『大菩薩峠』を書いた中里介山は随筆「『峠』という字」の中で、「峠」は日本で作られた漢字「国字」であり、本来の漢字なら「嶺」だが、これは「山の最頂上では無く、領とか肩とかいう部分」のことで、「西洋語のパスとかサミット」も意味合いが違うだけに、「峠」には「含蓄と情味がある」と書いている。その上で、「上る人も、下る人も」立たなければならない「峠」を、「人生そのものの表徴」と位置づけていた。
岡野藩領内で結城藩との国境にある峠は、近くにある弁財天の御堂にちなみ弁天峠と呼ばれていた。そこで茶店を営むわけありらしい夫婦が、峠を通る人たちのトラブルを解決していく本書『峠しぐれ』も、峠を人生そのもの、あるいは人生の岐路になぞらえている。
茶屋の主人の半平は四十過ぎ、達筆で帳簿付けなどもできるので麓の安原宿で武家の一行が泊まるときの手伝いを頼まれることもあり、宿場役人の評判もよかった。女房の志乃は三十五、六、目鼻立ちがととのい色気があり客の面倒見もよいため地名にあやかって「峠の弁天様」と呼ばれていて、弁財天の御堂ではなく志乃が弁天峠の名の由来と誤解されるほどになっていた。
ある日の早朝、志乃が夜逃げらしい家族に声をかけた。事情を聞くと、主の吉兵衛は結城の城下で味噌問屋をしていたが、藩政改革の一つで産物が特定商人の専売制になり、結城家に金を貸している島屋五兵衛が巨利をむさぼる一方、販売権を奪われ没落する商家も出ており吉兵衛もその一人だった。現代でも、有力な政治家と結び付いた業界や財界人が優遇されているという噂があり、そこまで露骨でなくても政策や税制が変るだけで打撃を受ける業種はあるので、吉兵衛一家の境遇は生々しく感じられるのではないか。
吉兵衛一家を見送った半平と志乃は、翌日やってきた麓の安原宿の宿場役人・金井長五郎から、吉兵衛一家の荷物から高価な珊瑚の簪が出てきて、それが城下の材木商に押し入った盗賊が奪った品ではとの疑惑をもたれているという話を聞く。無罪を証明するため宿場の番所に向かった志乃が、吉兵衛一家から話を聞き、その証言を過不足なく使って論理的な謎解きを行うところは、ミステリ・ファンも満足できるのではないか。近隣を荒らしている盗賊夜狐との戦いは、物語を牽引する重要な鍵になっていく。
志乃が声をかけた浪人の前に、父を殺されたという旅の武士が現れ仇討になるエピソードも、浪人が刀を置いて立ち合いの場へ向かい、旅の武士が背後から浪人を斬ったなどの不可解な状況から、半平が仇討の裏側を見抜くどんでん返しが用意されており、あまりの大仕掛けに読者は衝撃を受けるだろう。
飛ぶ鳥を落とす勢いの豪商・島屋五兵衛とその女房らの一行が、豪華な駕籠で茶屋に来た。一行の中に夜狐の一味の女ゆりを見つけたと半平に聞いた志乃は、夜狐が財産を狙って五兵衛の毒殺を目論んでいると察知するが、その三日後、五兵衛が岡野城下の旅籠で刺殺された事件も意外な真相が待ち受けている。急な出府の途中で病に臥せった榊藩の若君の世話をすることになった志乃が、後継者をめぐって争う榊藩の事情から若君が病になった原因、お付きの老女の正体を見抜く展開も、本作が「小説推理」に連載されたためかミステリとしてクオリティが高かった。
雖井蛙流平法の達人である半平は、岡野藩町奉行所の永尾甚十郎に、奉納試合に出る息子の敬之進に稽古をつけて欲しいと頼まれる。天道流の道場に通う敬之進の腕はたいしたことはなく、相手は同門で道場一とされる鹿野永助で二刀を使うという。鹿野にいじめられていた敬之進が、半平に雖井蛙流の秘義〈二刀くだき〉を教わることで成長し、剣の修行には勝ち負け以上に大切な要素があると学ぶところは秀逸な青春小説になっているが、鹿野に〈二刀くだき〉を使うと知られ対策もあると嘯かれた敬之進が、どのような方法で反撃するかは、ハウダニットを題材にしたミステリとしても楽しめる。
貧しい人、弱い人に寄り添う半平と志乃が難事件を解決していくにつれ、故郷を捨てざるを得なくなった二人が、苦しい旅を続けた果てに弁天峠で茶屋を開いていた老夫婦に救われ後継者になった過去が浮かび上がってくる。志乃は娘を故郷に残して出奔したが、年回りや雖井蛙流を使うことから夜狐のゆりが志乃の娘の可能性が出てくるなど、次第に明らかになる二人の過去には、暗躍する夜狐、政争に勝利して筆頭家老にまで昇り詰めた天野宮内の権勢が翳り、石見辰右衛門、佐川大蔵に閉門蟄居に追い込まれるといった結城藩で進行中の政争もからみ、先が読めないスリリングな展開が続く。
パズルのピースのような断片が集まり物語の全体像が見えてくると、押し込み先で殺人も厭わない凶悪な夜狐を率いているが、自分の中に絶対に譲れないルールを持っていて、そのルールに従って人助けをする時もあるお仙、邪魔者を消すなど強引な手法で筆頭家老の地位を手にしたが、権力に汲々とする虚しさを悟り愛する者のために戦う決意を固める宮内らが描かれることで、この世には、完全な悪も完全な善もなく、すべての人間は善と悪のあわいで生きているに過ぎないと明らかになってくる。
ささいなミス、わずかなルール違反が見つかると、ネット上でバッシングによる炎上が起こるのも珍しくなくなったが、多くの人は正義感に基づいてネットで発信をしているようだ。ただ、その正義には個人の価値観以上の根拠はなく、分かりやすい、目についた対象を攻撃しているに過ぎない。悪の中に善もあれば、善の中に悪もあるとする本書は、すべてを二項対立で割り切り、過ちを許す寛容さを失った現代社会への批判が込められているように思えてならない。著者が、雖井蛙流平法の流祖・深尾角馬が、小さな揉めごとから農民の父子を斬った史実を紹介し、角馬の偉業だけでなく弱さも認めている半平を描いたのも、絶対的な善/悪はなく、愚かさを許せるようになれば人間として成長できるのは、いつの時代も変わらないと強調するためだったのではないか。
宮内の危機を救いたいと考える人間が岡野藩の重臣に助けを求めるため国境を越えようとし、他藩のトラブルを持ち込まれるのを嫌う岡野藩が警戒を厳重にする終盤は、ヨーロッパの協定加盟国間の自由移動を許可するシェンゲン協定以前、鉄道にしても、自動車にしても国境を越える時に入国審査があった時代の国際謀略小説を彷彿させるサスペンスがあり、峠、国境を舞台にした設定が活かされていた。
貧困に苦しみ、辛酸を舐めた逃避行の先に、大成功はしないが生活に困らないだけの収入があり、客を癒やし、客に感謝される茶店の経営者で満足している半平と志乃、そして政争に明け暮れ気の休まらない生活を送る虚しさに気付き平穏を求めるようになった宮内は、大金を稼ぎ出世をすればよい生活ができるという競争原理を根本から見直し、たとえ競争に敗れても衣食住が足り、趣味や余暇に興じられるくらい余裕のある社会を造ることと、新しい幸福の基準を創出し広める重要性に気付かせてくれるのである。
本書の単行本は、日本経済の長期低迷を脱するため、金融緩和、財政出動、成長戦略からなる経済政策アベノミクスが進められていた二〇一四年に刊行された。日本人の多くが、日経平均株価や円ドルの為替相場に一喜一憂し、再び高度経済成長期やバブル期のようになる夢を見ていた時代に、著者は、経済成長とは別のやりかたで、人間が幸福になる方法を示そうとした。著者の逝去から約六年半が経過し、アベノミクスも提唱者の急死で終焉したが、今も日本人は経済成長期の夢を捨てず、弱者を切り捨てながら欲望と競争に突き動かされている。このような時代だからこそ、まったく古びていないどころか、今こそ傾聴すべき本書のメッセージを重く受け止める必要がある。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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