あさのあつこさんの新捕物帳が誕生! お人好しの若同心・一柳直四郎と腕利きの従者・矢助が繰り広げる謎解きは、矢助の一言からはじまった。

「直四郎さま、死人が出ました」

 江戸を離れた2人は山々を歩き、真相を追い求める――。


三国街道 金井宿

その一

 筆先に墨を含ませる。

 硯の端で軽くなじませ、余分な墨滴を落とし、(ぬぐ)う。

 程よく墨が馴染んだ筆は、墨そのものよりさらに馥郁(ふくいく)と匂うようだ。

「今日も、よい」

 一柳直四郎(いちやなぎなおしろう)は呟き、頷いた。

 傍に誰かがいるわけではない。

 旅籠(はたご)屋の二階、庭に面した部屋には直四郎しかおらず、貧弱な松の枝に椋鳥(むくどり)が一羽、止まっているだけだ。

 誰もいなくて構わないのだ。いれば、むしろ邪魔になる。

 もう一度ゆっくりと墨の香りを吸い込み、帳面の上に筆をおろす。

 金井(かない)宿 と書く。

 

 金井宿は宿長三百間 脇往還三国(みくに)街道に沿って南北に延び 南端を用水が横切る

 水路は掘割し 登沢(のぼりさわ)二本樋(にほんどよ)より取水 屋敷の東西に用水を流したる 風情あり

 お役 拝命してより初の逗留なり 旅籠『菊屋(きくや)』に草鞋(わらじ)を脱ぐ 小体(こてい)ながら 主人 奉公人ともに愛想よく 小女(こおんな)に至るまでよく躾けられている 満足

 用水はよく整い 飲料 防火 牛馬用と様々に使われ 人の営みの基となる風あり

 一日の飲料としたるため 早朝より用水路の水をくみ上げる女子 (わらべ)の姿 殊の外 忙し気に目に映るなり

 

 そこまで(つづ)ったとき、椋鳥が「ケエーッ」とも「カーッ」とも聞こえる一鳴きをして、飛び立った。それが合図だったはずもないが、段梯子を上ってくる足音がやけにくっきりと響いてきた。用心深く一歩、一歩踏み締めるようでありながら軽やかな気配も感じる。そんな音だ。

 直四郎は筆を置き、記したばかりの文字に息を吹きかけた。墨が乾き、香りが薄くなる。薄いものは漂いやすい。あるかなしかの墨香(ぼつこう)が部屋の内に広がっていった。

「直四郎さま。よろしいですか」

「ああ、構わぬ」

 音もなく障子が開く。

『菊屋』は確かに奉公人の質がよく、膳の味も「おっ」と声を上げるほど美味かった。しかし、造りそのものは粗末だ。

 直四郎は関東取締出役(かんとうとりしまりしゆつやく)八州廻(はつしゆうまわ)りと呼ばれる職に就く。就いてからまだ二年足らず、十人いる八州廻りの内では最も若く、新参者だった。古参の者なら心得ている木銭(きせん)米代の支払いを出し惜しむ骨合(こつあ)いも、名主、村役人の家に上がり込み、もてなしをねだる駆け引きも身についていない。諸払いをできる限り抑えるために、安宿を見つけるぐらいがせいぜいだ。

 そこに不平は覚えない。もともと錦衣玉食(きんいぎよくしよく)を望んでいるわけもなく、これまでも(つま)しく暮らしてきた。だからなのか、『菊屋』のように費えのわりにまともな宿に当たると嬉しくなる。ただ、二階建ての古宿は掃除は行き届いているものの廊下も段梯子も畳も色褪(いろあ)せ、そそけ、家そのものが僅かに(かし)いでいる気さえする。そのせいで、戸の開け閉めには多少なりとも苦労がいった。開ける度にガタピシと音を立て、ちょっと雑に扱うと途中で動かなくなり、無理に動かそうとすると敷居から外れたりする。

 その障子がカタリとも鳴らず、滑るように開いたのだ。

 そして、一人の男が廊下に畏まっていた。

「……どうしました?」

 その男、矢助(やすけ)は心持ち顎を引いた。直四郎が真っ直ぐに見詰めていたからだ。

「あっしの顔に何かついてますかね」

 日に焼けた精悍(せいかん)な顔に手をやり、矢助は一度だけ(まばた)きをした。日の光を浴びても赤くなるだけでいっこうに焼け込まない直四郎としては、羨まし過ぎる肌の色だ。「一柳の肌は茹でた卵のようだな。妙に美味そうだ。気を付けないと食われちまうぞ」と同僚にからかわれたときは、さすがにむっとした。色白で目元が僅かに下がっている。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、精悍とも勇猛ともほど遠い顔様(かおざま)だ。せめて、矢助並みの程よい肌色になれたらと、隠れてため息を吐いたこともあった。

 ただし、今、目を見開いたのは肌の色とは関わりない。

「直四郎さま?」

「あ、いや、すまん。驚いて、つい……」

「驚く?」

「うむ。その障子をどうして、すんなりと音も立てずに開けられるのだ。まるで手妻(てづま)だ」

「そんな大げさな」

 矢助が苦笑いする。

「こういう古障子を開けるには、ちょっとしたコツがあるだけですよ」

「ほう、コツとは?」

「開ける前に心持ち押し込むようにして……あ、いや、そんなこたぁどうでもいいや。直四郎さま、死人(しびと)が出ました」

 矢助の口調が引き締まる。顔つきに似合いの物言いだ。

「殺しか」

「いや、見たところ首吊りで。宿の東側の林ん中でぶらさがっていたのを、畑仕事の百姓が見つけたって顚末なんで」

「ぶらさがっていたのは男か」

「へい。勝蔵(かつぞう)ってやつで、何でも近くの百姓の(せがれ)なんだとか」

 矢助は既に下調べを済ませているらしく、滑らかな返答があった。

「では有宿(ゆうしゆく)なのだな」

「間違いなく。帳外者(ちようがいもの)じゃねえです」

「だとしたら、おれの出る幕ではなかろうよ」

 直四郎は八州廻りだ。相模(さがみ)武蔵(むさし)安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)、常陸、上野(こうずけ)下野​(しもつけ)の八か国を廻村し、無宿、悪党を御領、私領、寺社領の別なく取り締まること、あるいは、農民への教諭を役目とする。とすれば、有宿、人別帳(にんべつちよう)に名があり、その地での仕事と暮らしを持つ者がどういう罪を犯そうが、死に方をしようが与り知らぬ……というか、迂闊に手を出していい類のものではなかろう。さらにいえば、わざわざ首を突っ込みたくない。それは余計な仕事を増やすだけだという本音も動く。まして、自死となると下手人がいるわけでもない。が……。

「……と言いたいところだが、おまえが報せに来たってことは、そうわかり易い筋書じゃないってことだよな」

 筆を置き、硯箱に蓋をする。

 矢助は軽く頷いた。この男の確かな(とし)を直四郎は知らない。直四郎が一柳家の養子となったのは七歳の折だが、そのとき既に矢助は奉公人の一人だった。上野のどこぞで生まれ育ったと聞いた覚えがあるが、どこぞがどこなのかは不明だ。明らかにするつもりもない。矢助は直四郎が八州廻りの役に就いてから、小者(こもの)として働いてくれている。実によく働く、重宝な従者だった。だから、生国など知らずとも一向に構わないのだ。

「その勝蔵とやらは賭場にでも出入りしていたのか」

 賭場絡み、博奕絡みとなると八州廻りの掛かりとなる。

 上野は養蚕、織物といった産業に恵まれ、草津、伊香保などの名湯を抱える。旅人も多く、幾つもの街道が通り、日銭を稼ぐ手立てには事欠かない。つまり、金銭の融通が利くのだ。賭場を開くにはうってつけの地と言えるだろう。かつては、他国から入り込んできた無頼が地元の百姓、町人を巻き込み大掛かりな賭場を開帳したり、どこかの百姓家の一間や空き蔵で隠れ賭博を開くという悪行が横行していたのも頷ける。

 文政十年、公儀が無宿や博徒(ばくと)の取り締まり、質素倹約の励行、農間余業の(ていげん)などを盛り込んだ御取締筋御改革(おとりしまりすじごかいかく)、後に文政の改革と呼ばれる改革が断行されて以降、耳目を引くような派手な賭場は鳴りをひそめた。とはいえ、隠れ賭場は昔より密やかに数多く開かれている。近隣の小金のある百姓、町人、あるいは旅人などは言葉巧みに誘われ、とことんしゃぶり尽くされるという寸法だ。中には田畑、屋敷どころか女房、娘まで全てを奪い取られた者もいる。

「勝蔵は博奕に手を出して、どうにもやりくりつかなくなった。それで思い余って……」

 そこで、直四郎は軽く肩を竦めた。

「ここで、あれこれ言っていても埒が明かんな」

「勝蔵が賭場に出入りしていたかどうか探ってみますかい」

 矢助が少し、前のめりになる。

「うん……。しかし、ただの首括(くびくく)りなら、おれが出張るのもどうかと思うが。郡目付(こおりめつけ)か村役人の裁量でどうにかするだろう。余計な口を挟まぬが得策だろうよ」

 ちらりと矢助を見やる。

「納得できないって顔つきだな」

「あ、いえ。そのようなことは……」

「誤魔化すな。何にそんなに引っ掛かってんだ? まさか、仏さんと顔見知りとかじゃないだろうな」

「全く知らねえやつですよ。引っ掛かってるのは人じゃなくて場所なんで」

「場所? 首を括った場所か?」

 宿の東側の林……。

「え? まさか」

「そのまさかなんで。脇本陣前の畔を東に進んだ雑木の林の中で、やっこさん、ぶらさがってたんですよ」

「そうか……」

 

 昨夜、直四郎たちはその林の中にいた。目指す先は、林の外れにある古蔵だ。いつ建てられたものか定かではなく、月明かりの下でさえ、壁の漆喰があちこち剝がれ落ちているのがわかる。これから夏へと向かう季節にふさわしく、木々は枝を伸ばし、若葉を茂らせ、濃い緑の匂いを発していた。

 直四郎たちが近づくと、雑木の陰から男が一人現れ、軽く頭を下げた。

「どんな具合だ」

 小声で尋ねると、男はかぶりを振り、手にしていた提灯を持ち上げた。

「蔵の中には誰もいません。(いたち)や鼠が走り回ってるだけでさぁ」

 しわがれた低い声でそう告げる。

 男の名は実之助(みのすけ)渋川(しぶかわ)金井(かない)白井(しらい)といった三国街道沿いの宿一帯で道案内を担っている。

 道案内は、行く先々で八州廻りの手先となり働く、江戸でいう岡っ引のような男たちだ。僅か十人の関東取締出役で関八州を取り締まる。誰が考えても無理があり、限りがある。道案内はそこを補い、助けるために選ばれていた。

 それぞれの地の裏事情に通じ、腕っぷしが強く、睨みが利く。かつては、いや、今でも博徒であり陰の顔役である者も少なくなかった。そうでなければ務まらない任でもあるのだ。公儀はしばしば、「道案内は身許(よろ)しき者から選ぶべし」との達しを出したが、遠く江戸の地から現知(うつつし)らずの命を出されても、無益な論でしかない。

 実之助も三宿に料理屋や旅籠を幾つか持って、飯盛り女を抱えている。女の売り買いにも深く関わっている風だ。ただ、博徒ではない。どういう経緯があるのか、実之助は博奕を毛嫌いしていた。

 実之助が吐息の音を零す。

「言い訳がましくなりますが、賭場を開いていたのは間違いねえようで。跡が残ってます」

「では、取り逃がしたというわけになるな」

 直四郎も短く息を吐いた。

 中山道(なかせんどう)倉賀野(くらがの)宿にいた直四郎のもとに実之助から急ぎの報せが届いたのは、この朝のことだ。手下の一人が金井宿の空き蔵で賭場が開かれると聞き込んできた。深く探る間がないがどうすればいいかと、指図を仰ぐ中身だった。

 倉賀野宿から高崎宿までは一里十九町。三国街道はその高崎宿で中山道と分かれ越後へと伸びていく道だ。金古(かねこ)、渋川に次ぐ三国街道三番目の宿駅が金井だった。

 急げば、宵の間に辿り着ける。

 迷いがないわけではなかった。今回の廻村(かいそん)では中山道に沿って新町、倉賀野、高崎、板鼻(いたはな)安中(あんなか)松井田(まついだ)、坂本の七宿を廻る手筈になっていた。金井宿に向かえば、その手筈から(いささ)か外れることになる。

 が、迷いは一時で消えた。実之助は用心深く、慎重な男だ。そういう者が人を使ってまで報せてきた。余程のことだろう。

 しかしと、直四郎は胸内で首を傾げた。

 なぜ、おれの居場所がわかった?

 八州廻りは場所先を明かさず廻村するのが建前となっている。悪党者に居場所を勘づかれれば取り締まりに障りが出るからだ。しかし、建前は建前に過ぎず、今は宿場、町場に腰を据えて、ろくな宿もなく食事もままならない辺鄙な地まで、足を延ばす者はそうそういない。ゆえに、八州廻りを探すのはさして難くはない。ただ直四郎は、そうそういない内の一人だった。遠方辺鄙な地を好むわけではないが、見知らぬ、これまで足を踏み入れたことのない土地には心惹かれる。草深い村であっても、小さな名もないような宿であっても、これまで知らずにいた営み、風景、人の有り様が必ずあった。そこが、おもしろくてたまらない。今回も、できれば碓氷(うすい)峠の先まで足を運びたいと密かに考えていた。

 倉賀野宿は日光例幣使(れいへいし)街道が分岐し、諸大名の通行も多い。百五十艘に及ぶ船が行き来する利根川舟運の終点河岸でもあった。高崎宿に次いで栄えている宿だろう。こういうところもそれなりにおもしろい。男、女、老人、子ども、商人、水夫、人足、武士、棒手振(ぼてふ)り、大店(おおだな)の主、門付け、御菰(おこも)……江戸とはまた一味違う雑多な人々があちこちしているのだ。見ていて飽きない。

 が、それはそれとして、実之助が、本来秘事であるはずの八州廻りの居場所に(あやま)たず文を届けてきたのには、些か引っ掛かる。

 引っ掛かりながら、倉賀野を後にした。

 それを解いてくれたのは、矢助だった。

 金井宿への道すがら、ちょうど高崎宿から三国街道に入ったあたりで胸の内の引っ掛かりを告げると、矢助は苦笑した。

「そりゃあ、道案内どうしの繫がりってものがありますからね。実之助は広く顔が利きます。直四郎さまの居場所を知るなど……」

「雑作ないことと?」

「へい。雑作ありませんよ。道案内には裏稼業の者が多い。こちらの与り知らぬところで、やつらなりの網を張り巡らせてるんじゃありませんかね」

「そういうものか」

「そういうものです。公事方(くじかた)勘定奉行さま、御代官やお留役のお指図が八州さまに届くより先に、道案内が中身を知っていたなんて話もあながち流言じゃないかもしれませんや」

「そんなにあっさり言うな。心細くなる」

「心細い?」

 矢助が主の顔をうかがうように、覗き込んできた。

「矢助、おれはこの仕事が気に入っているんだ」

「あ……へぇ」

 矢助が間の抜けた声を出す。珍しい。この小者はめったに表情を変えないし、口調を乱さない。驚くことも憤ることも、まして涙することもない。いつも、淡々としている。そして物知りだ。得体が知れないとか取っ付き難いとかと嫌う者もいるけれど、直四郎は大いに頼りにしていた。

義母上(ははうえ)はいろいろ思うところがおありのようだが、この仕事はいい。多くの場所にいけて、多くの者に出会う。おもしろくて、たまらない」

「はあ、なるほど」

「江戸に戻れば面倒仕事もあるが、こうやって廻村している間は好きに動ける。肩の凝る上役もいないし、気の張る先輩たちもいない」

「へえ」

「中山、三国、十石(じつこく)、沼田、日光例幣使、日光への脇往還……上野だけでも幾つもの街道があり、宿がある。そこをお役目で好きに廻れるのだ。おれには、この上なくおもしろいし、やりがいのある仕事だと思えているんだがな」

「ええ、確かに直四郎さまには合うていますね。ただ……」

「うむ。八州廻りの役目は村々を歩いて回るだけじゃない。無宿悪党者どもの取り締まりもせねばならんし、村人への説諭も綱紀粛正も役目だ。わかっている。わかった上で、おれは自分の役目に満足しているのさ」

 返事の代わりに、矢助はゆっくりと一つ首肯(しゆこう)した。

「けれどな。おまえの話を聞いていると、その気に入っている仕事の土台が緩んでいるようで、何とも心細くなる。足元から崩れてしまえば、どうなるのかと」

「……まあ、もう長うございますからね」

 関八州の取り締まりのために関東取締出役が設けられてから、既に二十年以上が経つ。

「人も、人の作った仕組みも家屋敷も同じ。年月が経てば古くなり、(いた)みも、腐りも、傾きもいたしやすよ」

「まあな。けれど、人の身体は若返らせられなくとも、仕組みや家屋敷は新しくできるだろう」

 実際、公儀は村々の繫がりを強め、無宿悪党を封じ込めようとする文政の改革とやらを断行している。が、屋敷をどれほど堅牢に直しても、土台が緩んでいてはいつか倒れる。そんな気がしてならない。

「あまり考えずともよろしいんじゃありませんかね」

 ぼそりと、矢助が呟く。

「うん?」

「この世の仕組みなんてのは、とどのつまりご公儀が決めてしまいやす。我々が手を出せる代物じゃありやせんぜ」

「あれこれ考えても仕方ないというわけか」

「有り体に言っちまいますとそうなりやすね。けど、直四郎さまなら、緩んだ土台の上でも十分にお働きになれますよ。心配はいらねえでしょう」

「それは、どういう意味だ」

「八州さまのお役目に向いているという意味でやすよ」

「そうかぁ。そうとも言い切れないがなぁ……」

 直四郎はさほど武に()けてはいない。むろん、武家の習いとして道場に通い、剣や体術の稽古には励んだ。そこそこは遣える。ただ、そこそこに過ぎない。いたって凡庸な腕前と言わざるを得ないのだ。

 ただ、馬には乗れる。弓も遣える。幼いころから馬と弓は天賦の才有りと言われていた。

 馬は跨れば風景が一変する。高く、広く辺りを見回すことができた。生きているものの温もりが、じんわり伝わってくるのも心地よい。弓は遠くに飛んでいく。遥か先の的にぴしりと当たったときの快気は他ではなかなか味わえない。とはいえ、直四郎としては天賦の才とはあまりに大仰だと思っている。剣と違い、馬も弓も稽古が苦にならないと、その程度に過ぎなかったからだ。

 馬で駆けるより、矢を(つが)えるより、(おの)が脚で歩き、己が目で見た諸々を書き写す。その方が余程、余程、おもしろい。性に合っている。

「八州さまに入り用なのは、腕っぷしじゃありやせんからね。文字算用に優れてないと務まらないお役目でございましょう。とすれば直四郎さまには、ぴたりと(はま)るんじゃねえかと、あっしは思いやすがね」

「うん」と、直四郎は素直に頷いた。

 矢助の物言いは丁重とぶっきらぼうの真ん中あたりの調子だ。柔らかいくせに、硬い芯が通っている。そのせいなのか、素直に耳を傾けられるし頷きもできる。もっとも直四郎は生来の素直で、物事を(しや)に見る性質(たち)ではない。仕事以外の場では、だが。

「それにしても、実之助がわざわざ報せてきたとなると、大物の賭場なんですかね」

 矢助が話柄(わへい)を変えた。

「大物……、さて、誰になるのか。文には何も書かれていなかったな」

 三国街道沿いの賭博、喧嘩渡世の誰彼を思い浮かべる。浮かんだだけで消えてしまう。大掛かりな賭場を開くなら、客筋は近隣の大百姓や大店の主、懐具合がいい旅人が主だろう。けれど、間もなく田植えが始まろうかという今は、百姓が一年で最も忙しい時期だ。首まで賭け事に浸かって、溺れる寸前ならまだしも、本分を(わきま)えている村人たちは賽子(さいころ)遊びどころではあるまい。世の表も裏も知り尽くした博徒が、野や田畑で小銭を賭けて行う野田(のでん)賭博ならいざしらず、人と金が動く大賭場を開くとは思えない。

「ともかく、行ってみよう。ここで、あれこれ思い巡らせても仕方ない」

「まったくで」

 直四郎は脚に力を込め、三国街道を北へと歩いた。

 しかし、金井宿での取り締まりは明らかなしくじりで終わった。

 蔵の中は文字通り空だったのだ。がらくたが散乱しているわけでも、壁や床が朽ちているわけでもない。草履のまま踏み込むのが躊躇(ためら)われるほど片付いていた。

「申し訳ありません。どうも、今夜、八州さまがお手入れすると漏れていたようで」

 上背のある肉の張った身体を縮め、実之助は肩を落とした。

「漏れた? それは、おかしかないか。おれが金井に着いたのは、ほんの一刻ほど前だぞ。それから軽く飯を食った。酒は吞んでいない。宿の親父ともろくに口を利かなかったし、それは矢助も同じだ。いったい、どこから漏れた?」

「あっしの脇かと思います」

 実之助がさらに身を縮める。

「八州さまをお呼びしながら、こんな顚末になってしまって……あっしの落度としか言いようがありません。何とお詫びすればいいのか」

「謝ることはないさ。大きな声じゃ言えないが、取り逃がしはままあることだ」

「へえ……」

「で、胴元が誰かはわかってないんだな」

「へい。今夜、この蔵で賭場が開かれると差し口がありまして、急ぎお知らせした次第で。倉賀野で八州さまをお見かけしたと、たまたまですが耳にしたものですから。八州さま抜きで、あっしが賭場に踏み込むわけにもいかず、お呼びいたしました」

「そりゃあ、ちょっと勇み足だったんじゃないかい、実之助さん」

 矢助が闇の中で身動(みじろ)ぎする。

「その差し口とやらを真に受けたのが、そもそも間違いだったとも考えられるぜ」

「いや、それはない」

 闇を突き破るような険しさで、実之助が言い切る。

「差し口してきた相手は信用できるというわけだな」

 直四郎はやんわりと口を挟んだ。

「そういうことで」

 一瞬前の険しさをきれいに収めて、実之助が答える。

「そいつは長年、あっしが手下(てか)として使っていた者で、頭の巡りも速いし探索も二人前、三人前を(こな)すことができました。あっしに紛い物を摑ますようなやつじゃありやせんよ。身体を悪くしてしまって手下を退きましたが、今でも時折、ちょっとした獲物をくわえてきてくれる重宝なやつです」

「何て名だ」

「いや、それは勘弁してくだせえ。もう堅気に戻ってるんで」

 堅気のやつが賭場について差し口するかと、突っ込んでやりたかったが、止めた。実之助は裏の稼業を知り尽くしている。些か危うい相手ではあるが、道案内としては、それこそ重宝な男だ。道案内と上手く付き合っていくのも仕事の内。厄介な道具を上手く使いこなせてこそ一人前だ。古参の八州廻りからさんざん教えられた。

「そうか。まぁいい。捕らえる相手がいないなら、ここにいても仕方ない。宿に帰る」

「本当に申し訳ねえことで」

 実之助が深々と頭を下げる。

「いいさ。飯の美味い、いい宿が見つかった。金井宿で一晩過ごすのも悪くない」

「恐れ入ります」

 頭を下げたままの道案内に背を向けて、雑木林の道を引き返す。矢助がぴたりと後ろについてきた。

「合点がいきませんね」

「うむ。わざわざ呼び寄せておいて、賭場が(もぬけ)の殻ってのはお粗末過ぎるな。そういう不間(ぶま)な真似をする男じゃあるまいがな」

「ええ、あっしもそう思います。何だかちょいと臭いますね」

「うむ」

「直四郎さまが四平太(しへいた)を残してきたのは、こういう結末を見越してですかい」

 四平太は(やとい)足軽で既に初老の域に入ってはいたが、めっぽう頑丈で粘り強く、人捜しや聞き込みにはうってつけだった。今回は思うところあって、高崎宿で待たせている。

「これから文を(したた)める。四平太に届けるよう人を手配してくれ」

「畏まりました」

 草履の下で若草が音を立てる。活きのいい草々の、活きのいい音だった。

 

 今朝は日の出と共に起きて、辺りをぶらついてみた。

 倉賀野や渋川、いわんや大河内氏八万二千石の城下町でもある高崎に比べれば、かなり小さく(まと)まっていて、木戸から木戸まで歩き通すのに苦労はいらなかった。家々の間口は広く、よく整えられた用水を澄んだ水が流れる。人々は総じて愛想がよく、働き者に見えた。早朝の風はやや肌寒いけれど、光は眩しい。

 心地よい場所だった。

 朝餉(あさげ)を済ませた後、手控え帳を広げる。目にしたもの、耳にしたもの、肌で感じたもの、諸々をゆっくりと書き記していく。

 この一時が楽しくてたまらない。

 江戸に戻れば評定所に出向き、御掛かりの留役に帰着の報告ともども廻村の経緯書や日録帳、諸払いの受取を差し出さねばならない。その日録帳とは別の、直四郎一己(いつこ)の手控え帳には、役目から離れて想いを気儘に綴っていけた。

 楽しい。おもしろい。墨の香りが芳しく、それも心を浮き立たせてくれた。

 そこに、首吊りの報せだ。急に禍々しい気配が差し込んでくる。

 仕方ない。それが(うつつ)というものだ。どんなところにも光と影がある。穏やかで美しい営みの裏には、ほぼ陰鬱で惨い現が張り付いている。

「あの林で首吊りか。しかし、それは、たまたまってもんだろう。それとも、その勝蔵という男は賭場騒ぎと関わりがあるのか」

「わかりません」

 矢助が短く答える。それ以外、答えようがないという顔付きだ。

 直四郎は立ち上がり、手早く裁着袴(たつつけばかま)を身に付けた。八州廻りは股引(ももひき)着用のこととの達しが出ている。しかし、股引に尻からげという(なり)で廻村している者など一人もいない。誰もが着流しだ。直四郎はさらに野袴(のばかま)か裁着袴を付ける。走るにしても馬に乗るにしても都合がいいからだ。関東取締出役は身分としては低い、いわゆる下っ端役人に過ぎない。余程のことがない限り馬を駆ることはない。むろん駕籠を使うことも禁じられている。馬や駕籠を使える身の程ではないということだ。ただ、自分の足で走る分には誰にも咎められない。

「よし、行くぞ」

 大小を腰に落とし込み、廊下に出る。矢助が「へい」と低く返事をした。

 林には薄く朝霧が漂っていた。冷えた風が首筋をなでる。その風に揺らされて、青葉の枝が微かに音を立てた。

 蔵の手前、木々が密に生えているあたりに数人の人影が見えた。

「関東取締出役、一柳直四郎さまだ」

 矢助が告げると、人々の気配がざわりと動いた。その中から、一つの影が進み出てくる。

「これは、八州さま。ここでお目にかかれるとは、幸いでございます。あ、わたしは名主を務めております庄之助(しようのすけ)と申します」

 貧弱な身体付きながら、みごとな福耳の男が腰を折った。

「死人が出たと聞いた。何事だ」

「あ、はい。実は村の者が……その、首を括ったようで……」

 庄之助の黒目が横に動く。

 藤の蔓が巻きついている小楢(こなら)と思しき木の下に(むしろ)が見えた。僅かに盛り上がっている。直四郎は近づき、筵をめくった。

 もろに目が合った……気がした。思わず瞬きしたけれど、相手の薄く見開いた両目はぴくりとも動かない。死んでいるのだから当然なのだが。

 首括りの(むくろ)は見るも無残な姿になるのだとか。首が鶴のように伸びるだの、舌が倍にも膨れ上がるだの、身体中の穴という穴から血を流すだのと、何度も聞かされていた。が、この骸は意外なほどまともだった。顔色こそどす黒かったけれど、血も反吐もきれいに拭われている。ざっとではあるが整えられた死に顔だ。

 直四郎は骸を丹念に調べた。顎の下から首にかけて、縄の痕が残っている。

「この仏はどこにぶらさがっていたのだ」

「あ、はい。この木でございます」

 庄之助が小楢を指差す。

「あの中ほどの太い枝で……」

 人の腕ほどの太い枝が張り出していた。人一人がぶらさがるには、長さも、太さも申し分ない一枝だ。

「首に縄を巻いて、あの枝から飛び降りたようでして」

「そう言い切れるのか」

庄之助が瞬きする。それから、眉間にあるかなしかの皺を作った。口元もほんの僅かだが、“へ”の字に歪む。見慣れた顔つきだった。

 直四郎は若い上に、童顔が災いしてさらに若く見られてしまう。前髪を落としたばかりの若者と間違えられるのもしょっちゅうだ。押しが利かないから、軽く扱われる。庄之助の表情にも、その侮りが一瞬(よぎ)って消えた。

「足元には箱や踏み台は見つかりませんでした。なので、飛び降りたと考えましたが」

「なるほど。それは理に合っているな。さすが名主だ。よくものを考えている」

 直四郎が感心すると、庄之助は眉間に皺を残したまま顎を引いた。からかわれているとでも思ったのだろう。からかうつもりも皮肉を口にする気も毛頭ないが、ここで名主と言い争っても益はない。

 問いを変えてみる。

「この男、勝蔵と言うのだな」

「はい。下之町(しものちよう)の本百姓、勝平(かつへい)の倅でございます」

「間違いないな」

「ございません」

「身内はもう呼んだか」

「はい。四半刻ばかり前に呼んで参りました。ちょっとした修羅場になりまして……母親が引き付けんばかりに泣き喚くので、あちらで休ませております」

 庄之助が指し示す方向に目をやる。

 青葉を茂らせた木の根元に黒い影が幾つかうずくまっている。その内の一つが、ぽんと弾けたように動いた。

「八州さま」

 その影、白髪交じりの髪を一つに束ねた女が駆け寄ってくる。四つ這いで地を這うような走り方だった。幼いころ読んだ草双紙の一葉が唐突に浮かんできた。呪いを受け、蜘蛛の妖怪に変化させられた老婆が獲物を求め、夜の江戸を這い走るというものだった。詳しい筋は忘れてしまったが、両手両足を地に付け、白髪を振り乱して夜道を走る老婆の絵は異様で恐ろしくて、泣きそうになった。いや、本当に泣いてしまって、実母から「()()が軽々しく泣くものではない」と手厳しく𠮟られた。怒った実母の顔も怖くて、涙はいっかな止まらず、大泣きした覚えがある。

 その、おどろおどろしい老婆の姿と現の女が重なってしまう。

 我知らず一歩、足を引いていた。

「下手人を捕らえてくだせえ」

 さらに退こうとした直四郎の袖を女が摑む。

「お願えします。倅を(あや)めたやつを捕まえてくだせえまし。何とぞ、何とぞ」

「おつい、止めないか」

 庄之助が女の腕を取り、引っ張る。しかし、女は袖を握ったまま離そうとはしなかった。むしろ力を込めて、縋りついてくる。こんな老女のどこにと驚くほどの剛力だった。

「わかった、止めろ。袖が千切れるではないか。千切れたら誰が直してくれるんだ。止めろって。ちゃんと話を聞くから、よくわかったから、だから離してくれ」

 女が顔を上げる。

 目が合った。

 今度は生きている者の目だ。無数の皺に囲まれ、涙で潤み、目頭に(やに)が溜まっている。

「ほんとけ、ほんとうに下手人を捕まえてくださるだか」

「……ともかく、聞くだけは聞く。庄之助」

「は、はい」

「おまえの屋敷を借りたいが構わぬか」

「えっ、八州さま、お取り調べをなさるんで」

「人一人が死んでいるんだ。なにもせず、片付けるわけにはいくまいよ。別に客間を貸せとは言わん。三和土(たたき)で十分だ。嫌か?」

「嫌だなどと滅相もないことです。どうぞ、ご案内いたします」

「というわけで、名主の屋敷でじっくり話を聞こう。えっと……おつい、だったかな。それでよかろう。納得できるな」

「あ、ありがとうごぜえます」

 おついが地面に額をこすりつけるように、平伏する。

 胸の奥が微かに疼いた。

 こういう場面が何より苦手だ。弱くて脆くて、縋るしかできない相手に縋られる。哀れ過ぎて、どうしていいかわからなくなるのだ。

 実母の典子(のりこ)からは「優しいのではない。ただの臆病者に過ぎぬ。情けない」と𠮟責されていたが、養母の奈津(なつ)は「それは直四郎どのの優しさに他なりませぬ。優しさは徳となります。大切になされませ」と(うべな)ってくれる。奈津はそれこそ、優しい気性の女人だ。典子とは三つ違いの妹で、直四郎にとっては叔母となる。気が強く、緩むことのなかった典子と血が繫がっているとは信じ難いほど、おっとりとした柔らかな物腰の人でもあった。

 しかし、何でも諾い、褒めてくれる奈津より、典子の方が事の本性を見抜く力は余程鋭かった。直四郎はそう思っている。

 優しいのではなく臆病なのだという、典子の指斥(しせき)は的を射ていた。直四郎は自分が哀れなものを真っ直ぐに見られないほど臆病だと、心得ている。

 それでも、今のところ、関東取締出役の仕事に障りは出ていない……はずだ。

「矢助」

「へい」

「仏さんが使った縄と首についた痕を仔細に調べてくれ。同じ物なのかどうかな。縄の出所も確かめてもらいたい」

 矢助の眉が心持ち、持ち上がった。

「……殺しを疑っておられるんで?」

「いや、ただな」

 直四郎は小楢に向かって顎をしゃくった。

「人一人をぶらさげる(・・・・・)分には申し分ない枝だ。ふっとそう感じたのさ」

「え……あ、ああ、なるほど。些か低いかもしれませんね」

 矢助は軽く点頭した。

 小楢の枝は長さもあり太さも十分だ。ただ、地面から五尺五、六寸ほど、六尺に足りないほどの高さではないか。ざっと見ただけだが、勝蔵の身の丈は五尺はありそうだった。枝に登って、下を覗き込めば地面にぶつかるようにも思えたのではないか。もう少し高いところにも手ごろな枝はある。ただ、五尺の男を担ぎ上げ、ぶらさげようとすれば、そうそう上まで登るのは難儀だろう。

「けど、死のうと決めた人間でやすからね。生きるのが当たり前のこちらには及びもつかない思案が渦巻いているのかもしれませんぜ」

「うむ、それはあるだろうな。それでも気になるところは一つ一つ潰していく」

「へい。それが直四郎さまのやり方でございますね」

「面倒なばかりで(はか)が行くやり方ではないが、な」

「いえ、意外に効き目はあると存じますが。他に何か?」

「実之助を動かして、勝蔵の身の回りを洗ってみてくれ。賭場に出入りしていたか、いなかったかも含めてな。おれは、これから婆さまの話をじっくり聞いてみる」

「わかりました。すぐに、かかりやす」

「頼む。よし、庄之助。案内してくれ」

「はい。畏まりました」

 庄之助は渋々といった風を隠そうともせず、小さなため息を漏らした。

 

 名主の屋敷は雑木林を見下ろせる小高い丘の上に建っていた。長屋門構えの立派なものだった。奉公人もかなり抱えているらしい。裕福なのだ。

 座敷に通そうとする庄之助の誘いを断り、直四郎は上がり(かまち)に腰を下ろした。三和土に筵が敷かれ、そこにおついが畏まる。

「改めて問う。雑木林で見つかった骸は、おまえの息子、勝蔵に間違いないな」

「間違いごぜえません。おらの息子で……ごぜえますだ」

 おついが(はな)をすすり上げる。野良仕事で雀色に焼け込んだ頰の上に涙の跡はついているが、先刻のように取り乱す風はなかった。

「勝蔵の身内はおまえだけか」

「おらと亭主とあれの姉になる娘がおります。亭主はもう二年も前から寝たり起きたりの病人で、娘は北牧(きたまき)宿の醬油屋に嫁ぎましただ。二人のややがおります。なんで……野良の仕事は勝蔵とおらとでやっておりました」

 ずずっ。洟をすする音が響く。

「ですから、八州さま。倅が首を括るなど考えられねえのでごぜえます。自分がいなくなれば家が立ち行かなくなると、よう、わかっておりましたから。あれは……親思いの優しい子で、これまで親を困らせたことなんぞ、ただの一度もありませんで……」

「つまり、おまえは勝蔵の自死には、何の心当たりもないと申すのだな」

「へい。何度でも申し上げますだ。あの子が、己で己の命を絶つような真似をするわけがねえのです。そんな素振りがあれば、おらが気が付かねえわけがねえで」

「では、殺されるような素振りはあったのか」

 おついが口を閉じる。唾を吞み込んだのか、喉が上下した。

「例えば、何かに怯えている風だったとか、落ち着きがないとか、いつもと違う様子があったかどうか、そう尋ねておるのだが」

 おついは表情を強張らせ、首を横に振った。

「昨日、これといって変わった様子はなかっただ。でも……女絡みかもしれねえ……」

「女? どこの女だ」

「わかりません。ただ、このところ、宵の口から勝蔵が出て行くことがちょいちょいあったで……それで、一度、問い質したことがごぜえました。どこに出掛けているんだと。もしや、賭場にでも顔を出していたら、とんでもねえことでございますから」

「うむ。母親としては当然の心配だな」

「で、ごぜえましょう。実は亭主の勝平が若いころ、賽子賭博にはまり込んで、大変な目に遭うたことがありますで。田畑を四半分ほど売らねばならねえ羽目になり、本当に難儀いたしました。今でも、あのときの苦労を思い返すと……」

「ああ、わかった。昔話はよいから、勝蔵に話を戻せ」

 慌てて、外れかけた話柄を元に戻す。おついがうなだれた。

「へえ……けんど、あのときの苦労など倅を失うことと比べたら、何程のこともなかったんだべな。しみじみ思うてしまいました」

「うむ……」

 こういうとき、どう慰めればいいのか見当がつかない。人生の場数を踏んでいないと、他人を慰めるのも励ますのもコツがわからないものだ。

「おつい、余計なことは言わんでもよろしい。八州さまに尋ねられたことだけをきちんとお答えしなさい。八州さまはお情けで、おまえの話を聞いてくださっているのだぞ」

 庄之助があからさまに咎める。そして、

「八州さま、お情けはありがたく存じますが、お忙しくもございましょう。程々の所で切り上げてくだされば、よろしいですので」

 と、やはり、あからさまにおもねってくる。少し、苛ついているようだ。

 自死とわかっている一件ではありませんか。とっとと片付けて、お帰りください。

 声にならない、言葉にしない庄之助の文句が耳に届いてきた。

「いや、待て。おれも関わったからには、納得できるところまでは聞き取る。日録として書き留めておかねばならんし、いいかげんに済ますわけにはいかん」

 ぴしりと言うと、庄之助は唇を突き出すようにして黙り込んだ。お茶の一杯も出してやるものかと、そんな顔つきだ。実際に、茶どころか白湯も出てこない。別に腹も立たない。不機嫌な名主は放っておいて、おついだけを相手にする。

「勝蔵には女がいたのか」

「間違いねえと思います」

「ときたま、夜に出掛けていたというだけで、女がいると断じるのは早計だろう」

「白粉の匂いがしましたで」

 おついが身を乗り出す。

「博奕なら煙草や酒の臭いはさせても、白粉の香りが移るってことはごぜえませんで」

「うん、なるほど。確かにな」

 ここでも感心する。涙の跡を残したおついの顔をまじまじと見詰めていた。母親というのは、とかく息子のことでは頭の回りがよくなるものらしい。

「それに、勝蔵は父親の博奕狂いのころを薄っすらとでも覚えているらしく、賭け事だけには決して手を出さないと、いつも言うておりました。だから……女の方だと、女に逢いにこそこそ出かけていたんだと、おらは思うております」

「玄人の女か」

「そうじゃねえかと……。曖昧宿の女にでも引っ掛かったのではねえでしょうか。堅気ではない、危ない女に関わり合ってしもうたのです。それで、それで……殺された」

 うーむと唸りそうになる。

 おついの話を聞けば聞くほど、あらぬ妄想に迷っているとしか考えられない。たった一人の倅が死んだ。その現を受け入れられず、(みだ)りな想いに逃げているのだ。

 そう考えはするのだが、吟味はここまでと打ち切る気が起こらない。この件にかかわるのは、関東取締出役の仕事の内なのかと訝る気持ちはある。急ぎ中山道に戻り、行程帳どおりに高崎、板鼻、安中と回るのが自分の役目だ。金井に留まるべきではないとも、よくよくわかっている。

 なのに、すっぱりと割り切れないのだ。

「その女とやらに心当たりはあるのか」

 問うてみる。おついは(しばら)く黙した後、「ごぜえません」と答えた。

「勝蔵が家の金を持ち出していたとかは、どうだ」

「そんなこたぁ、ありませんでした。家の金はおらが巾着に入れて持っております。倅が無心したことは一度もなかっただ」

「博奕はもとより、曖昧宿で遊ぶのだとて、そこそこの金はいる。家の金に手を付けていないなら、勝蔵はどうやって女と遊ぶ元手を工面したのだ」

「それは……おらには、わからねえだ。おらにわかっているのは、勝蔵が自分で死ぬわけがねえと、それだけですだ。だって、八州さま、数日前から、勝蔵は罠を作っとりました。四つも五つも作っとりました。山鳥を捕らえる罠ですだ。山鳥の肉は、旅籠や料理屋が買い取ってくれますけえ。たんと獲れたら、一羽分はおとうとおかあに食わせてやるなんて……おれが上手くさばいてやるなんて……そげなことを言うておったのに、笑うて言うておったのに……死ぬなんて、そんな……そんなこと、ありえねえだ」

 おついの細い身体が震える。抑え込もうとして抑え込めない情が身体の中を駆け巡っているようだった。前歯の抜けた口を開け、おいおいと泣き声をたてる。新たな涙が、頰を濡らした。

「おつい、落ち着かんか。八州さまにご無礼だぞ」

 庄之助が怒鳴る。直四郎は大きく息を吐いた。

「これでは吟味にならんな。今日はここまでとしよう」

「八州さま、お願えでございます。下手人をなにとぞ……」

 おついが手を合わせ、直四郎を拝む。庄之助がまた怒鳴った。

「いい加減にしろ。どこまで甘えるつもりだ。この件は、もう終わったことと諦めろ」

「いや、もう少し調べてみる」

 直四郎の一言に、庄之助の眉が釣り上がった。

「ほんとけ、ほんとに、八州さまが調べてくれるだか」

「ああ、もう二日か三日、金井に逗留することとしよう。おついの望み通りになるかどうかは受け合いかねるが、おれの気が済むまでやってみるさ」

 おついが深く、頭を下げる。

 直四郎は仏頂面の名主に、柔らかな笑みを向けた。