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超高齢社会における生と死

超高齢社会における生と死

文:渡辺 利夫

『神経症の時代 わが内なる森田正馬』 (渡辺利夫 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

 老人病に医学・医療が対抗可能か。勝ち目はまずなかろうと私は素人ながらみる。病といえばある異常なものが健康な自己の体の一部に取り憑(つ)いたものであり、これを排除すれば再び健康体に戻れるかのように考えがちだが、これは感染症などの急性疾患の話であって、老化にともなう慢性疾患にこういう思想で対抗すれば、おそらくは悲惨な結末に陥る危険性は大であろう。

「自己と他者」という心理学の用語でいえば、感染症とは自己への他者の侵入であり、対照的に、老人病とは自己の変化そのものである。自己変化をもたらすものは老化にともなって必然的に生じる遺伝子構造の変化であり、変化した遺伝子構造を元に戻すことが不可能である以上、老人病は不可避である。

 人は老いて病み、病んで死んでいく。致死率の決定的に高いものが老化による三大疾患だという統計に嘘はない。それほど長い人生が待っているわけでもない老人たちが早期発見・早期治療などという観念に取りすがっているのをみると、人間心理は何とも不条理なものだといわざるをえない。

 老いれば老いるほど生への執着が強まるという心理を私が理解していないわけではない。しかし、老いとともに深まる生への執着が現代の医学・医療に結びついた時には、人生の最期が過酷なものたらざるをえないという予覚だけは失うまい、と私は構える。

 医学・治療技術がきわだって高度化した現代に生きるわれわれは、癌をも努めれば排除できると思わされているようだが、そう思い込まされる一方で、どうにも助からない癌患者が周辺にいっぱいいることに気づかされてもいる。癌恐怖の強迫観念が蔓延するのも無理はないのであろう。

 

 森田正馬をしてこの事実についていわしめるならば、癌を恐怖するのは、自然生命体としての人間にとってごく自然な感情であり、「感情の事実」そのものである。自然感情の事実から解き放たれようと、はからう必要はない。癌恐怖は恐怖そのままでよい。恐怖する不快の克服を求めて癌検診を繰り返すような愚行が強迫観念の原因に他ならない。

 森田正馬は「不安常住」といい、森田の高弟の高良武久は「人間は不安の器だ」ともいう。神経症者とは、不安や恐怖を誰にもありうる当然の心理として、これを「あるがまま」に受け取ることができず、不安と恐怖を「異物化」し、排除しようと努め、はからい、そのためにますます強く不安と恐怖に囚(とら)われ、抑鬱と煩悶に貶(おとし)められた人々のことである。「死の恐怖」とは「生の欲望」の反面であることをありありと認め、死への不安と恐怖と共存しながら、自己の目的に沿うて生を織り紡いでいかなければならない、森田正馬ならそのようにいうはずである。

 

 私の『神経症の時代──わが内なる森田正馬』は、TBSブリタニカ(現CCCメディアハウス)から一九九六年に出版され、十回ほど版を重ねて多くの読者に迎えられた。出版後の三、四年の間は大きな書店にいけば書架におかれていたような気がするが、その後の十数年はまったく姿をみなくなった。この本が文藝春秋の「文春学藝ライブラリー」編集部の眼にとまって、何と復刊してくださるというではないか。

「もう一度、新しい読者を得てみましょうよ」と誘われた時の嬉しさは、そういわれた本人でなければわかるまい。

 

  平成二十八年 土用凪

(「文春学藝ライブラリー版へのあとがき」より)

神経症の時代 わが内なる森田正馬
渡辺利夫・著

定価:本体1,140円+税 発売日:2016年10月07日

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