「あれは親じゃないな」太田光もボーゼン…“宗教2世”として育った太田光代が明かす、10代半ばで一人暮らしを始めた理由〉から続く

 爆笑問題・太田光の妻である太田光代さん。最初は爆笑問題と同じ太田プロに所属するタレントだったが、現在は芸能事務所「タイタン」の社長として、爆笑問題を含めた所属タレントのマネジメントに従事している。

 爆笑問題が順調に売れていく中、30歳を過ぎた頃から始めた不妊治療の結果はなかなか出ない。何度も催促してくる義父への説得に苦労する光代さんだったが、夫・光が「珍しく」父に言い返した言葉に驚いたという。

 ここでは、光代さんが半生を綴った『社長問題! 私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の4回目/最初から読む

太田光代さんと太田光さん夫妻 ©平松市聖/文藝春秋

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義父からの催促

「一体孫の顔はいつ見られるんだ?」

「すみません。でも、今は本当に仕事が忙しくて……」

「もう光は大丈夫だろう。いい加減、二人の仕事は他の人に任せてもいいんじゃないか」

「まだ、ちょっとそういうタイミングではないんですよ」

 太田光の父、私にとっての義父から、帰省のたびにこう言われるようになったのは、私たちが結婚して数年が過ぎた頃、爆笑問題が再スタートし、あらためて仕事が増え始めた直後のことでした。

 太田も私も一人っ子でしたが、私は母から夫婦のことについて口出しされることはありませんでした。親族で子供への関心が誰よりも高かったのは義父だったのです。

 太田と一緒になった当初、私は子供を作ることはほとんど考えていませんでした。もともと子供がさほど好きではなく、自分の子を育てたいという強い気持ちもなかったのです。仮に出産したとしても、うまく育てていく自信がありませんでした。今こうやって振り返ると、夫婦間のデリケートな話題にズケズケと入り込んでくる義父が批判されそうですが、当時はこれが当たり前の価値観です。

 もちろん義父にまったく悪気はありません。むしろ「息子が売れるまで子供の話を持ち出すのは我慢した」という思いがあったようです。横にいる太田が言い返すこともありません。昔から義父とはほとんど口を利いていない関係だったことはすでに記した通りです。

 私も義父からの問いかけに、最初は「そうですね。いずれは……」と答えていたのですが、いざ爆笑問題が売れてくると出産を考える余裕はまったくありません。他のタレントもいたので、日々彼らをどう売り込んでいくか、会社をどうやって安定的に経営していくかに忙殺されるようになりました。

 当時の私は30歳を過ぎた頃、親世代からすれば、子を産み、育てていてもおかしくない年齢になっていたのです。

「光は一人息子なんだぞ」

 私は、多くの女性が経験する「普通の妊娠」はできないだろうという予感めいたものがありました。

 私が幼い頃、「先天性股関節脱臼」のために、長い間、入院生活を送っていたことにはすでに触れました。そのせいか初潮を経験したのも20歳を超えてからで、それも医学的に生理を誘発しなければ起きなかったのです。おそらく私は妊娠しやすい身体ではないのだろうと直感的に思っていたのです。

 夫である太田と出産や子育ての話をしても、私に話を合わせてくれているのか、決まって「俺も(子供がいてもいなくても)どっちでもいいよ」という返事でした。そうは言っても、太田は子供向け番組『ポンキッキーズ』に出演し、人気コーナーとなった「爆チュー問題」では子供たちと一緒になって心底楽しそうにしていました。本当は子供が好きなんだろうし、生まれたら太田は面倒を見てくれそうだなと内心思っていました。義父が孫の顔を見たい気持ちも分かるので、まあまずは普通に子作りをしてみようかと考えるようになりました。現代は医療も進んでいることだし、不妊治療に挑むことにしました。

太田光代さん ©文藝春秋

 ところが、です。嫌な予感は見事なまでに当たっていたのです。その頃は夫婦ともに多忙だったので、私が夜まで仕事が続いて遅くなることもあれば、太田は太田で収録が長引いて疲労困憊のまま眠りこけてしまうこともたびたび。そんななか、不妊治療の努力を続けてみたものの妊娠にいたることはありませんでした。

 ありがたかったのは、談志師匠の隠し子騒動のときも気にしない素振りで私を支えてくれた義母がいつも寄り添ってくれたことです。

「やっぱり、今回もダメだったみたいです」

「そう。本当に無理しないでいいから」

「ありがとうございます」

「気にしないでいいわよ」

 なかなか子宝に恵まれないことを打ち明けたときも、そう優しく声をかけてくれました。太田の実家でお義父さんからいつもの「孫の顔はいつ」問答が始まると、お義母さんは毅然とした態度で私の気持ちを代弁してくれることもありました。

「光代さんは代わりのいない社長なの。いつも忙しいのがわからないの!」

「ウチの光は一人息子なんだぞ」

「無理なことばかり言ってどうするの。光代さんのおかげで光に仕事があるんでしょ」

 義母にガツンと指摘されると、義父はまるで私に怒られた太田のように何も言えなくなってしまいます。

 30代半ばになろうとする頃には、少しずつ考えに変化が出てきました。

マイナーだった不妊治療

「私たちにはいつまで経っても子供ができないんじゃないか」

 当時、不妊治療は世間でもまだマイナーな選択肢でした。2022年4月にようやく不妊治療の保険適用が始まりましたが、私が治療を始めた1990年代後半はまだ全額自己負担でした。現在では一般不妊治療と呼ばれている「人工授精」だけでなく、生殖補助医療と称される「体外受精」「顕微授精」も保険の適用対象となっていますが、当時は治療費もかなりの高額でした。

 私が探して通うことにした不妊治療専門の病院には、治療費は自己負担であるのに連日朝から大勢の患者さんが訪れていました。働く女性にとって辛かったのは、病院が予約制ではなく先着順の診察だったこと。平日の午後から働く時間を確保するためには、午前中には診察を終えなければならない。そのために朝早くから並ばないといけないのです。

太田光代さん ©文藝春秋

 不妊治療には卵子の発育を促して、治療に使える卵子を一定数確保するために排卵誘発剤を使って卵巣に刺激を与える「排卵誘発法」という治療法があります。女性の体は通常のサイクルだと卵子は月に一個しかできませんが、卵巣を刺激することで、妊娠しやすい体質に変化させながら、一回のサイクルで複数の質のいい卵子を採るという方法です。体外受精をするにはまずは卵子を確保しなければいけないというわけです。

 私が経験した治療サイクルは次のようなものでした。

 まず、排卵誘発のために卵子が成長するタイミングに合わせて、ホルモン剤を月に1回、1週間ほど服用します。このホルモン剤が最初の“難敵”でした。私が飲んだ薬はまったく体に合わず、毎回つわりのような副作用に苦しめられたのです。

採卵針を膣内に…

 ホルモン剤を服用しているときは電車で一駅移動するのもひと苦労でした。特急なんかに乗ったら途中下車もできないから顔面蒼白になって、しゃがみ込んでしまうこともありました。そのときは、それまで何も気にしなかった食べ物や洗剤など匂いのするものが気になり、気分が悪くなるのです。

 いざ排卵日が近くなってくるとホルモン剤に加えて、排卵を誘発するための注射をしなくてはなりません。この注射から少し時間を置くと排卵が始まることになるのですが、卵子採取の時間から逆算して、夜間に病院に行かなくてはならないことが何度もありました。

 その後にいよいよやってくるのが「採卵」です。採卵針を直接、膣内に挿入するのが一般的な方法でした。当時は麻酔もなく、私には耐えられないほどの激痛を伴う治療でした。他の患者さんのエピソードとして、「痛みで暴れ回ってしまって看護師に押さえつけられながらなんとか排卵した」とか、「この痛みに耐えられなくて治療を断念した」といった話を聞きましたが、まったくその通り。とにかく痛い!

 採卵した後も下半身にズキズキした痛みや立っていられないほどの重い腰痛が残るのですが、それでも予定されていた仕事の時間はお構いなしにやってきます。

 1カ月のうち、グッタリしている期間が1週間以上あり、昼夜を問わず病院へと向かい、強烈な痛みに耐える日を乗り越えると、ようやく「受精に向けた治療」が始まるわけです。

 それで子供ができればすべて報われるのでしょうが、私の場合は受精すらできないまま時間だけが過ぎていきました。妊娠していないと告げられると、「ああ、またあのホルモン剤を飲まないといけないのか……」と重い気分になります。不妊治療を続ける女性に対して、これで仕事と両立しろ、というのはやっぱり酷な話なのです。

 その頃、唯一の救いだったのは太田の態度です。彼は私に労いの言葉をかけることもなかったけど、「今回はどうだったの?」と結果も聞かなかった。

太田光さん ©平松市聖/文藝春秋

 過度に気にされるのもまたプレッシャーです。細かく聞かれるよりは、何も言わないでいつもと同じように過ごしてくれる距離感が、私には心地よかったのです。そんなこんなで私は不妊治療を足かけ6~7年ほど続けました。しかし、当時の私は社長の激務もあり、かなり痩せてしまいました。お医者さんからは何度も「いつ倒れてもおかしくないですよ」と心配をされるようになり、もう「仕事」と「妊活」の両立は無理だと諦めるようになりました。

「不妊治療をやめます」

 2000年代に入り、タイミングがいいのか悪いのか、タイタンから所属タレントが2人同時にブレイクすることになります。「間違いないっ!」が流行語となった長井秀和くんと、『行列のできる法律相談所』で異彩を放っていた弁護士の橋下徹さんです。長井くんはタイタンに来る前からの下積み時代も長い芸人だったのですが2003年4月から日本テレビ系列で始まった『エンタの神様』ブームの波に乗って大ブレイクしました。橋下さんもちょうど同じ時期に『行列のできる法律相談所』の新レギュラーになるや、すぐに『笑っていいとも!』のレギュラーにも抜擢されたのです。その後、2人には出演オファーが大量に舞い込むようになりました。

 彼らの大ブレイクを機に「タイタンは爆笑問題だけの事務所」という業界の評価は変わっていき、会社は新たな成長軌道に乗りました。第二期の幕開けは間違いなくこの2003年頃でした。社長としての私は、会社がこれまでとは異なる成長のフェーズに入ったことを喜ぶ一方で、1人の女性としての私が感じていた正直な気持ちは、「ここまで仕事が忙しくなったのだから、心置きなく不妊治療を休むことができる」という安堵感と解放感でした。私は不妊治療をいったん中断することを決めました。

爆笑問題の太田光(右)と田中裕二  ©タイタン

 このタイミングでしっかりと「不妊治療をやめます」と伝えないと、お義父さんはいつまでも私に「孫の顔を見たい」と言い続けることになります。それはお互いにとって不幸なことです。

 時間を取ってもらって、太田と2人でお義父さんにこれまでの不妊治療の報告に行きました。太田の実家に向かう私たちの手元には一つの書類がありました。それは太田の精液検査の結果で、データ上では精子の量が同年代の男性よりも少なく、お互いの年齢も考慮するとなかなか妊娠は難しいだろうという医師の見解も添えてありました。

 太田家の居間に私と太田で並んで座ります。

「不妊治療を頑張ってきましたが、どうしてもできませんでした。それに検査もしたんですが、光さんの精子も少ないみたいなんです」

「うちの光に限ってそんなことはない!」

 これが第一声でした。憮然とした表情を浮かべたお義父さんは私の話を全然受け入れてくれないのです。でも、それ以上に驚いたのは、この手の家族会議ではいつも黙ってばかりの太田が毅然と言い返したことです。

「ちゃんと医者が検査したデータがあるんだよ。これは覆らないって。難しいものは難しいんだよ!」

「だったら仕事を抑えればいいじゃないか! まだわからないだろう」

「だから、もういろいろやったんだって」

「そうは言ってもだな……」

「それにうちは今、売れてるタレントが二人も出てきて、そっちもきちんと見ていかないといけないことくらい親父だってわかるだろう?」

 太田家では“超”が付くほど珍しい激しい応酬でした。本格的な親子喧嘩になりそうなタイミングで、援軍の義母も参戦してきました。

「あなたね、きちんと光の検査結果を見なさいよ。光代さんはあなたが孫の顔が見たいって、ずっと言い続けてきたから、頑張って何年も治療を続けてきたんでしょう。仕事だってこんなに一生懸命にやりながら。そういう努力をね、あなたは何にもわかっていないのよ!」

 お義母さんの渾身の一撃が見事に決まって、お義父さんは黙り込んでしまいました。とりあえず、その場は一件落着です。私たちの「最初」の不妊治療はそこで一区切りとなったのです。その頃、すでに私は30代後半になっていました。