〈みんなで見送ろうじゃないか。あのバルブが宇宙まで旅立つのを〉。

 かつてロケット開発を志した元宇宙科学研究員・佃航平が父の町工場を引き継ぎ、社長として経営に苦闘しながらも開発力と協働する仲間たちとの絆で事業と自身の夢を再興する『下町ロケット』。2010年に発刊以降、読者から熱い支持を受け、2011年に直木賞を受賞。二度のドラマ化により、さらに多くのファンを獲得した。

 同作と続編『下町ロケット ガウディ計画』『下町ロケット ゴースト』『下町ロケット ヤタガラス』の全4作が、9月から文春文庫新装版で順次発売され、電子書籍版でも再リリースされる。国民的物語シリーズは、いかにして生まれたのか? そして、作者が作品に込めたものとは。原点に、あらためて迫る。

『下町ロケット』(池井戸潤 著)
一度はボツになりかけた作品が、直木賞に

――町工場・佃製作所が、特許を持つ高性能バルブを武器に国産ロケットエンジン開発に参入する道のりを描いた『下町ロケット』。東日本大震災発災直後の2011年7月に直木賞を受賞した際の選評に「さまざまな事情を抱えた今夏の日本に活力を与える小説」(故・伊集院静氏/『オール讀物』2011年9月号掲載)とあるように、時代に選ばれた作品という印象があります。

池井戸 自分では、受賞は絶対にないだろうと思っていたんです。編集者たちと居酒屋で待っていましたが、その際の格好もジーンズにTシャツ。そうしたら受賞の連絡があり、着替えに帰ろうとしたら、「今すぐ行けば夜のニュースに間に合いますから」と言われてそのまま会見場へ。受賞会見のネット中継画面では、賞金の使い道への質問に「まず服を買え」というコメントが躍っていたと後で聞きました(笑)。

池井戸潤さん©文藝春秋

――なぜ選ばれないと思ったのですか?

池井戸 『下町ロケット』は、もともと自分が理想とするエンタテインメントの型からは外れているからです。この作品は、佃製作所がまず特許をめぐる訴訟に直面し、その後ロケット開発に参入するという、山が2つあるフタコブラクダのような構造になっている。でも本来は、苦闘に苦闘を重ねて盛り上がった末にひとつの爽快な解決が待っているほうが、絶対的に美しいじゃないですか。

 実際、単行本にする際にそういう構造の『下町ロケット』も一度書いてみたものの、どうにもうまくいかなかった。一度はボツにしようとさえしていました。ただ、読んだ事務所のスタッフが「面白い」と言うし、そういう人がひとりでもいるなら、世の中の何人かには受け入れてもらえるかもしれないなと(笑)。結果、受賞につながったのだから、つくづく不思議なものです。

「ありえない」作品は書きたくなかった

――町工場から宇宙へ。その飛躍に、読み手は夢や希望をかきたてられました。

池井戸 学生の頃、大田区の中小企業の技術を結集すればロケットを飛ばせると聞いたことがあったんです。それで実際に工場へ行って尋ねてみたら、即座に「無理ですね」と。そのとき、ふと頭に浮かんだのが、佃製作所が特許を持っていたらどうだろう? というアイデアでした。先方も「それなら可能性はあるかも」と。あそこで閃かなかったら、そのまま終わっていたと思います。

 現場に行って可能性を確認したのは、リアリティーのある枠組みで小説を書きたかったから。フィクションですから面白ければ何でもいいのかもしれませんが、町工場には本当にそれを目指して仕事に取り組んでいる人がいるかもしれない。現場で働く方々に「こんなの、あるわけない」と否定されるようなものは書きたくなかったんです。

読者が結末に満足して本を閉じられるように

――書き方の転換点にもなった『下町ロケット』。今回の新装版に収録された霜月蒼氏(書評家)の解説にも、〈池井戸潤の最初の「完成」であり、『空飛ぶタイヤ』(2006年刊/講談社文庫・実業之日本社文庫)にはじまる「第二期・池井戸潤」の代表作である〉と記されています。

池井戸 もうひとつ、この作品で挑戦したとするならば、中小企業を舞台にして、そこで起こる春夏秋冬の出来事を、年代記的に書いたことでしょうか。ある会社に今、リアルに起きていることを長いスパンでゆったりと綴っていく小説は、それまでにあまりなかったのではないかと思います。

――佃製作所は、高品質な製品を誠実な仕事で生み出す〈佃プライド〉をモットーに掲げています。作家として池井戸さんが譲りたくないことは?

池井戸 物語の結末を、僕が納得するレベルまで書くこと。急いで終わらせようとせず、主人公は真正面から問題と向き合って戦っているのだから、僕も急いで終わらせようとはせず、その戦いを、たとえ何枚かかろうと書いていく。小説を尻すぼみに終わらせないためにも、そこは覚悟を持って取り組んでいます。

 作品への反響を見ていると、最近の読者は結末の「厚み」を、作家や編集者が思う以上に大事にしているのだなと感じます。具体的に言うと、事件の顛末や登場人物たちの行く末を全部知りたいと思う方が多く、「あとは想像にお任せします」ということでは許されない。余韻のある終わり方も美しいと思いますが、読んでくださった方が満足して本を閉じていただけるよう、僕はあえて、すべてを書くようにしています。

後編に続く


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