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戦争犯罪に世界はどう対峙するのか 国際刑事裁判所所長が語る

戦争犯罪に世界はどう対峙するのか 国際刑事裁判所所長が語る

赤根 智子

国際刑事裁判所(ICC)所長が語る激動の日々 前篇

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

 ロシアによるウクライナ侵攻とイスラエルによるパレスチナへの非人道的な攻撃。目まぐるしく国際情勢が変化するなか、この二つの戦争に向き合い、プーチンとネタニヤフに逮捕状を出した国際刑事裁判所(ICC)。ニュルンベルク裁判、東京裁判という二つの軍事法廷裁判にルーツをもち、国際平和秩序を守ろうと奮闘してきた裁判所のトップを務める赤根智子さんが、二つの戦争をはじめ国際紛争に対峙する日々、今ある危機、そして未来への責任と夢を語る。(前後篇の前篇/後篇に続く

◆◆◆

ロシアからの指名手配

 2023年夏、私は休暇を取得して日本に一時帰国していました。

 7月27日の午後だったと思います。猛暑の中、自宅でぼんやりとテレビを眺めていると、NHKが速報ニュースを伝えました。

〈ロシアがICC日本人裁判官を指名手配〉

 ICC日本人裁判官とは、つまり私のこと。自分が追われる身になった事実を、私はテレビの報道で知ったのです。

 そのとき胸に去来したのは、「とうとう来たか」という思いでした。なぜなら、十分に予見されていた事態だったからです。

 そもそものきっかけは、私の所属する国際刑事裁判所(ICC:International Criminal Court)がロシアのウラジーミル・プーチン大統領らに逮捕状を出したことにあります。

ウラジミール・プーチン大統領

 2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まったのち、ICCのカリム・カーン検察官は多くの国からの付託[i]を受けて、2023年11月21日以降にウクライナの領域内で行われたとされる戦争犯罪などの捜査を開始しました。2023年2月22日には、同検察官が、プーチン氏およびマリヤ・リボワベロワ大統領全権代表(子どもの権利担当)に対する逮捕状を、私の所属する予審裁判部に請求。私は同予審部所属の裁判官として、この逮捕状審査を担当することになりました。

 予審部門の裁判官は、検察官から逮捕状の請求があった際、実際に発付するかどうかを判断する役割を担っています。このとき、私を含む予審第二部の裁判官3名は、事実を証拠とともに十分に検討し、法に照らした結果、ウクライナから子どもを連れ去った戦争犯罪にプーチン氏らが関与したと信じる合理的な理由があると判断して、3月17日に逮捕状を発付しました。

 ロシア側はすぐさま反発しました。3月20日にカーン検察官と私たち裁判官の計四名に対して刑事手続きを開始。5月にはカーン検察官とロザリオ・サルヴァトーレ・アイタラ判事(予審第二部の裁判長)を指名手配します。「無罪である人物に嫌疑をかけることを禁じたロシア刑法に違反する」などと彼らは主張しているようですが、ICCがプーチン氏らに逮捕状を出したことに対する報復なのは明らかでした。

 こうした流れを見れば、いつ私に手が伸びてもおかしくなかった。だから覚悟はしていました。そして7月、私もロシア内務省の指名手配リストに加わることになったのです。

 私が指名手配されたことを、日本のメディアは大きく報じました。結果的に、国内でのICCの知名度は格段に高まったと感じます。経緯を考えると複雑な気持ちにもなりますが、皆さんがICCとその活動に関心を持ってくださるのはありがたいことです。

赤根智子さん

 2024年3月、私はICCの所長に就任しました。このニュースもあってか、メディアの取材がさらに増え、大学で講演をする機会にも恵まれるようになりました。私は、こうした状況をプラスにとらえるほど心の余裕は持てませんでしたが、周りに勧められるまま、またこの機会に日本の皆さんにもっとICCのことを知ってもらうことが重要だと思いPRに努めました。それには切実な理由があります。いま私たちは大きな危機に瀕していて、日本をはじめ世界中の人々の支援を必要としているからです。危機の理由は、ロシアからの圧力だけではありません。

アメリカの制裁による存亡の危機

 ICCは、戦争犯罪や人道に対する罪などを行った個人を、ローマ規程(「国際刑事裁判所に関するローマ規程」という名称の国際条約)による国際的法枠組にもとづいて訴追・処罰することをその使命とする裁判所です。設立は2002年。オランダのハーグに本部があり、現在、125カ国が締約国となっています。日本は2007年にメンバーに加わりましたが、アメリカ、中国、ロシアなどは締約国ではありません。

ICC

 日本はICCに加わって以来、一貫して裁判官を送り出してきたほか、締約国中最大の資金を拠出するなど、その活動を強く支援してきました。私は2018年3月から裁判官を務めています。日本人として3人目になります。

 目下、ICCが直面している最大の問題は、アメリカによる制裁です。もし強い制裁が発動されれば、活動の継続が事実上、不可能になる恐れがある。まさに存亡の危機と言える状況なのです。

 2025年2月6日、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ICCへの制裁(特に職員や関係者への制裁)を可能にする大統領令に署名しました。パレスチナのガザ地区における戦争犯罪などの容疑で、イスラエルのビンヤミン・ネタニヤフ首相、ヨアヴ・ガラント前国防相に対してICCの予審第一部が逮捕状を発付した(2024年11月)ことに対抗した形でした。イスラエルを支持するトランプ氏は、ICCの決定に強く反発したのです。その後、2月10日には、カーン検察官が制裁の最初の対象者として指名されています。

ビンヤミン・ネタニヤフ首相 via wikipedia

 大統領令の内容は、経済的な制裁が中心ですが、法的文書としては非常に概括的かつ曖昧な規定ぶりであり、また、いつでも一方的に対象の範囲を広くすることが可能です。ICCの全職員に対して、アメリカ国内の資産凍結、アメリカへの渡航禁止、アメリカ企業との取引禁止を科すことができるだけでなく、近親者、代理人、ICCの捜査に協力した者、制裁対象者に商品やサービスを提供した者にまで何らかの制裁や罰を加えることを視野に入れた規定となっています。

 また、個人も団体も、ともに対象になるとしている。その気になれば、際限なく範囲を拡大でき、ICCそれ自体さえ制裁対象にしうるのです。他方、アメリカ人やアメリカ企業は制裁の対象とならないものの、制裁対象にサービスを提供するなどした場合、アメリカ法に基づいて刑事処罰の対象になりえます。

もしICCそのものが制裁対象になったら

 既にICCの内部では大きな影響が出ています。カーン検察官はアメリカへの入国ができなくなったほか、ICCのITCシステム(アメリカ企業の協力によって構築されたもの)へのアクセスができなくなりました。彼のオランダ以外での銀行口座も使えなくなり、他国への送金さえできません。そのため、彼の部下たちは電子データを紙のコピーに代えたり、彼のセキュリティ強化にも力を入れざるを得ず、業務量が増えています。

 また、二次的な制裁対象になることを恐れて、ICCとの取引を停止する企業も出始めています。大統領令の内容が曖昧で制裁対象が広範になりうるため、企業側に過剰な警戒心が生まれているからです。今の段階でも、制裁対象となったカーン検察官がトップを務める検察局の捜査には多大な影響が出ているのですが、もしも追加制裁がなされれば、裁判業務にも支障が出てくるでしょう。ICCの先行きを悲観して離職する職員も出始めています。

 今後考えられる最悪のケースは、ICCそのものが制裁対象になる場合です。そうなれば、世界中のあらゆる銀行や企業がICCとの取引をストップさせる可能性があります。職員に給与が払えなくなり、組織のあらゆる機能がマヒするかもしれない。

 ウクライナやアフリカに設置している捜査や公判のための事務所にも送金できなくなるでしょう。また、先に述べたようにICCのITCシステムはアメリカ企業によるものですから、これが維持できなくなり、電子データの保管にも問題が生じるかもしれない。武装組織などから危害を加えられないようICCで保護している被害者や証人たちの安全が確保できなくなる心配もあります。裁判自体に支障が出るようなことがあれば、拘束している被疑者や受刑者を釈放せざるをえなくなるかもしれない。過去に出した逮捕状も、実質的に意味のないものになる。もはやICCはつぶされたも同然になります。

『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』(文春新書)

[i]付託とは一定の地域、時期に関してICCの管轄権の範囲内にある犯罪について、責任を負う個人がいるか捜査してほしいという法的かつ正式な要請。その付託の対象となる一定の地域、時期を、「事態」という言葉で表すと考えてください。例えば、「2022年以降のウクライナにおける事態について付託する」などといえば、2022年以降、ウクライナで起きたロシアとの武力紛争下で侵されたICCの管轄犯罪である中核犯罪(戦争犯罪など)について該当する事実があれば、捜査・訴追してほしいと正式に要請する、という意味で使うことができます。

プーチン大統領への逮捕状発付の余波は今も。「旧ソ連諸国の上を飛ぶ南回りは危ないから、北回りのルートで帰ってくれ」〉へ続く

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定価:1,045円(税込)発売日:2025年06月20日

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