もし今、目の前に葉室麟さんがいらしたら、私は真っ先に訊ねていたと思う。やっぱり、義憤にかられて書かれたのでしょうか――と。
〈やっぱり〉というのは、以前、最初で最後の対談をさせていただいたときにそんな話題で盛りあがったからだ。そのとき私は、葉室さんの中で静かに燃えているもの、小説を生み出す原動力となっているものが〈義憤〉――世の中へ、いえ、為政者や体制への憤り――だと気づかされたのである。
そんなことを言うといかにも葉室さんをよく知っているように思われそうだが、実際は後にも先にもたった一度しかじっくりお話をしていない。そのときも、あの穏やかな表情は全く変わらなかったから、もちろん、私の勝手な思いこみかもしれない。でも、一ファンとして何冊も御本を読ませていただいて、〈やっぱり〉強く感じるのは、弱い者が虐げられる世の中ではいけないという葉室さんの信念、別の言い方をすれば良心だと思わずにはいられない。
本書はるんと美鶴という若い姉妹が主人公で、タイトルも『オランダ宿の娘』と華やかな響きだ。すべりだしも江戸の市井物のように親しみやすい。
ところが、第一部から二部、三部と話が進むにつれて異なる様相が見えてくる。
第三部で、姉妹の姉のるんは悔しまぎれにこんな思いにひたる。
(力のない弱い者はお上の都合でどうにでもされるのか)
別の場面でも、彼女は悲哀に全身を震わせる。
(なぜ、あのひとたちが死ななければならなかったのだろう)
私はこれこそが、葉室さんご自身が作家生活の中で一貫して抱いておられた義憤であり、この一見優しげな小説にも随所にちりばめられているのではないかと思っている。そしてその背景として選ばれたのが、歴史上に名を残すシーボルト事件だったのだ、と。
シーボルト事件とは、江戸時代後期の文政十一(一八二八)年、オランダ商館の医師だったシーボルトが禁制品の日本地図などを国外へ持ち出そうとして発覚した事件で、国外追放となったシーボルト以外にも多くの門人や役人が投獄され、過酷な処分をうけた。
この事件は謎が多い。首謀者の一人とされる天文学者の高橋景保が獄死したこともあり、だれが讒訴(ざんそ)したのか、他に黒幕がいたのではないか……等々、解明がうやむやのまま幕引きされてしまったためだ。小説の舞台として多くの作家が様々な方向から触手を伸ばす格好の題材ともいえる。
葉室さんは、だれも試みようとしなかった斬新な手法で本書を書かれた。その手法とは、主人公を事件の当事者ではなく、長崎屋――江戸へ参府したオランダ人のための宿――の姉妹に担わせたことだ。シーボルトを泊めた宿の娘だから全くの傍観者ではないものの、政(まつりごと)や陰謀からはいちばん遠いところにいるはずのるんと美鶴の体験と耳目をとおして事件を検証しなおすことで、新たな真実を提示しようというのである。
これは、単に事件の真相を探る、という意味ではない。ひとつの事件が、どれほど多くの人々を巻きこんでしまうか。しかもそれは多くの場合、弱い者や抗うすべをもたない者たちで、悲嘆や苦悶が波紋のように広がってゆく。そうしたこの世の不条理が、娘たちの無垢な目をとおすからこそ、いっそうあざやかに浮かびあがってくるのだ。葉室さんならではの慧眼である。
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