〈記憶装置〉としての向田文学
諸田 エッセイにもいろんな作品がありますね。
鴨下 エッセイっていえば、最近、向田さんの作品を読んでいて、「ああ、日記なんだ」と思うようになりました。思い出日記っていうかな、記憶が蘇ったのをずうっと日記につけていて、その日記を読むと向田邦子という人がわかってくるという仕掛けです。
諸田 たしかにご自分の記憶だけで書いていますよね。
鴨下 とくに全集で読むと、記憶がクロニクルになっているような感じがわかると思います。それと、全集には飛ばし飛ばしで読む楽しみもあるから、向田さんの発想法がわかってくる面白さもありますね。
諸田 向田さんは初めにドーンと物語を構築して、こういう面白い物語をつくりましょうという方じゃないですよね。記憶を「ねずみ花火」にたとえたエッセイもあるけれど、パチ、パチ、パチとうまく次へ連鎖していく。
鴨下 もうひとつ、全集を持つ良さは、全集を揃いで持つと自分の好きな時に読めるでしょう。その人生の折々に読むことが向田文学のとても有益な鑑賞法なんです。向田作品の朗読を演出したとき気がついたんだけど、一人で読むと「かわうそ」程度の短い小説でもちょっと手に余る。ところが何人かで読むとじつに面白い。つまり、自分のシチュエーションが変わると、その時々にまた違う面白さが味わえる作品なんです。
向田 私も、姉の作品は何度読んだかわからないけれど、自分の年齢とか生活のありようによって、感じ方がこうも違うのかと思います。今は全集のゲラを読んでいますが、また新たな発見があります。
鴨下 それはおそらく向田さんの計算で、同じ人が読んでいても、機嫌のいいときもあれば悪いときもあるし、幸福なときもあれば不幸なときもある。その時々に違うんですよね。それを許容するようにできているので、こんなに長く読者が絶えないんだと思います。筋は覚えているけど、読んだときの感動は毎回違いますからね。
向田 違うんですよね。若い三十代ぐらいの人から、引っ越したり結婚したりして本を整理しようかなと思ったけれど、やっぱり捨てられない。子どもができて読んでみたら、前に読んだときと全然違うというお手紙をいただくんです。
諸田 自分が母親を想うとき、向田さんのお母さんが夜中に鉛筆を削っているシーンがふと浮かんできたり。
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