ウクライナ戦争、イスラエル・ハマス戦争……戦争の光景が日常的にメディアに流れてくる時代に、倫理や道徳は無力なのだろうか。『街場の成熟論』が話題の思想家・内田樹が「正義」をめぐる原理的な議論のあり方に一石を投じる。
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「圧倒的な暴力」を「制御可能な暴力」にする
――戦争の犠牲者は、つねに子供や病人のような弱き者たちです。圧倒的な暴力を前に私たちは何をしたらよいのでしょうか?
内田 「圧倒的な暴力」を前にしたときに私たちがまずなすべきことは「圧倒的な暴力」を「制御可能な暴力」に縮減することです。それは質の転換のことではなく、量の規制のことです。
国際関係論では「危機」を2種類に分別します。dangerとriskです。dangerは「人知を以ては制御不能の危機」、「黙示録的危機」のことです。それに対してriskは「コントロール」したり、「マネージ」したり、「ヘッジ」したりすることができる危機のことです。政治外交の要諦は「デインジャーをリスクに縮減すること」だと言われます。
僕はこのような知性の働きをたいせつだと思います。暴力をゼロにすることはできない。世の中の悪を根絶することはできない。それならその事実を前に絶望する暇があったら、それを「受忍限度内」に縮減する具体的な方法を考えた方がいい。僕はそういう考えです。
戦時国際法という法律があります。非戦闘員を攻撃してはならない。医療施設、教育施設、宗教施設などを軍事目標にしてはならないというようなことを規定しています。「何をのんきなことを言っているんだ」とせせら笑う人がいるかも知れません。「おい、戦争やってんだぜ。そんなところにうろうろしている人間が巻き添えを食うのは当たり前じゃないか」と。そういう考え方が「クール」で「リアル」だと思っている人が戦争を80年間知らない日本の中にもいるかも知れません。
でも、「戦争にもルールがなければならない」という合意にたどりつくために努力してきた人は別に「ルールを決めたら被害者がいなくなる」と信じてそうしてきたわけではありません。そうではなくて、戦闘のさなかにいる兵士が、銃口の先に市民の姿を見たときに一瞬引き金を引くことを「ためらう」ことを願ってこのようなルールを定めたのです。戦時国際法は非戦闘員の「コラテラル・ダメージ」をゼロにすることはできません。でも、減らすことはできる。
「程度を調整する」努力を冷笑してはいけない
――いかに「減らすか」という知恵ですね。
内田 暴力を根絶することはできない。これは誰でもわかります。でも、だからといって「暴力の行使を抑制するあらゆる試みは無駄だ」という結論に一気に飛びつくのは「子ども」です。暴力を根絶することはできないが、抑制することはできる。だったら、一人でも死傷者を減らす工夫をするのが「大人」です。
実際に、遅々とした歩みではありますけれど、人間の社会は少しずつ「人間的」になっています。奴隷制度や、拷問や、異端審問や、人種差別・性差別は今も残存しています。でも、さすがにそれを堂々と、何のためらいもなく行う人は少しずつ減っています。少なくとも、それを合法的に行う公的機関はほとんどなくなりました。これは200年前に比べたら、たいへんな進歩だと僕は思います。
暴力の制御は「原理の問題」ではなく、「程度の問題」です。それは真偽や正否のレベルにはありません。「そんなのは五十歩百歩だ」と言って、程度を調整する努力を冷笑する人がいますが、そのわずか「五十歩」の差の蓄積によって人類の社会は少しずつ住みやすくなってきている。僕はそう思います。
「正しさの程度差」を冷静に考量する
――イスラエル・ハマス戦争をみても、それぞれの陣営の支持派でどちらに「正義」があるかをめぐって激しく世論が分断されていることをどうご覧になっていますか。
内田 どちらに「正義」があるかは原理的な議論です。原理的な議論には結論がありません。一方が100%悪で、他方が100%善であるというような戦争はこの世にはないからです。あるのは「正しさの程度差」だけです。
でも、これは虚無的な意味で言っているのではありません。「正しさの程度差」を冷静に考量することでしか、暴力は抑制できないからです。
2014年にロシアがクリミアをロシア領に編入するときに、プーチン大統領はクリミアではロシア系住民が差別、迫害されているからロシアは人道的立場からこれに介入した、ロシア編入は住民投票の結果圧倒的な民意を得た上でなされたと主張しました。このときプーチンは「民族差別はあってはならない」と「民主的な手続きによる決定は重い」という国際社会が「文句をつけられない」大義名分を掲げました。
2022年のウクライナ侵攻のときも、プーチンは名分を立てましたが、それはウクライナ政府は「ナチ化している」という妄想的な「物語」でした。残念ながら、この物語を信じるものは国際社会におりませんでした。
2014年と2022年でロシアは「同じこと」をしたのに、国際社会のリアクションが違う。これは理不尽ではないかと言う人がいましたが、実際には「同じこと」をしたわけではありません。ロシアの「国際社会の常識を守るふりをする」努力において、この二つの軍事行動の間には、見落とすことのできない「程度の差」があったからです。それゆえ、国際社会はロシアを侵略者とみなし、ウクライナの国土防衛戦を国際法上合法的であるとみなした。「程度の差」はそれなりの実効性を持っているということです。
「自衛的暴力にも限度がある」という国際社会の常識
――たしかに同じ軍事行動に対しても、国際社会の反応はまったく異なるものでした。
内田 ハマスのテロによってイスラエル国民1400人が死にました。ですから、ガザ侵攻は自衛権の発動として当然だというのは「原理的には」正しい言い分です。でも、その「自衛権の行使」で、ガザでは非戦闘員である市民たちが1万3000人以上殺され、医療施設や教育施設や宗教施設など、軍事目標にしてはならない建物が爆撃されました。そうなるとこれは「自衛の過剰」ということになる。「自衛をすることは許されるが、自衛的暴力にも限度がある」というのもまた国際社会の常識です。ことは「限度を超えた」という程度の問題なのです。
――なるほど。
内田 どこにどんな「限度」があるのか、それはあらかじめ予示されているわけではありません。限度を超えた後になって、「限度を超えた」ということがわかる。限度はつねに事後的に開示されるものだからです。
仮に、イスラエルの攻撃がハマスの軍事拠点だけに限定されており、イスラエルの兵士たちが非戦闘員の被害を最小限にとどめる努力をしていたら、国際世論はあるいはイスラエルに与したかも知れない。でも、そうはならなかった。「限定」し、「とどめる」努力を怠ったからです。
正義はどちらかの陣営にあらかじめビルトインされているわけではありません。どちらにも戦う大義名分があります。でも、「限度を超えた」側は「正義を主張する権利が目減りする」。それだけのことです。
強硬派との間に「境界線」を引かないほうがいい理由
――哲学者ジジェクは、「ハマスとイスラエルの強硬派はコインの裏表だ。私たちは、境界線をハマスとイスラエルの強硬派の間に引くのではなく、二つの極端な勢力と平和な共存の可能性を信じる人たちの間に引かなければならない」と指摘しています。この点についてはどう思われますか。
内田 ジジェクが言いたいことはよくわかります。でも、「境界線」という言葉を僕なら使いません。そういう言葉を使うことでより効果的に暴力が抑制されるとは思わないからです。「平和な共存の可能性を信じる人」も自分の家族や友人が殺されたら、信念が揺らぐかもしれないし、「戦いでしか未来は実現しない」と信じる人もあまりに多くの流血を見た後には戦うことの虚しさを感じるかもしれない。
僕の若い友人である永井陽右君はソマリアでゲリラからの投降兵士の社会復帰を支援するという活動をしています。少年兵としてリクルートされて、戦い続けてきたゲリラ兵士たちが「戦うことにうんざりして」市民生活に戻りたいと思う気持ちに応えるという仕事です。永井君たちの努力は「境界線」を「越境可能」な状態にすることに向けられています。これは果てしない暴力の中で疲弊しきったソマリアが最後にたどりついたひとつの実践的結論だろうと僕は思います。
敵味方の「境界線」を固定化しないこと。境界線があると、原理主義者はそれを超えることができない。原理主義者に「スティグマ」を刻印してはいけない。「極端な人」を「ふつうの人」の陣営に回収する努力を「ふつうの人」たちは止めるべきではない。
――先の大戦の教訓を活かせず、人類はなぜ「ジェノサイド」を止められなかったのでしょうか。
「ジェノサイドは割りに合わない」という経験則を共有する
内田 今回のガザ侵攻が「ジェノサイド」であるかどうかはまだ国際的合意ができていません。1948年に制定されたジェノサイド条約による定義は(1)集団成員を殺害すること(2)集団成員の心身に深刻な危害を加えること(拷問、強姦、薬物投与など)(3)集団の破壊をめざす生活条件を強制すること(医療や教育機会の剥奪、強制収容、強制移住など)(4)集団内における出生を妨害すること(5)集団の子どもを強制的に他集団に移すこと、とされています。
イスラエルはガザのパレスチナ人をこれまで「巨大な監獄」の中に閉じ込めて、さまざまな生活条件の妨害を行ってきています。これはすでに「ジェノサイド」の(3)の要件を満たしていると言えるかも知れません。
このあとガザでの戦闘で、イスラエル軍の側に非戦闘員とハマスの戦闘員を区別する努力がまったく見られなかった場合には(1)の「集団成員の殺害」が適用されるかも知れません。
イスラエルの軍事行動が「ジェノサイド」に認定されることにアメリカやヨーロッパ諸国は反対するでしょうが、国際世論はイスラエルの暴力に歯止めがかからなければ、これを事実上の「ジェノサイド」であると認定するでしょう。
もちろん、だからと言って、国際社会にはイスラエルに具体的な「罰」を与える権限はありません。彼らの軍事行動を実力で止めることもできない。
でも、イスラエル国民はこれから長く国際社会においては「イスラエル国民」であると胸を張って名乗ることが難しくなるでしょう。人によってはその事実を恥じるようになるかも知れない。いずれにせよ、その名乗りが海外で温かい歓迎を受ける可能性はこれから先きわめて低くなるはずです。身の安全を配慮したら、どこの国のパスポートを持っているか訊かれても答えないというような態度を取らざるを得ないようになるでしょう。
イスラエルが再び国家としての尊厳と信頼を回復したいと望むなら、今回ネタニヤフ首相が主導した戦争犯罪を認め、その責任を彼ら自身の手で徹底追及し、パレスチナの人たちに謝罪を求めることについての国民的合意を達成しなければならない。それしか手立てはありません。
僕たちにできるのは「ジェノサイドは割りに合わない」という経験則を人類全体が共有するように努めることです。時間がかかりますけれど、人類の学習速度は非常に遅いのです。
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『サル化する世界』『日本習合論』『コモンの再生』『コロナ後の世界』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。
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