- 2022.06.13
- 書評
純粋なまま大人になることは不可能なのか? これは現代に生きる我々の物語だ
文:杉江 松恋 (書評家)
『飛雲のごとく』(あさの あつこ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
流れる水は、いつか濁る。
奥山にて岩走る清流は凜として冷やかであるが、それが集って川となっていくうちには砂を嚙み、汚れを招いて透明さを失い、やがて底の見えない大河となる。
人間の心もまた同じで、初めは結晶のように純粋であっても、中にいつの間にか滓(おり)が溜まり、曇っていくものである。それを成長と呼ぶのだという人もいる。
しかし、純粋なまま、清らかなままで大人になることは本当に不可能なのか。
難しいだろう、とは思う。だが、挑戦しないままで諦めていいものか。
あさのあつこ『飛雲のごとく』は、今まさに大人への扉を開こうとする若者が、自らの存在を賭けて難事に挑もうとする物語である。舞台は江戸時代に設定されているが、描かれる心情、登場人物たちの置かれた立場は現代を生きる読者の心を間違いなく刺す。
児童文学から出発したあさのあつこは、二〇〇六年に発表した『弥勒(みろく)の月』(現・光文社文庫)から時代小説も並行して書き始めた。シリーズがいくつかあり、『飛雲のごとく』を含む、小舞(おまい)藩を舞台にした連作もその一つだ。新里林弥を主人公とする長篇が三作、すべて初出は『オール讀物』で『火群(ほむら)のごとく』(二〇〇九年十月号~二〇一〇年四月号/現・文春文庫)、『飛雲のごとく』(二〇一八年二月号~九月号)、『舞風のごとく』(二〇一九年十一月号~二〇二〇年十二月号/文藝春秋)が発表されている。この他に小舞藩に生きる人々を描いた連作短篇集『もう一枝(いっし)あれかし』(現・文春文庫)がある。収録されているのは同誌二〇一一年三月号から二〇一二年八月号にかけて発表された五作だ。第一長篇とその後に続く短篇が書かれてからシリーズ再開まで五年以上空いていることに注目されたい。『飛雲のごとく』単行本を見ると、奥付表記は二〇一九年八月二十五日に第一刷発行となっている。
長篇第一作の『火群のごとく』は新里林弥という十四歳の少年の成長譚であった。林弥の身辺にはさまざまなことが起きるのだが、彼が自身の姿を見つめて本当の自分を発見するまでの過程が物語の中心線に置かれている。内奥との対話、喩えるならば心の純化が主題であったと言ってもいい。その第一作をベクトルが内に向かう作品だとすれば、第二作の『飛雲のごとく』は対照的で、外から入り込んでこようとするさまざまな不純物を心の中心から眺める物語なのである。入り込んでこようとするものは、間違いなく心を汚す。それを許すか、許さなければならないのか、ということが物語における最大の関心事だ。
前作『火群のごとく』に遡って説明しなくてはならない。舞台となるのは前述の通り、江戸時代に存在したことになっている架空の藩・禄高六万石の小舞だ。林弥の兄・結之丞が不可解な形で暗殺されたことが原因で新里家は減俸などの不幸に見舞われた、という前日譚がまず語られる。まだ十四歳の林弥は道場に通って剣の腕を磨く以外にできることはない。その日常と、小舞藩政を巡る策謀という非日常の出来事とに、不幸な形の接点ができてしまうのである。悲劇が起き、林弥の身にもある危機が迫った。
それを乗り越えて約二年、間もなく十七歳になる林弥が武士の成人儀式である元服を行う場面から『飛雲のごとく』は始まる。前作との違いは、ただ剣術修行に打ち込んでいればよかった少年期を脱し、間もなく社会に出てその一翼を担わなければならない年齢に林弥が達したことである。すでに親友の山坂和次郎は土木工事を監督する普請方の見習として働き始めており、道場にもあまり顔を見せなくなっている。三羽烏の一翼を担っていた上村源吾はすでにこの世になく、もう一人の親友である樫井透馬は江戸に帰って音沙汰がなくなっていた。その透馬が小舞藩に戻ってくることによって再び事態が動きだすのである。
作者は二年という時の経過を丁寧に描き、少しだけ背が伸びた林弥にはどのように世界が見えるかを読者に伝えていく。元服を済ませた林弥は、もはや少年ではいられない。それまで棚上げにしていた物事と向き合わなければいけないということを意味する。大人ならば見なければならないことがある。そして言えなくなることもある。