闘う』赤根智子・著 5名様

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