老いを病と見立てれば、人間に寿命がある以上、人生とは必然的に病という不幸に向かって突き進む悲惨なる存在であろう。だから人々は、老いは病ではない、病ではあっても治療可能なものであるかのように好んで誤想し、医師もそんな幻想を振りまいて恬然(てんぜん)たるところがある。何だか、巨大な詐欺社会に住まわされているかのごとくなのである。
癌、心疾患、脳血管疾患などは、かつては老いにともなう固有の病だと受け取られてきた。加齢とともにある年齢を超えたあたりから発症率が加速度的に上昇するというのが、これらの病の統計的真実である。それがゆえに、これらはかつては「老人病」として運命的な捉えられ方をされてきたのだが、いつの間にやら「成人病」といわれ、あげくは「生活習慣病」と呼ばれるようになった。
成人になったら不健全なライフスタイルは改めよ、定期検診を怠るな、早期発見・早期治療に努めよ、医師はそう繰り返し、厚生労働省はもとより地方自治体の関連部署の指導がしきりである。職場健診はほとんど強要まがいである。医療ジャーナリズムもすっかりそんな気分になって安直な情報を流しつづけている。ライフスタイルの健全化や早期発見・早期治療などによって健康が増進され、ましてや寿命が延びることを証す、信頼できる検証データは、私の知る限り存在しない。
逆のデータならいくつもある。例えば、肺癌について、常習喫煙者群というハイリスクグループを万人単位集め、「くじ引き実験」(スクリーニングテスト)を行った実証実験がある。半数の人々には四ヵ月に一回の胸部エックス線検査などを実施し、何らかの異常が発見されれば医療的処置を施す。このグループを「検診群」とし、他の半数を医療的処置はまったく行わない「放置群」とする。それぞれの群の死亡者総数を六年にわたり経過観察するという画期的な実験が、アメリカのミネソタ州ロチェスター市のメイーヨークリニックにより、ジョンズホプキンズ医療研究所とスロンケッタリング癌研究センターの協力を得て、一九七〇年代初期に展開された。六年後の総死亡者数は「検診群」で百四十三名、「放置群」で八十七人、さらに実験を継続して十一年後の結果をも出しており、そこでは前者が二百六人、後者が百六十人であった。
世界で最も高い権威をもつ癌研究誌Cancer(一九九一年二月十五日号)にその実証実験の結果が載せられた。近藤誠氏の著作の中に同論文の巻号が記されていたので、私も図書館情報システムを通じてこの論文をすぐに取り寄せじっくりと読んだのだが、結果はまぎれもなく上記のような呆気に取られるものだった。この論文はその高い実証性により、アメリカはもとより欧州全域の医学・医療界に強い衝撃を与え、それまで頻繁に行われてきた肺癌検診のすべてを廃止に追い込んだ。
大規模スクリーニングテストは、スウェーデン、カナダで乳癌試験、アメリカ、デンマーク、イギリスで大腸癌を対象に実施され、いずれにおいても死亡者総数は検診群、放置群の間で統計的有意差はまったくない、という結果であった。
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