
何度、泣いたことか。何度、笑ったことか。そして、何度、泣き笑いしたことか。泣くにつけて、笑うにつけて、胸が激しく締め付けられる。古語の「かなし」は、漢字では「悲し」とも「愛し」とも書く。葉室麟の『川あかり』は、まさに「かなし」という心情語がぴったりの、心に強く迫る小説である。それでいて、愉しく読める。読後感は、タイトルそのままに明るい。
だから、『川あかり』は、読者にとって忘れられない小説となる。
藩の中で最も臆病な武士であると、自他共に認める伊東七十郎が、内紛による藩の大混乱の中で、あろうことか「刺客」の役目を引き受けさせられる。状況に流されるだけの彼の生き方が、悲しい。
しかも、七十郎が刺客に仕立て上げられた理由の一つは、美祢という、いささか高慢な美女への片思いだった。刺客という、失敗する確率の高い、損な役目を引き受けた彼の心根が、切なくて悲しい。
その七十郎は、刺客として強敵と立ち向かう前に、さまざまな人々と出会った。彼らは、七十郎が刺客にならずに済んだのならば、出会えなかった人々である。彼らは、皆が悲しい過去を引きずっていた。
現代人を勇気づける、珠玉のような快作
ところが、悲しい男である伊東七十郎と、悲しい定めの人々の心が交わって、いとおしくも「愛しい」日々が出現した。そのことが、七十郎に武士として生きる意味を教えてくれた。葉室麟は、七十郎が抱いた感動をそのまま、読者に手渡す。読者の人生も、愛しい人生へと変貌することを願って。
だからこそ、葉室麟の『川あかり』は、現代人を勇気づける、珠玉のような快作となった。わが書斎では、『川あかり』と『銀漢の賦』の二冊が、一番手を伸ばしやすい場所に置かれている。生活に疲れた時、ふと気づくと、『川あかり』を手に取っている。そして、お気に入りの「泣きながら笑える」名場面を、読み始めている。それは、どことなく黒澤映画の楽しみ方とも似ている。キャラ立ちした登場人物たちが入り乱れ、心と心が通い合う「かけがえのない時間」を読者も共有することができる。
最初のうちは、むろん黙読である。だが途中から、むしょうに声に出して読みたくなる。映画のナレーターになったつもりで、『川あかり』の名文を音読し始めると、笑いがこみ上げてきて、何度も吹き出す。それがいつしか、涙声に変わる。涙腺がウルウルしてくると同時に、鼻の奥がツーンと熱くなって、むずがゆくなる。この感覚が、堪らない。これが、葉室文学の醍醐味である。
主人公は生きることの「かなしさ」のシンボル
それでは、このような葉室文学の愉楽と喜悦は、どのようにして生まれてくるのだろうか。改めて、『川あかり』の世界をたどってみよう。この小説は、伊東七十郎という青年が巨勢川を前にして、途方に暮れている場面から始まる。「川止め」である。江戸時代には、大井川のように橋の架かっていない川は、増水すると渡河が禁じられた。ただし、この小説は架空の藩が舞台である。だから、読者である現代人の目の前を流れている川が「巨勢川」であってもよいわけである。実際に、葉室の郷里の福岡県にも「巨勢川」が流れているし、「鹿伏」という地名も存在している。
さて、巨勢川の前にたたずんでいる青年こそが、我らの主人公・伊東七十郎である。生きることの「かなしさ」のシンボルである彼は、川を渡れない男として登場する。彼は、人生の大きな節目を通過できないで、躊躇している。大人になれない「モラトリアム人間」なのだ。
その姿は、芥川龍之介の『杜子春』の主人公とも重なる。杜子春は、洛陽の門の下でぼんやりたたずんでいた。杜子春もまた、大人への門をくぐりあぐねているモラトリアム人間だった。すると、杜子春の前に鉄冠子という仙人が現れる。彼は、杜子春を峨眉山の頂へ連れてゆき、大人となるための試練を与えた。杜子春は、山奥で「大人=真人間」へと成長した。
この『杜子春』と『川あかり』とを比較してみよう。伊東七十郎は、山ではなく、川のほとりで試練を受ける。山と川という舞台は対照的だが、大人になるための試練という点では、共通している。七十郎の前に現れたのは、ぼろぼろの半纏をひっかけた、達磨のような顔の男だった。この、佐々豪右衛門と名乗る男は、はたして鉄冠子のような老賢人なのか。それとも、同じ芥川龍之介作の『羅生門』に登場する老婆のような悪人なのか。
いわくありげな彼らは、一体何者なのか
豪右衛門に案内されて、七十郎は川止めが解除される「川明け」まで、むさ苦しい宿の二階で過ごすことになる。そして、徳元という僧、弥之助という猿廻し、お若という門付けの鳥追い、遊び人の千吉という、一癖も二癖もある連中と相部屋となる。同じ宿の一階では、洪水で壊滅的被害を受けた村の復興を志す佐次右衛門や、その孫の「おさと」と五郎がいた。いわくありげな彼らは、一体何者なのか。
七十郎は、彼らと共同生活を送りながら、川明けを待つ。川明けの暁に待っているのは、刺客としての命がけの戦いである。彼は、豪右衛門たちと共に過ごすことで、これまで生きてきた自分の人生を客観的に見る目を獲得する。そして、自分が戦う「究極の敵=ラスボス」を発見した。すなわち、七十郎はモラトリアム状態を脱したのだ。
思うに、伊東七十郎という彼の名前が、藩政の内紛という嵐を呼び込んだのではないだろうか。歴史小説のファンは、「伊東七十郎」という名前を見た瞬間に、ピンときたかもしれない。仙台藩の伊達騒動に登場する、実在した義士と同じ名前だからだ。
山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』にも登場する「伊東七十郎」は、あの原田甲斐とも親しかった。だが、藩を私物化しようとした伊達兵部の暗殺に失敗して斬首される。私は、『川あかり』の冒頭の「伊東七十郎は、川面が見渡せる土手へ上った」という一文を読んだ瞬間に、不吉な匂いを嗅いだ。何せ、名前が名前だからである。
そして、思った。葉室麟の『川あかり』は、『樅ノ木は残った』で描かれた武士道へのオマージュなのではないか、と。葉室はいずれ、きっと『樅ノ木は残った』を上回る畢生の大作を書くだろう。そのために、着々と布石を打っている。伊東七十郎が活躍する『川あかり』は、その一環なのだ。
若者も大人も楽しめる葉室文学
ちなみに、名前に既視感があるという点では、七十郎のあこがれのマドンナである美祢も、そうだ。彼女は、夏目漱石の青春小説『三四郎』で、小川三四郎の心を翻弄した「美禰子」を連想させる。
美しいけれども心の固い美祢が、七十郎の真の姿を知って態度を改めるくだりは、『三四郎』の美禰子よりも、好感が持てる。『川あかり』を読みながら、私の頭の中の別の領域では、『こころ』の三四郎がもしも美禰子と結ばれていたら、などという想像が芽生え、二つの作品が並行して進んでゆく。
それが、実に楽しい。だから葉室文学は、若者も大人も楽しめる。もしかしたら、『川あかり』のキーワードは「重ね」なのかもしれない。葉室文学は、芥川龍之介や山本周五郎、さらには夏目漱石の文学世界と重なっている。
豪右衛門たちには、表の顔と裏の顔とが、あった。伊東七十郎にも、「藩で一番の臆病者」という弱さと、武士として生きることの矜恃を自覚する強さとが、同居している。
すべてが終わった後で、七十郎は、「川を渡るというのはそういうことだったのだ」と、しみじみ思う。七十郎は友を思いやり、友もまた七十郎を思いやる。気がつけば、皆が人生という大きな川を渡りおえていた。七十郎の命が友の命と交わり、友の命が七十郎の命と重なり、一つに溶け合って、奇跡が起きた。
大人になるとは、そして心が成熟するとは、青少年期の弱さを捨て去ることではない。子どもの純粋さを保ったままで、大人の世界に入ってゆくこと。それが大人になることであり、真っ当な武士となることなのだ。七十郎は、弱さと強さが重なった「正しい人生=愛しい人生」を自分のものとした。
「川あかり」は希望の光である
「重ね」と言えば、この小説のタイトル自体も懸詞である。一つは、川止めが解除されて、渡河が許されるようになるという意味の「川明け」。もう一つが、「日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いている」という意味の「川あかり」。
川明けの直前に、七十郎に向かって「おさと」が語る。
「お祖父ちゃんがよく言うのです。日が落ちてあたりが暗くなっても、川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって」
「川あかり」は、希望の光である。そして、大人になるとは、川を渡るとは、自分が川あかりから勇気をもらうのではなく、自分自身が川あかりとなって、他の人々に勇気を与える側に回ることなのだ。
勇気をもらうことと、勇気を与えることとは、同じことである。二つのことは重なっている。その実感を、七十郎は戦いを通して、自分のものとした。
伊東七十郎は、新しいタイプの快男児である。なぜならば、弱さが強さでもあることを知っているからである。だからこそ、彼の生き方は、人生に対して自信と希望を失いかけている現代人にとっての「川あかり」たりうるのだ。詩人や俳人は「川あかり」という言葉を使うことがある。詩人でもあった井上靖も「川の畔」というエッセイで「川あかり」を語っているが、美しくも淋しいイメージである(『井上靖エッセイ全集』第八巻)。それに対して葉室の「川あかり」は明るい。そこに葉室文学の祈りがある。
豪右衛門が、七十郎に語った言葉がある。
「わしは、この宿に来てからのお主を見てきた。お主は臆病で武芸も下手だ。しかし、武士の心得を間違ってはおらぬではないか」
この言葉を読むと、たとえ臆病でも、勉強ができなくても、スポーツが苦手でも、仕事がてきぱきとこなせなくても、「人間としての心得」を間違っていなければ、「川あかり=世界の希望」になりうるのだと思えてくる。
この小説に引き込まれた読者は、いつの間にか、時代劇の映画監督になったつもりで、「この人物は、誰それが演じたら適任だ」などと配役を考えて、悦に入るのではないか。そして、はっと気づいた時には、それらの俳優陣に囲まれた「自分=伊東七十郎」の幸福な姿を夢見ていたことに気づく。読者の人生は、伊東七十郎の人生とぴったり重なる。
読者も明日からは伊東七十郎のように、豊かな人間関係を作ってゆける。いや自然と、人間関係は自分の周りに形成されてゆく。なぜならあなたは、『川あかり』を読んだのだから。そして、人生の悲しさや愛しさを知ったのだから。私たちは、もはや「迷羊」ではない。
-
『妖の絆』誉田哲也・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2025/07/11~2025/07/18 賞品 『妖の絆』誉田哲也・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。